海外在住何十年の後、伊豆の山に惹かれて古い家を買ってしまい、 埋もれていた庭を掘り起こして、還暦の素人が庭を造りながら語る 60年の発酵した経験と人生。

兵隊さんと一緒に学ぶ

簿記には全く興味はなかったが、将来のために登録した夏クラスは首尾よく取れた。
ところが、どうもクラスの場所が分からない。
コミュニティ・カレッジの住所と違う。学生課に聞いたら、やっぱり学校内ではなくて。近くの空軍の施設の中であるのだそうだ。

家の近くをドライブするとどこからでも見える大きなドームのある空軍ベース。
大統領が西海岸にやってくるときエア・フォース・ワンはここに降り立つ。かまぼこ型ドームは、規模がよくわからないほどデカく扉が開いていると、ヘリが飛びながら入っていくのだが、おもちゃのように小さく見える。

このベースの中で簿記のクラスは行われるのだが、最初の日はとても緊張した。ベースの入口は何も遮るものがない一本道で両側に関所がある。ゲートのバーが開いているので、そのまま通行する。帰りはゲートに車の列ができていた。おばちゃん、皆なんで止まっているか分からず、辛抱強く待っていた。

ゲートの直立不動の兵隊さんの横で、前の車がいったん停車しすッと出て行った。おばちゃんもとりあえず兵隊さんの横で止まる。それから車を出すと、兵隊さんの後ろにいたちょっと違った制服の兵隊さんが物凄い形相でわめきながらおばちゃんの車の前に飛び出てきた。

「なんでお前は止まらないんだ!」
おばちゃん、超怖かったが殺されてはたまらないので「だ、誰も止まれって言っていないよ?」
「お前間抜けか?こいつが止まれのサインをしてるだろうが!!」と直立不動の兵隊さんを指さした。

兵隊さんは、相変わらず直立不動でただし、左腕を斜め30度左下に差していた。
これが止まれ?そんなもん知るか。おばちゃん、ビビってたけどムカッついて

「サ・サ・サイン?それが止まれのサイン?
世界共通なの?私ボディサイン知らない」

エライさんは虚を突かれた顔をしてIDを見せろと言った。そしてぶっきらぼうに”行け”と言った。
おばちゃんは震えながら車を出した。ゲートで止められたのはそれ以降ほとんどなかった。

簿記のクラスの初日は50人くらいは入れる教室が満室で座れない生徒は、後ろで立っていた。私の前の生徒はどう見ても高校はでてます!兵隊やってます、というクールカットの襟足も青いお兄ちゃんなのであった。

観察すると、あちこちに兵隊さんらしいのが何人もいる。除隊したときに困らないように簿記を取るとしたら正しい判断である。

先生のテリーは複式簿記(Double Accounting)というのはなんでも2回記帳するのだ、2つの項目にまたがって記帳するとどっちかが間違ってもすぐわかるから。この2重記入が近代の会計を大きく変えたのである。

お前たちはこれから同じ数字を2つの項目に何度も何度も記帳することになる。DebitとCreditという二つの言葉で混乱せぬように。教科書とワークブックを用意して、チャプター1を読んでくるように命じた。

教科書は電話帳より厚くて重かった。ワークブックも同じお厚みがある。夏休みのたった6週間の間に、この教科書を全部済ませるのだ、できるか知らん。
チャプター1を読み通すのに辞書を引いたが、日本語辞書の経済用語はおばちゃんをますます混乱させた。


2回目の授業でテリー先生はDebit(借り方)Credit(貸方)という言葉に惑わされるな。
簿記では2つの言葉に英語の意味はない。ラテン語でDebit Creditというのは左側右側という意味だ。いいか、英語の意味を忘れろ。左側と右側だ。

なまじ英語の意味に囚われなかった(英語が染みこんでいなかった?)私はテリー先生の言うことを丸のみにするのだった。

クラスメートは軍人さんを含めてアメリカ人だったからどうしても丸のみにできない生徒もいた。
Debit借り方は ネガティブ借りじゃないか、どうして増えるとプラスになるんだ?Credit貸方はプラスなんだから増えればプラスだろ?なんで下がるわけ?
どうしても言葉の「意味」から離れられなかった生徒は最初の1週間でごっそり減った。

クラスの50席はところどころ空き始めた。テリーはものすごい有能な先生だった。教科書を解説して宿題を答え合わせしていく。生徒を指して行く。この答えは?次、この時のCreditは何を意味してる?次、、、。
次から次へ生徒を指して、生徒が分かりませんというと、何が分からないと質問し、口ごもるとすぐ次の生徒に飛んだ。1時間半の授業の間、緊張が途切れない。

宿題量もものすごい量で終わっておかないと、次の授業では置いてけぼりになってしまうので土日を全部つぶしてもワークブックをやった。テリーの言う通り、同じ数字を何度も何度も書くので人差し指はあっという間にペンだこができた。
毎週、生徒が減っていく。生徒が少なくなると、ますますテリーの質問が早くめぐってくる。質問に答えられてホッとすると前の席のお兄ちゃんの頭が目にはいる。

兵隊さんの頭の地図はすっかり見慣れて白人でもぶつけて怪我をすると、傷がハゲになるんだな。とか、うなじの白い肌にニキビができるとみっともないね。先週より増えたかも、とか。

ファイナル・テストの前になると、生徒はたった7人になった。もう、3分ごとに質問があてられる。
一秒も気が抜けない。最後の週のファイナル・テストが終わるとテストの点数なんかもうどうでもよくて終わってくれたことが嬉しかった。

おばちゃんは、このクラスのせいですっかり体力を使い果たし腱鞘炎と膀胱炎になってしまった。

パイポ・カナイナ 波乱万丈 人生記

森鴎外に「渋江抽斎」という小説があって、片っ端から本という本を読み漁っていたおばちゃんは、薄いな、と思って手に取った。鴎外だし品質は保証されているから、どんな物語が展開するのかとワクワクしながらページを開いたが、、、、、。

なんじゃぁ?これ。
地味~なおっさんの地味な人生を鴎外が検証してゆく。無味乾燥な文章から抽斎の人生を抜き出し解剖し再構成していく。ナニコレ?波乱万丈の人生?違うじゃん。ワクワクする急展開、無いじゃん。ああ、終わった。

カビくさいおっさんの人生はいくら鴎外が蘇らせても10代の娘にはちっとも面白くなかった。若い人間が読む作品ではない。
じゃあ誰が読むと面白いかといえば誰か知らんが、
一番楽しかったのは間違いなく書いていた鷗外だな。
読者としては格調高くなくていいから面白い一代記を読みたかったと思う。

おばちゃんの周りには一杯いたぞ。波乱万丈な言葉そのままの人たちが。
格調?それ食えるの?美味しいの?生き残るためにぎりぎりの人生を送っている人達に格調なんかいらない。下じもの人生に必要なのはしぶとさと生きるエネルギー。おばちゃんが見たしぶとい人たちはこうだった。

2世のパイポの名はハワイ好きでサーフィン好きのお父ちゃんの趣味でつけられた。
パイポ・カナイナ(仮名)
このカナイナ家はパイポと妹を除き、全員日本生まれで最初にアメリカに渡ってきたのは、パイポのお父ちゃんカナイナ家。

パイポの母とばあちゃんのケカウルオヒ一家。ケカウルオヒのばあちゃんは最初は日本で結婚し娘(パイポの母)をもうけたがその後娘と二人で渡米した。渡米後、ドイツ人と結婚してケーキ職人として働いていた。もう一系統カライママフ一家のおじいちゃんと出会って「結婚した」。

