リトル・サイゴン

最初にリトルサイゴンに連れて行ってくれたのはおじちゃんの同僚だった。リトルサイゴンはそんな名前の町があるわけではなく、ある信号を超えたとたんに通りの両側に並ぶショッピングモールや商店がほとんどベトナムのビジネスに変わってしまうところ。

看板はアルファベットのヒゲが生えたベトナム語になり、モールの入り口のアーチは朱色で漢字の看板もついているので、街路樹のヤシが風になびいていてもアジアの南国の雰囲気が濃厚になる。

歩行者はスリムで小柄で髪が黒くなり、横断歩道の信号で小さな婆さんが黒いアッパッパと短い黒いステテコみたいな服を着て、信号の根元にしゃがんでいる。ああ、ここはアメリカではないわ!

おじちゃんの同僚が通りで一番大きなモールに車を入れると、駐車場はほとんど満車で、家族連れがぞろぞろモールの建物に向かっている。ここは気をつけてくださいね。
この人たちは血の気が多くて熱いので、一つの空きパーキングをどっちが先に見つけたかで争って、殺し合いをしたことがありますから。

ひゃ~こんな細っこい華奢な人たちが!
ビルに一歩入ると嗅いだことがないスパイスの匂いがしてクリスマスかサンクスギビングのような人込みがあるのだった。白人の姿はない。

ジューススタンドにはサトウキビ・ジュースと絞り器があり、カエルの卵みたいのが底に沈んだ、あるいは小豆のアンコを水で薄めたみたいな、緑色のジュースにどう見ても白玉が沈んでいる食べ物か飲み物かわからないドリンクが、プラスティックのカップに入ってカウンターにずらりと並んでいた。

まず、ご飯を食べましょうや。ここのフォーはこの辺で一番美味しいっていいますから。
モールの一階は衣料品、雑貨、化粧品、宝石店(圧倒的に金が