「結婚した」と書いたのは実はこのおじいちゃんが、日本に戸籍上の妻を残しておりアメリカに渡ってきたから。そこでケカウルオヒのばあちゃんと連れ子の娘と出会い再婚した。

ばあちゃんのドイツ人の夫がどうなったのか詳らかではないし、じいちゃんに日本の妻がいたからアメリカの婚姻届けはどうなっているのかわからない。

パイポはおばあちゃんと結婚したカライママフ爺を小さいころからおじいちゃんと呼でおり、考えると血はつながっていないはずなのだが、パイポにはおじいちゃんなのだった。おじいちゃんはビジネスでそこそこ成功しており、ばあちゃんと連れ子娘と一時期一緒に暮らしていたのは確かだが、その後ばあちゃんは別居しておもに娘のケカウルオヒと生活していた。

娘ケカウルオヒはパイポの父カナイナと大学時代に会い、まだ若いうちに結婚してパイポと妹のキナウを生んだ。高校時代にアメリカに連れてこられ、その後日本語教育も受けなかったので、お母ちゃんは英語の方が得意でパイポとキナウは日本語がほとんどしゃべれなかった。

しばらく親子4人で幸せな家族生活があったのだろうが、パイポが小学生の頃に離婚してパイポはお父ちゃんへ、妹のキナウはお母ちゃんと生活するようになった。お互いの家は近くにあるので、子供たちも頻繁に行き来していた。

パイポに言わせれば、お父ちゃんとお母ちゃんは嫌いあって離婚したのではなく今でもお互いが好きなのだが、どうも離婚するしかなかったのだという。パイポの幻想かもしれないがいつかはお父ちゃんとお母ちゃんが再婚するという夢を語っていた。

CAのおかあちゃんは稼ぎがよくて、それに目を付けたフィリピンのやさ男でしょっちゅう失業しているボーイフレンドが一緒に住んでいて、フィアンセと名乗っていた。かれこれ7~8年もフィアンセだったが、パイポはこのフィリピン人の寄生虫ボーイフレンドが嫌いだった。
家に行きたくないが妹のキナウと祖母ちゃんもいるので顔を出す。母ちゃんは稼ぎがいいけど給料が入ると、ボーイフレンドに乗せられてすぐ旅行や車にパーッと使って貯蓄というものができなかった。

パイポと一緒にいるお父ちゃんはどうだったかというと、お父ちゃんは人好きのする丸顔で陽気。誰でもすぐ友達なれる性格で人から好かれた。現地の日本企業の営業で、口は立つし売り込みがうまいのでいい成績を挙げるのだが日本企業の理屈に合わない旧弊な制度なんかにぶち当たると嫌になってしまいやめる。

そしてバイトで食いつなぎ切羽詰まってくると日系企業に就職してまた営業で成績をあげる。若いころに2Bのコンドミニアムを買っていたので、ローンは安く何とかパイポと二人暮らしていた。

パイポが中学生くらいになると、お父ちゃんが家を掃除しておけと命令する時がある。パイポはいやいや掃除をする。父ちゃんがガールフレンドを連れてくるのだ。父ちゃんは人好きがするからすぐにガールフレンドができて、ただあまり長く続く人はいなくて、いずれはお母ちゃんと復縁を夢見ているパイポにはガールフレンドはうれしくない。


ここにリーマンショックが襲ってきた。お母ちゃんのクレジット・カードの枠は一杯で、フィリピン男のフィアンセは自分の小遣い以外に稼ぐ能力がなく、お母ちゃんはシフトを少し削られて残業手当もなくなると、貯蓄はもともとないので、家のローンが焦げ付いた。

ばあちゃんも年金があるのかないのか、自分の生活が手いっぱいで娘と暮らしているのでローンの手助けは手に余る。じいちゃんは何回か助けてやったらしいがとうとう家を出る羽目になった。

父ちゃんもその当時付き合っていたガールフレンドが家賃を払えなくなり、でっかいラブラドールと一緒にコンドに転げ込んできたとパイポがこぼしていた。
パイポも犬が好きだから犬は構わないが、女ってなんであんなに沢山の服がいるんだ?山ほどの服がメインベッドルームに入りきらずリビングに積み上げられたんだという。

さあ、母ちゃんとおばあちゃんに妹のキナウはどこで暮らせばいいか。切羽詰まって、ばあちゃんが知恵を絞った。

アメリカにはシニア・ハウスという老人用の住宅があってこのシニア・ハウスの家を買う条件は年齢が65歳以上で金融資産が30万ドル以上なんて、条件が付いている。家の価格はずいぶん安いので自宅を売って老後は移り住む人がいるわけだ。
ばあちゃんは、むろん資産などないから買えはしないがシニア・ハウスに住んでいたが住人が亡くなった家に目を付けた。子供の相続人がいるのだが、不況のさなかで家が売れない。毎月施設共益費が別口でかかるので、子供が困っていた。住むには年齢制限がある。そこでばあちゃんが共益費+家賃を払うので住まわせてくれと安い家賃で借り上げに成功した。

ただ、このシニアハウスはゲートがあるのである。日本では理解しにくいが、コミュニティの住宅全部をフェンスで囲ってしまい敷地に入るには、ゲートが1か所しかない。人間の門番がいるか、リモートかパスワードを打ち込んでゲートを開けるしかない。あいにくこのシニアハウスは人間の番人がいた。

ばあちゃんは歳なので、文句なしにゲートは通過できるが、母ちゃんとパイポの妹は若いので門番に止められる。シニアハウスを訪問する子供孫は当たり前にいるが、毎日出入りしたらおかしいだろう?だから母ちゃんとキナウは車の座席の下に深く身を伏せてゲートを通過していた。フィリピン人のボーイフレンドはどっかに行ったみたいだ。

こんなシニアハウスで1年くらい過ごした後、お母ちゃんの給料も徐々に回復して市中のアパートに移った。パイポとそっくりな丸顔の妹キナウは運動神経がよく、サーフィンや新体操で優秀な成績を上げ新聞に載った。

パイポもローカルのUC大学に合格して、祖父ちゃんがお祝いに新車を買ってくれた。ただし、車の名義は100%じいちゃん。使わせてもらうだけ。うれしくて飛び回って喜んでいたパイポは10日後、絶望に突き落とされた。新車を引き上げられたから。

名義が100%じいちゃんだと、パイポが事故を起こしたとき、結局じいちゃんに責任がかかってくるのがわかってビビったじいちゃんは車を取りあげててディーラーに返し、その代わりに1500ドルの中古車をパイポにやった。
この1500ドルという金額が血がつながっているかいないかの微妙な線なんだな。

天国から地獄とは言わないけど煉獄あたりにひっかかったパイポはしばらく憮然としていたが、父ちゃんは絶対金を出してくれないので自前の車ができて満足するしかなかった。
父ちゃんは日本から進出してきたフードサービスの会社の現地マネージャーに収まり、美味しい汁を吸えるらしいので、大学を卒業したらパイポもそこに引っ張るつもりだった。

この辺でおばちゃんはアメリカを引き上げたのだが、日本のおばちゃんにパイポがメールでウチで働いていた在籍証明をくれないかというのでウチのペイロールだった銀行を教えてコピーを取らせた。

そして、コロナが襲ってきてフードサービスの父ちゃんとパイポ、飛行機業界のお母ちゃんが一体どんなことになったか?カナイナ家もケカウルオも子孫が増えたかもしれず、きっと波乱万丈の人生が続いているに間違いないと思う。

カリフォルニアを走る

おばちゃんは80年代にバイク乗りだった。黒のヤマハのRZに黒つなぎとブーツにフルフェイス。ゴキブリと言われて横浜の街を走っていた。日本のバイク乗りの夢は、果てしないカリフォルニアのフリーウエイをローライダーで走る映画イージーライダー。

あるいはハーレーが集合する聖地サンフェルナンドバーレーのベーカーズ・フィールド。テレビのシリーズCalifornia Highway Patrols「CHIPS」ではJoeか Ponchかどっちがかっこいいか話が尽きない時代であった。

おばちゃんは卒業祝いで買った黒の革ジャンにアメ横で買ったハイウエーパトロールのワッペンを縫い付け、いつかカリフォルニアで走れたら素敵!
などと夢を見ていたのであったが、、、、。

90年代に入ってすぐ渡米すると、ローライダーの夢はす~っっぱりと消えたのであった。あの人たちはちょっと違うのである。

体腔の薄いぺらぺらな胸をツン!としたら倒れそうなきゃしゃな日本人ではなくて、こめかみから顎までコワいひげを生やしてバンダナをし、胴がドラム缶くらい太く、くっそ重たいハーレーをたらたら転がしている人たちは、
あれは、ライダーというより出勤するためにこざっぱりした服を着てフリーウエーに乗り渋滞を辛抱強く走る人生ではなくモーターサイクルという人生/ライフスタイルを選んだ人なのである。ハンパじゃない人なんである。

ホコリ色の服を着て排気ガスを浴びながら、車の間をハーレーですり抜けていくライダーはモーターサイクルという人生を選択したんである。

おばちゃんたちはただでさえも、体格がきゃしゃで体力がなく、英語と交渉が人並み以下で肌に色がついてるアジアからの移民である。100%の自分たちではアメリカ社会に勝てない。120%の努力をしてやっとアメリカ社会で生きていけるかどうかである。タイヤ2輪のために追加の社会のハンディキャップを背負いきれない。

渡米してみればChipsのパンチョは太って中年のメキシカン丸出しのおっさんになっていてテレビのCMに出ていた。テレビで物の宣伝をしてんのよ!
ジョイスと待ち合わせをしたとき、寒かったので皮ジャンをひっかけてショッピングモールに行けば、左腕にChipsのワッペンが張り付けてあったのをすっかり忘れていた。

警官の詐称は確か罪になるのではなかったか?ワッペンを剝がせればよかったのだが、縫い付けたあったので建物に寄りかかって左腕のワッペンを隠した。こんなアジア系の女の子がどうして、Chipsのワッペンをしてるのか周りからおかしく思われそうで、気が気ではなかった。

おばちゃんの夢はガラガラと崩れ、バイクを買うどころかカローラやビッツの目立たない日本車に乗り中流の下であってもアメリカ社会で生き残っていくのが目標になった。

ハーレーに触れることもなく何十年、日本に帰国してみると日本のバイク文化は衰退し昔とは見る影もなかった。日本の道路はあぜ道のように狭く、広フリーウエイまっすぐをすっ飛ばすのとはまた違った走り方があるのだった。

ちまちまとくねくねと細い一車線の田舎道を走っていると、なんとなくまたバイクで走るのもいいなと思う。125㏄あたりの車高の高い軽いトレールなどで山の空気を切りながら走ってみたい。ただ、おばちゃんの自動二輪の免許はとっくに失効してもう一度取り直さねばならないのがネックである。

フリーウエイを走る

フリーウエイを走る土曜日の午後、南に下るフリーウエー5番の右から2番目を走っていたら、。一番右端の路肩にダークグリーンのセダンが止まっていて、30くらいの白人の男が後ろのトランクを開けていた。

アスファルトに金具が転がっているのを見ると、パンクしたのだろう。
お兄ちゃんはトランクから予備タイヤを両手で取り出すと、地面に縦にトンと置いた。お兄ちゃんが両手を離して後ろ向きにトランクの中を見た瞬間、縦のタイヤはそのまま転がり始めた。下り車線の車に向かって!

兄ちゃんの口が「O」の形になり、おじちゃんとおばちゃんも同時に「オー」と叫んだ。タイヤと65マイルで進みゆく我がホンダと距離は50ヤード
車は7~8台。
来るな!来るな!と叫ぶおばちゃんたちの願いとは正反対に、先行する車はひらりとよけ、タイヤは倒れもせず2車線を斜めにするすると横切って、我がホンダの右バンパーにぶつかって跳ねた。

白人のお兄ちゃんはその間中、「O」の形の口に手を当てていた。おばちゃんたちは当たった瞬間「Shit!」と叫び、跳ねたタイヤの行方には目をそらした。

うちのせいじゃないから。
仕事場についてバンパーを確認したらかすり傷だったので修理の必要がなくてよかった。

ある日、うちの女の子が泣きながら出勤してくるので、どうしたのか聞くと、こわかったんです!~。とすすり上げる。中古で買ったばかりのKiaのバンパーがフリーウエイでいきなりすっ飛んだのだという。

ボロKiaはスピードが出ないので、一番右側を走っていたのが幸いし、バンパーが路肩にすっ飛んでいったのだそうだ。バンパーがなくなってしまったKiaはなんだかジャンクのようだった。他のダメージを確認してみると前輪タイヤの2本がほとんど擦り切れていて、いつバーストしてもおかしくない。

買った中古屋に電話を電話をして、ボロKiaは擦り切れタイヤのまま引き取らせた。

カリフォルニアには雨がほとんど降らないので、アメリカ人は雨が降ると路面が滑るということもあまり自覚がない。その日は昼から霧のような雨が降り、午後に上りの5番に乗ったら4~5台前の右車線のシボレーがいきなり一回転して後ろ向きになった運転席のアメリカ人が呆然としているのが見えた。こっちだって、車線を変えて避けるので精いっぱいである。

降るのは雨だけではない。11月ごろには落葉が強い風にあおられてフロントガラスに張り付いた。小さい落ち葉はまだましだが、たまに白いビニール袋が飛んでフロントに張り付くことがある。ロングビーチの手前で張り付かれ、陸橋の下をくぐるとき風の向きが変わってはがれた。

何が怖いかって車は65マイルから75マイルで走っているのである。405でも5番でも4レーンから5レーンの車線を他の車も同じような速度で走っているのである。そこでいきなりビニールでフロントが見えなくなる。恐怖そのものである。

かといえば疲れて帰宅しようとする夜の10時半にいきなり前方車両の全レーンのスピードが落ち、ついには止まってしまった。夜だから前方が何やらほんのり赤い点滅の光が見える。ポリスがカーチェースのために全車両を止めたのだ。5番と405で一度づつ、ラスベガスの帰りの15番で一度。

15番は一本道でう回路がないから、1時間以上も炎天下の砂漠で待たされるのはひどい苦痛で、スタックした車列の中から中央分離帯を無理やり超えてラスベガスにUターンするセダンもちらほらあった。テレビの実況でカーチェースを見るのは他人事だが、自分が止められると果てしなく長い。

ニューポートビーチから内陸に向かう時に隣の車線にとんでもない車が走っていた。セダンの屋根に黒人のおっさんが胡坐をかき、両腕を後ろで屋根に付け55番方面に走っていった。

405で落ちたばっかりのセスナの隣を抜けたこともあった。落ちたてで煙もなければ消防車もまだ来ていなかった。

フリーウエイを走るときは、もし、こんな事態になったらこう車線を変えてこう避けると常にシュミレーションをしていた気がする。

混血と遺伝子サイコロ

日本人と欧米系の混血の場合、お尻の蒙古斑が若干薄くなるのよ。薄くなっても蒙古斑として依然とある場合が多く、時として事件になる。

蒙古斑の知識がない医療関係者や育児関係者にお尻の青あざを児童虐待と疑われて警察に通報されてしまい、ローカルの警察なども蒙古斑の遺伝的知識が無い時があると親は逮捕、子供も取り上げられて大変な事になる場合がある。

だから日本人の血を引いているなら蒙古斑を医学的に解説したプリントアウトなどを万が一のために用意しているものだった。蒙古斑はMongolian spotと言う。

Mix Race 或いは Mixed Race 公式的にはMultiracialと言うがおばちゃんの友達は何人も国際結婚がいたから、国際結婚から生まれたお子さんたちはMixedRaceだった。生まれた直後の身体的特徴はあまりあてにならず成長に従ってころころ変わっていく。

知り合いのお母さんは東ヨーロッパ出身で金髪だった。顔の彫は深くなかった。生まれたお嬢さんは小学校の低学年まできれいな金髪で父親の日本人の遺伝子はまるっきりで見えなかった。
小学生の高学年になるころには髪が暗色に濃くなっていき子供のころは目立たなかった目頭が純粋の白人よりはかすかに蒙古ひだを思わせるシェープになった。
東ヨーロッパはフン族とかアッチラに何度も蹂躙されたからお母さんの遺伝子にアジア系が残っているのかもね。

スカンジナビアン系と結婚した友達は二人の娘に恵まれた。やはり幼いころの方が髪の色が薄かった。同じカップルから産まれた姉妹なのに、二人の髪の明るさは微妙に違い、外出したときに二人の頭に手を同時に乗せると、明るい髪の方が明らかに温度が低いのだという。


目はヘイゼルから茶色またヘイゼルへと目まぐるしく変化し、お姉ちゃんはヘイゼル、妹は薄い茶色に落ち着いたそう。背の高さは日本人の血を引た。彼女たちの子供にはひょとしてスカンジナビアンの背の高さが遺伝するかもしれないね。

別な知り合いは黒人と結婚して男の子と女の子をもうけた。お兄ちゃんの方が黒人の血がよく出て、髪は少し伸びると天然のアフロになる。柔らかそうに見えるが実際はキシキシしていて絡まりあっている。


誰が教えたのでもなく、お兄ちゃんは小さなものを隠すとき髪の中に隠すのだという。便利そうでびっくりした。妹は生まれた直後の写真では日本人の赤ちゃんと言っても不思議ではない容貌だったわ。髪も直毛だった。

お兄ちゃんが育つと、しなやかな足は驚くほど長い。腰の高さが日本人と比べ物にならないほど、高い位置についている。運動能力は日本人のお母さんにはついていけない高い。

欧米の白人とアジア系のミックスはユーラシアンと呼ばれたりするがキアノ・リーブスのようなアジア系からも白人からも強烈に引き付けられるいいとこどりの当たりが出たりする。もちろんその反対もいるわけだが。つくづく国際結婚と混血子は遺伝子サイコロだと思う。

カリフォルニアの離婚

おばちゃんの周りでも色々離婚した。国際結婚で離婚へというカップルも多かった。2組に1組離婚すると言う統計もあるから日本よりはずっと離婚率が高いには間違いない。

当時の記憶だから法律の適応や細部については保証しないが、日本とカリフォルニア州の一番大きな違いと言うのは、「無過失離婚」だと思う。加州の結婚についての基本的な定義は:結婚は二人の合意に基づいて成立するもので片方がイヤになったら夫婦として成立しない。

これを知った時おばちゃんはナルホドと思った。片方が我慢して成立するような結婚・カップルはそもそもおかしいわけだ。

日本に帰国してびっくりしたことは、法律番組でXXの理由で離婚できるかできないか、相談があまりにも多かったこと。法律で規定された離婚理由が必要なの?法律的に離婚理由じゃないから出来ません、ておかしくない?

アメリカ人だって、離婚になるまで努力しないわけじゃない。普通に結婚カウンセラーとかセラピストがいっぱいいるし、でも努力の結果、片方がやっていけませんと結論した場合離婚を申請するのは致し方ないと思う。カップルと言うのは双方が慈しみ合って成立するものだと定義するから。

日本の法律の場合、カップルの片方がダメだと思っているのに離婚事由に当たらないから離婚はできません。結婚/カップルとしての定義が違うわけよね。片方がイヤでも結婚してなさいと。じゃあ、日本の結婚の定義とは何?一度婚姻届けを出した以上嫌になっても我慢しなさい。それが結婚というものです。罰ゲーム?

カリフォルニアで結婚を登録した場合は、確か離婚コートに離婚をファイルして離婚の条件(子供の親権や養育費、ジテーションや妻への生活費やいろいろ)を決めて成立したと思う。日本の協議離婚の方がよほど簡単だと思う。

米国での離婚がはるかに面倒くさいにもかかわらず、離婚率が高いということは自分の心に正直なのか?日本の結婚したままのカップルが多いのは、もしかしてどちらかな嫌なのに我慢したままの率が多いのだろうか?

離婚条件でもめるのがイヤだから、結婚前にプリナップprenuptial agreementにサインしてもらって或いは双方合意でプリナップを作成してサインすることが多くなったのだと思う。私の友人も結婚相手から差しだされたペーパーにサインしたから。

ただ、その時私が思ったのは彼女がサインをしたプリナップは結婚相手が一方的に作成したものであって、彼女に有利な条項は何一つないと推測できる。アメリカで自分が作成に参加同意していない契約書にサインするのはリスクのある行為だと思う。

結婚前のカップルでスイートな夢に浸っている状態で離婚時の条件を決めるのは何かとハードルが高い。でれでれ甘々なプリナップにサインして、離婚のとき条件で揉めるというのもまたアメリカによくある話かしら。

国際結婚あるある

おばちゃんが見た国際結婚のカップル色々である。
あくまで私見であって見たままである。

日本で米国籍と知り合って結婚し、アメリカで暮らしている国際結婚カップルの場合、米国内で知り合って国際結婚したカップルの場合を比べると、前者の場合が問題が多いようである。

カップルは女性が日本人である場合がほとんどである。
日本に住む日本人女性が来日した米国人と知り合う。そして結婚して渡米する。そこで自分が結婚したダンナがメキシコ系アメリカ人であって、自分の姑と舅が家庭内ではスペイン語を話している人たちであるのをその時始めて自覚する。
そういえば、姓がラテン系だった!

日本でいた時は英語の訛りに気がつかないし、肌の色も英語をしゃべっている限り白人と信じ込んでいる。ダンナは自分の卒業した高校・大学の話をしないし、給料が幾らかも教えてくれない。
移り住んだアパートは気が付いてみれば、ゴミゴミした治安のよくない場所にある。隣人もスペイン語を話す家庭が多い。

日本で知り合うと、米国人のステータスは分からない。どの程度の裕福層・貧乏層に生まれたか、教育程度とか、職歴とか、親戚とか:刑務所に行っているオジサンや従弟がいるかどうかとか。

子供が生まれてしまって、夫の現実が見えて愕然として何とかしなくちゃと職探しに行く。日本食レストランでサーバーとして働き、姑に子供を預けているので、子供はスペイン語を話し始めてる。
ストレスで倒れて入院しても保険がどうなっているのか、支払いがどうなるのか分からず、自分のバッグは入院中に盗まれた。子供が3歳になる前に逃げるように日本に帰ってきて離婚した。

あるいは、金髪で細身のアメリカ人に選ばれたのが嬉しくて、結婚して渡米したのはいいが、ダンナはその時点で無職だし(日本に来ていた米国人が帰国したら大体無職だわ)親兄弟は南部に住んでいて貧乏だった。
彼の英語が南部の訛りだなんて知らなかったし。彼はやっと会社に勤めるがなんだかんだ不満ばっかり言ってすぐやめる。
彼の同級生や知り合いは海外でプラプラしていなかったから、その間に順調にキャリアを積んでいて、スキルや経験ない彼に勧められる職はない。

日本人妻がたまりかねて知り合いの日本人の会社に雇ってもらうと、日本人の下で働くのが嫌なのか、文句ばっかり言って怠ける。気の毒で雇った日本人オーナーでもあまりにも仕事ができないので首にする。

米国内の日本人経営のビジネスに”妻のツテ”で雇われたアメリカ人が優秀である場合は少ない。米国なので英語教師で食っていくという最低技も使えない。
英語を話すからと言って誰もちやほやしてくれない。自国では教育と本人能力スキルの真実が明らかになってしまう。

日本に駐在・寄港していた軍属の男性と結婚した場合はもっと特殊だ。軍人は給料が安い。地位が上で給料が高い階級は日本人の女の子と結婚しない。
軍には軍属で使うサービスがあって、日常の買い物や保険や医療など、軍属が使えるネットワークがあるので給料が安くても軍の中だけで暮らすことが可能だ。いずれ除隊するときまでに教育カリキュラムを使って資格を取ったりして一般社会で就職できる、優秀であれば。

同じ軍属と結婚した日本人妻同士が知り合って、ミリ妻とネットワークを作っていたりする。やはり特殊なステータスであって駐在員の奥様軍人との国際結婚であるとしゃべったら、口をきいてくれなくなったと泣くミリ妻もいた。離婚率は高い。

日本にやってくるアメリカ人男はえてしてアメリカ人女にヘキヘキしている場合がある。アメリカ女でなければ誰でもいい。あるいは英語をしゃべるだけでちやほやしてくれる日本人女!自分の言うことを何でも聞いてくれる日本人女、楽勝。本国では、ああせい、こうしろ要求と自我が強いアメリカ女の相手にほとほと疲れているから。

何もdiscussionしなくて言いなりになりかつ尊敬してくれる女性を手に入れて有頂天というのもあった。英語をしゃべるだけですごく尊敬してもらって、右も左も分からぬアメリカで、たった一人頼れるのはアメリカ人の夫。

いままで受けたことがないような全幅の信頼を受ける誇らしさ。自分がなにか大いなる庇護者になった気がするアメリカ男。
パスポートもグリーンカードも取り上げて、買い物も一緒に出かけ、金は絶対持たせない。自分が妻のすべてをコントロールする全能感。
日本人同士のおしゃべりに出かけてもダンナが迎えに来る。まったくのかごの鳥で、彼女自身もこれはちょっと異常なのではないかと思い始めていた。

大体は、ダンナが本国でそれほど稼げる学歴資格も職歴も無いのが発覚し、幻想が色あせる。かごの鳥から飛び出して自分で働けるようになると、ダンナの本性が見えてきてうまくいかなくなるカップル。子供でも生まれたら最後である。

アメリカはアメリカ人の子供の出国に敏感だ。アメリカ人の子供はアメリカに属しているので、離婚しても日本に連れ出すのは難しい。
親権をとるためにはまず市民権を取らねば同等に戦えない。
離婚裁判でも女性に経済力が無ければ、ダンナに親権を取られてしまう。日本人女性が親権をとるのは難しい。国際結婚で子供をもうけたら日本に帰れないと思ったがいい。

日本人同士の結婚であっても離婚率は3組に1組とか言われる現在で、文化・習慣・社会が違う国際結婚はシンドイ。
社会で戦って、夫婦で戦って、育ってきた子供と戦って。
日本に来ている外国人の本当の素性と能力を見抜く力はあなたにあるだろうか。英語をしゃべることや外見に夢を見てはいけない。
あこがれの米国に着いたら正反対の現実にぶち込まれる場合もある。

United フライト3411

April 9, 2017 
ユナイテッド航空機からアジア系のきゃしゃな乗客がシカゴの警察官によって飛行機から引きずり出される映像が世界中に流れた。
おじちゃんとおばちゃんは映像を見た瞬間、お互い目を見合わせこれぞ千載一遇の瞬間!と同じことを思った。アメリカ生活が長すぎたんである。

このベトナム系のDaoというおじさんは生涯もう金に困ることはない、ユナイテッドが大しくじりをしたんである。
男性が67歳ベトナム系アメリカ人のドクターで、きゃしゃでまったく抵抗せず警官が彼を座席から引きずりだすときに鼻の骨を折り、歯を2本なくし裂傷を負い、血を流す動画が撮影されてしまった。被害者としてのプロフィールは100%完璧。

彼の入院した病院には全米から弁護士の電話が殺到したであろう。彼の自宅にも弁護士が押し掛けたであろう。 Contingency成功報酬でやります!ぜひうちの事務所へ!誰もが同じことを思った。

これだけ完璧な動画という証拠があると、ユナイテッドのレギュレーションなど吹っ飛ぶ威力がある。ユナイテッドのCEOはOscar Munozが次の日「オーバーブッキングによる乗客の退去の手順に従っただけ。乗客は反抗的で好戦的だった」声明を発表して世論に火を注いだ。

ユナイテッドの株価は0.2%落ち、2日後にユナイテッドは許されることではなかった。と謝罪した。大統領のトランプさえユナイティッドを批判した。

事件からたった半月で2017年4月27日ユナイテッドとベトナム人ドクターDaoはamicable settlement 友好的和解をしている。和解額は不明だ。

これほど完璧な被害者=原告もないし:もし、被害者が何か瑕瑾がありそうな人物だったらユナイテッドがまず徹底的に洗っただろう。そして若いころの逮捕歴とか麻薬の使用歴とか穿り出して、世論に対抗しようとしたかもしれない。
でも、このDaoはドクターで、華奢、無抵抗でこれ以上ないという理想的な被害者でPlaintiffなんだわ。ユナイテッドのような一流企業は弁護士も超一流がついている。ちょっとした事故では市中の弁護士などユナイテッドに歯が立たない。

この時は、アメリカの成人人口の2億6千万くらいが「やったな!」と思い
120万人くらいが、「チクショウ!どこの弁護士が取ったんだ?こんな美味しい案件」と悔しがり
3千人くらいのユナイティッドとシカゴ警察関係者が、早くSettleしてくんないかな?と頭をすくめていたと思う。

長引けば長引くほど動画が繰り返し人の目に触れ、陪審員裁判になったら、懲罰的賠償金額がどんだけ吊り上がるからユナイテッドの関係者と弁護士は気が気でなかっただろう。二桁くらいかなぁ?

アメリカに行ってすぐ覚える日本の教科書に出ない英語第一。
「SUE」「スー」この上なく覚えやすく脱力するような優しい響きだ。
スー なんだか抜けてた発音ね?と言っている間はアメリカになじんでない。

I sue you と言われたら So, do Iとでも返せるようになってThen, see you in the court.で一人前。間違ってもテニスなんかやらないよ。

人種差別

人種差別はあったかというと、いろいろ人間の区別もあったし、移民の我々からすると、そんなことをいちいち気にしていられないというか、。
アメリカのメインストリームはやはり白人なので、訴えるにしても白人以外が白人を訴えるという図式がよくある構造だった。

デニーズで席に案内されるのを待っていて遅いから早くしてくれないといった中国系の男性にデニーズの従業員がそんなに待てないならお向かいのチャイニーズレストランに行けば?という発言をして訴訟になった。
デニーズに勝ち目がなさそうで何ミリオンで決着がつくのかという噂になったから、まともなアメリカ市民は人種差別を連想させるような表現は避けていた。

日系の3世のおばちゃんたちは他人種の客のことを
Who are they?とは聞かず
What’s language do they speak?と聞いた。
もし、口が滑ったらやられるかもしれない。

珍しい例だが日本の寿司屋が人種差別と白人から名指しされることがあった。経営者が日本人で、評判を聞いて白人が入ってくるとすし飯がなくなったから今日は店じまいというのだそうだ。オーナーに親しい人から言わせると、そんなことは一言も言ってないと否定するのだが。

アイ子ちゃんとアメリカ人のご主人が晩御飯を食べに行って、ご主人がカリフォルニアロールを頼んだら、オーナーが怒ってそういうものは置いてないと機嫌が悪くなったのは事実。

一番の人種差別・人間差別があったところ。
それは合衆国政府の役所:移民局だった。今思い出しても腹が立つ!

永住権の最終段階で移民局から指紋の採取に出頭せよとハガキが来て、LAの移民局の場所と日時が指定されていた。ほとんど着ることもないジャケットを二人で直用し、待ち行列が長いよと脅かされて2時間も前に到着したところ、3ブロックぐらい離れた専用駐車場から延々と色のついた人達が
歩いてゆく。誰もジャケットなんか来ていない。

政府のビルが見えてくると、人の行列がビルを何周にも取り巻いていた。おばちゃんたちは時間を指定してあるハガキを持っているので、迷わずビルを入り列の先頭に行こうとするのだが、まず、ビルの入り口で追い払われた。本当に追い払われた。

アポがあるのだとハガキを見せるのに、列に並べ。ハガキがあっても並べ。しっ、と言われビルを出されて今来た道を戻って、さらに道にまではみ出した行列の最後尾についた。

何度ハガキを見てもアポのハガキなのに。列はじりじりとしか動かず、追い出されたビルの入り口に再度たどり着くまで2時間かかった。

やっと内部に入ると、ゴールデン・ウイークのディズニーのようにロープを張り巡らして、その行列の先がどこの窓口に行くかもわからない。アポの時間は迫ってくるし、誰かに聞くための窓口に行くために、誰かに聞かねばならないのに、その誰かも窓口もわからない。

ロープで仕切られていないフロアを行列とは違う政府職員の白人が通っていくので、思わずロープをくぐって二人組に呼びかけたのが、驚くべきことに私は透明人間だった。
ハガキを見せているのにも関わらず、声をかけているにも関わらずまるっきり人間がいないものとして扱われたのは人生初だった。

屈辱に顔が赤くなって又行列に戻りさらになん十分も待って、最初の窓口についた。ハガキを見せるとオマエラはあっちの窓口と指をさされる。この時は腹が立つというより、早くアポに行かねばと焦っていてこの列に並べっといったのはオマエラだと言い返すこともできず。

ガラガラの窓口では黒人のおっさんと隣の窓口のおばさんが噂話か陽気に笑っており、誰も並んでいないのでおっさんにハガキを出すと、いきなり表情が変わって仏頂面になってなんだと顎をしゃくられた。


フン、指紋をとるから右手を出せいい、おばちゃんが手を出すと不潔なものでも触るように手首をつかみこのパッドに指を乗せろ、おばちゃんの指をつまんでインクパッドに押し付け採取用の紙にぐりぐりと押し付けるのだが、プリントの付き方が悪いらしく、チット舌うちをされた。

10本の指紋をとるのに、何度も舌打ちをされた。
アメリカに来て以来最も人間扱いをされてない不快な体験だった。この指紋採取が終わればおばちゃんたちは面接を免除されているので晴れて永住権が取れるのだが、隣のロープの中を延々と進んでいる色のもっと濃い人たちは申請の過程、その過程で問題がある人、返事が来ない人、ステータスを聞くための人で、永住権からまだまだ遠い人達なのだった。

たまにその列の中に、白人と別人種の女性がカップルでいることがあり、その白人の男性が職員に聞いたり食って掛かったり、おばちゃんがやられたような透明人間の扱いではなかったが、やはりケンもホロロ、つっけんどんに扱われていた。

アメリカ人が他国人と結婚して移民局で妻の永住権手続きをしようと、政府職員とよくケンカになる。妻のことを人間扱いしないので口論になるのはよくある話だと知った。

この政府のビルの中では唯一はっきりしたルールは、窓口の中にいるのが人間、窓口の外に並んでいるのは人間以下。アメリカで永住権の申請過程にいる人はまだ人間ではない。

移民局での経験を経て永住権を手にしたが、アメリカ人と同等になったわけではない。法的な身分は持てたが、
今度は別なハードル:


へたくそな英語、なまりのある英語、教育程度、
社会的な信用度、安定した職、資産の額、自宅


などの人種以外の壁が立ちはだかっているのだ。それらのハードルを戦って超えていくことがアメリカで生きていくことだった。

アメリカ社会での生活が長くなってくると、小さなことは気にしていられないが、相手をみて言葉尻をとらえれば訴訟に持っていけなくない場合もあることに気づく。それをチャンスとして考えるかは人それぞれ。

デニーズの件もそうだ。
実際向かいのチャイニーズレストランに行けば?というのは人種差別というより待てないお客に嫌味を言ったというレベルだが、相手が全米チェーンのレストランでDeep Pocketだと思えば一つやってやろうかと思うのも理解できる。
別に中国人だから中国レストランに行っておかしくもなんともないが、嫌味を言われて相手が白人で自分が黄色なら人種偏見だとゴネられると思う。相手がパパママレストランなら大した金が取れないなら誰もやらないだけ。

アジア系の人口が多かったけれど、裕福で安全な街だったので、ひどい差別があるというわけではなかった。貧しい南部の州などはアメリカのもっと深い暗部が潜んでいたであろうとは思う。

アメリカの医療

洗礼

病院のベッドにヘロヘロで横たわっていた時、備え付けのテレビが映していたのは、オームに突入している警官だった。不吉だと思った、こんな時に。

そのあとに流れたのは、医療ミスのニュースで右モモを切断するはずが、左を切断されてしまった。こういう右左の取り違えはよくあるのですね。だから、自分の疾患が左右のどちらかだったら間違っている方にこんな風にバッテンをしてWrongSideと書いておきましょう。レポーターがマジックをもって、自分の足にバッテンを書いていた。 縁起でもない。

おばちゃんは脱水とメタボリック・アシドーシスを起こして、救急病院に運ばれたのであった。直接の原因は膀胱炎と日本製の膀胱炎治療薬のせいであったが、飲みすぎで肝臓の数値はかなり高くなっていたらしい。

バイタルとられて血液検査の結果を見てERのドクターは処置室に飛び込んできて「なんでこんなに飲むんだ!」と無礼なことを叫ぶので、おばちゃんもかっとなり、
「曰く言い難し!」と言い返したら、カルテに反抗的と書かれた。

患者が死にそうでないとわかったら、アメリカの病院では必要なコードをつけて転がしておくだけである。その晩は日曜日・母の日で救急病院も大忙しであったから、おばちゃんは廊下の端っこのベッドで転がされていた。


脱水がひどいので一日補液をしたほうが良いからと個室に移れた。おばちゃんは渡米3年目でアメリカの医療制度をまだよくわかっていない。そんなときにテレビに映ったのがニュースがオウムと医療過誤。

アメリカの病院のガウンというのは、なんというか人間の尊厳を覆う衣料ではなかった。コットンでできた半そでのかっぽう着みたいなもん。後ろはひもで結んであるだけ。ガウンの下は素っ裸。大柄なアメリカ人のおっさんが超ミニの水玉のかっぽう着で、IVのスタンドを持ちながら廊下をガラガラ歩いてくのが見えた。後姿はお尻丸見えである。

そのうちERで私に怒鳴った担当医がやってきて、膝を立てろだの、右わき腹が固いだと言ってお前知ってるかガンマGTPが900越えだとかぬかすのである。おばちゃんのアシドーシスのきっかけは膀胱炎だったのだから、抗生物質を処方してくれと頼んだら、なんということか、退院した後にかかりつけに見てもらえと。おばちゃん憤然であった。

退院してかかりつけ(Primary Ccare Physician)に電話しても混んでいれば予約がいつになるかわからない。なんつー血も涙もないドクターか。

夕食はナースが注文を取りに来て、メインディッシュはチキンか魚かチョイスがあるのであった。運ばれた夕食は、昔の映画で出てくるような大きな半円形の銀色の覆いがかぶさっているのであった。味はそれほどまずくない。星は3点。

浮袋ほど大きい点滴を2袋も打たれて、B12の無痛化されてない注射をお尻に討たれた後、退院となった。退院の前にはまたナースがやってきて、
ディナーのパンは付けました?朝ごはんの時のコーヒーはお代わりしました?おばちゃんは、こまケェな?と退院したのであった。

1週間後、血液検査ラボやガス検査室やらERドクターやら病院やらから、請求書が続々と舞い込み始めたのである。この請求書がいつ止まるのか、おばちゃんは真っ青になった。

アメリカの健康保険

おばちゃんは何故いろんな請求書がラボやERのドクターや病院から別々に来るのか分からなかった。ナースの看護費も別で請求が来るのか?救急病院に入院したのだから、病院が一括して請求するのではないか?

救急車料金も別だった。救急隊員からサイレンを鳴らすかどうか聞かれた。鳴らすと高くなる。

距離のマイレージもかかる。健康保険と提携していない救急車だと、保険でカバーされない。病院の入院費は一晩700ドルだった。

明細にBedpanレンタル1.50ドル。こんな単語を目にすると思わなかった。
まさかと思って辞書を引いて単語確認したけど、私はおまるは使わなかった。ナースの間違いである。
いつ、治療費の全貌が分かるのだろう?

最終的に医療費の総額は$2700となった。う~~ん。う~~ん。おばちゃん、補液されて寝てただけである。ビタミン注射が一本である。膀胱炎も治療してもらえなかった。

アメリカの健康保険は100も200もあり、制度もHMOやPPOは1回聞いただけではさっぱりわからないほど奇々怪々である。

似ているものとしては車の任意保険かもしれない。まず、補償限度額があり、自己負担の免責額があり、免責額が高ければ、月々の保険料は安い。
保険の提携ネットワークがあって行ける病院と行けない病院がある。どこでも行ける健康保険は高いと思ったらいい。

会社で加入する場合は会社が保険料をある程度負担してくれる。保険料を決めるのは年齢と健康状態である。同じ保険会社で若いころからずっと加入していて保険をあまり使わない健康体なら掛け金があまり上がらないので、
転職しても会社の保険に加入せず、自分で保険を払う人もいる。

転職先の会社がどんな健康保険を入れるか、どんな医療サービスがあるか予想がつかないしまた、万が一持病があって今の会社の保険なら加入後に発病として治療が効くが、別に新加入する場合、既往症として治療お断りという事象が発生する。保険加入自体がお断りということもある。

会社がつぶれて保険が無くなったとか、子どもが成年に達して掛け金が変わるとか、もう、とにかく色々あるのである。健康保険がないときはどうするかというと、現金プログラムをやっている病院クリニックもある。
病気の時だけいって、現金で払う。高すぎるならあきらめる。
この無保険の問題は長年アメリカ社会の課題であって、ヒラリーも皆保険を実現させようとしていたができなかった。

オバマ・ケア オバマの健康保険

オバマが政府の保険を作ったが、さらに問題を産んだだけだった。健康保険に入れない低所得者層に政府が補助をするのだが、その補助額が支援として所得税の対象になる。また、政府の保険に加入しなければ、罰金Penaltyをとる制度などと非難轟轟だった。

それでも施行された保険制度は、3年目にもなると政府の補助を足した後も掛け金が初年度の3倍にもなり、さらに、払えなくて加入できない所得層が出てきた。何故なら、今まで保険に加入できなかった層が医療サービスを一気に使い始め、病院はたまらず保険会社は掛け金を吊り上げたのであった。

仕事があって、会社が保険をいくらか補助してくれてでも、癌になったら医療費で家が一軒無くなる。と言われていた。

アメリカの治療費用

アメリカの健康保険がいろいろあって掛け金も違うと、で、一体治療値段はどうなんだ?と思ったあなた、鋭い質問である。

治療の値段はピンキリである。

例えば、おじちゃんの咳が止まらないので保険で受診してレントゲンを一枚撮ったら診察料込みで$80であったと、。別の病院で別の機会にキャッシュで払う現金プログラムだったら$50だった。

交差点で追突されて、救急病院で診察を受けレントゲンを撮った。この場合、交通事故なので相手の保険にレントゲン一枚$1200請求された。

脳のCTスキャンをするかどうか、現金プログラムだといくらか聞くと$2000 保険を使うと$200から$400
知り合いが腹部の腫瘍で手術をしたとき、CTスキャンの料金だけで病院から保険に請求された金額は$10,000。

知り合いは癌の手術で保険カバー後の、支払額は$70,000だった、いい保険だと聞いていたのだが。別の知人は胃潰瘍の手術で$20,000保険が違えば同じ治療同じ手術でも違う値段になってしまう。医療の定価がわからない。

さらにアメリカの法律では、救急搬送された患者に対して、医療を拒否することができない。
救急医療の金額は、現金プログラムや保険を使った費用の20倍だと思ったらよい。盲腸炎で救急搬送、手術なら$30,000を超えても不思議はない。つまり、救急は目玉の飛び出る金額になるよっと。

知り合いは、自動車事故で救急搬送された。車は炎上して全損するような事故。ところが、金を持っていないので病院に払わなかったという。$ゼロ!確かに払わなかったが、信用度はなくなった。車のローンすら組めなくなる可能性がある。病院は医療費を取れるところから毟り取るという図式が成り立つ。

だからアメリカ人は風邪ひき程度では病院に行かない。子どもが健康で病気一つしないから、掛け金がもったいなくなる親はいる。長く健康で保険に入らなかったとしても、いざ保険に加入しようとしたとき、無保険であった年月が長すぎると、何か病気を隠してると考える保険会社はある。

アメリカで医療費を抑えるためには、安定した会社に勤め、健康保険の半分を払ってもらいバランスの良い食事とエクササイズを欠かさず、定期的に健康診断をして予防を欠かさないこと。これが一番安上がりである。

病院の会計はタフでなければならない

タフでなければ生きていけない。あれはいつだったか、救急病院で診察を受け、経過観察のため、1週間後に再受診した。支払いは後日請求書を送るということで待っていたのだが、2通同時に着いた。小切手に1通めと2通めの請求額を合計した金額を書き、小切手の右上には請求書にあった私の患者ナンバーを覚えに書き郵送した。

2週間後、病院から再度請求書が来た。
小切手の処理が遅くて、会計がいれちがいで再度請求書を発行することはままあるのでほうっておいたが、2週間後また請求書が来た。うざいので、病院に電話をしてすでに支払った旨を伝えると、会計はもらってないという。
そんなわけはない。
ちょっと待ってろと、銀行のステートメントを確認すると、間違いなく当の小切手は現金化されている。

すると相手はアカウントのXX1は支払われているが、アカウントXX2が未払いなので支払えという。
”あぁ?アカウント1も2も合計した金額を払ったろ?”
会計:んにゃ、あんたは小切手にアカウント1と書いたからアカウント1に全額入れた。
おば:”んだあぁ?! アカウント1に全額入れて、2に未払いってバカか!じゃあ1の余分を2に入れればいいだろうが” すると
会計:”会計はそんなやり方はできない。とにかく未払いのアカウント2を払え”
おば:今から病院に行く(ババアそこで待ってろとは言わなかったけど)腹が立って腹が立って。


銀行のステートメントをもって、救急病院の地下牢のような暗い会計部に行くとデブで人相の悪いババアが二人いた。とにかく、電話で言ったことを繰り返し、そっちで処理しろというとがんとして拒否する。

だったら、アカウント1の払い過ぎの分を今返せ!そしたらそれでアカウント2を払う。するとババアは返金は本部のテキサスしか扱わないので返金はできないという。一度金を握ったアメリカ人から金をとり返すのは大変なのだ。

おばちゃんは敗退して帰った。
テキサス本部の病院の会計部に手紙を書き、払いすぎたアカウント1の余剰分の返金を要求した。無しのつぶてだった。1月後に債権回収会社CollectionAgencyから電話がきた。病院から未払いのアカウント2が回収会社に回されたのだという。

心底ん~ざりして、加入している健康保険のカスタマーサービスのマネージャーに電話をして、事情を説明するといいわ私が交渉してあげるという。

それからしばらくして、マネージャーから電話があり、「うふふ、解決したわ!」と報告を受けた。

どんなふうに解決したの?と聞くと、あっちが使った同じ債権回収会社に、私が支払いすぎたアカウント1の回収を頼んだのだという。うまい!座布団1枚。

リトル・サイゴン

最初にリトルサイゴンに連れて行ってくれたのはおじちゃんの同僚だった。リトルサイゴンはそんな名前の町があるわけではなく、ある信号を超えたとたんに通りの両側に並ぶショッピングモールや商店がほとんどベトナムのビジネスに変わってしまうところ。

看板はアルファベットのヒゲが生えたベトナム語になり、モールの入り口のアーチは朱色で漢字の看板もついているので、街路樹のヤシが風になびいていてもアジアの南国の雰囲気が濃厚になる。

歩行者はスリムで小柄で髪が黒くなり、横断歩道の信号で小さな婆さんが黒いアッパッパと短い黒いステテコみたいな服を着て、信号の根元にしゃがんでいる。ああ、ここはアメリカではないわ!

おじちゃんの同僚が通りで一番大きなモールに車を入れると、駐車場はほとんど満車で、家族連れがぞろぞろモールの建物に向かっている。ここは気をつけてくださいね。
この人たちは血の気が多くて熱いので、一つの空きパーキングをどっちが先に見つけたかで争って、殺し合いをしたことがありますから。

ひゃ~こんな細っこい華奢な人たちが!
ビルに一歩入ると嗅いだことがないスパイスの匂いがしてクリスマスかサンクスギビングのような人込みがあるのだった。白人の姿はない。

ジューススタンドにはサトウキビ・ジュースと絞り器があり、カエルの卵みたいのが底に沈んだ、あるいは小豆のアンコを水で薄めたみたいな、緑色のジュースにどう見ても白玉が沈んでいる食べ物か飲み物かわからないドリンクが、プラスティックのカップに入ってカウンターにずらりと並んでいた。

まず、ご飯を食べましょうや。ここのフォーはこの辺で一番美味しいっていいますから。
モールの一階は衣料品、雑貨、化粧品、宝石店(圧倒的に金が多い)の他に何件もレストランがあった。
その一つは大衆の麺料理店みたいで、スティールのテーブルセットには小柄なよくしゃべる人たちで埋まっていた。んっご、ミャナゥ、ミャんごぅ、と猫が鳴くような話声。

どう見てもベトナムの庶民のおっさんが三ツ矢サイダーのコップみたいなグラスに氷を満杯にしてそれにビールを注いでいた。テーブルの真ん中には砂糖の大瓶があり、女と子供はまず砂糖瓶をつかむと、自分の水のグラスにたっぷり注ぎ、それからカレー用みたいな大きな金属スプーンで砂糖が解けるまでかき回すのだった。ここでは砂糖水はタダのソフトドリンクらしい。

おばちゃんたちはメニューを見てもわからないので、一番ポピュラーな牛肉のフォーを注文してもらった。フォーが来るまで周囲のテーブルを観察していると、別皿の緑の葉っぱをむしりどんぶりに入れテーブルの砂糖をスープに足し、赤いソースを足しライムを絞るらしい。

フォーが来ると、生まれて初めての匂いにたじろいだ。モールに一歩踏み込んだ時、匂ったのはこのスープとスパイスのような気がする。

初めてのフォーは澄んだ金色チキン出汁だった。スープ上にチキンの油の球が薄く浮き、濁りのないうまみがでたスープ。牛肉の赤身の薄切りが麺の上に載っていて、スープに浸かっている牛肉は煮えて真ん中はまだ赤みが残っていてやわらかい。
別皿のハーブはシャンツアイ、どう見ても軸のままのミント大き目の雑草みたいな葉っぱも(後でわかったけどバジル)が生のもやしと皿に乗っかっていた。生のもやしはどうすればいいのか。スープにライム?大丈夫か?

おじちゃんの同僚が、この生のもやしは僕もあまり得意ではないのですが、こうするといいですよ、と米の麺を箸で持ち上げると、別皿のもやしを手でつかんで麺の下に落として麺をもやしの上に戻した。スープがまだ熱いですから、こうすると火が通ります。

それから別皿の青いシャンツアイを手でちぎり、スープの上に申し訳程度に散らしライムと唐辛子ソースはお好みで、といった。おばちゃんは初めてのフォーのスープを一口すすった。甘い。
いろんなハーブのに香りがする。シャンツアイ/コリアンダーをを少しむしって強烈な匂いにひるんだ。麺にミント?こちらも一枚ちぎって入れた

麺は冷や麦より少し太めの角切り。フルフルモチっとしてラーメン麺ほど腰があるわけではないが、のびると滑らかに柔らかくなる。
薄切りの生の牛肉は衝撃だった。しゃぶしゃぶだって、少しくらい赤みが残っている牛肉がうまいから。ライムをスープに絞った瞬間に、味が変わる。おう、さわやか?!
ミントの葉はスープと舌をリセットする。

ラーメンほどギトギト脂ぎっていなくて、それとも京風ラーメンにもっとコクとうまみを足して、ハーブのアクセントを足したみたい?
スープもハーブを入れるごとに風味が変わりライムで味の七変化。スープも牛肉も麺もとても神経が通っていて繊細。これは結構料理好きのおばちゃんにも絶対再現できない。

札幌で生の蟹の寿司を食べた時よりも衝撃!なんといっても、自分の文化圏に全くない味とハーブに
踏み込んだという発見が大きかった。蟹はいろんな料理法があって、素材としての味は知っているわけで、フォーの場合は、スープがどんな素材を使ってできるのかそれすら想像ができなかったから。
まさに新しい天体の発見だった。

それ以来、フォーに病みつきになったかというとそうではなく、リトルサイゴンはやはり安全に不安があって3~4年後、自宅の街にベトナム人経営のフォー屋ができてから爆発した。メニューの大方を試してみて、やはり熱いフォーが一番。毎週土曜日のランチはフォー。

  • footer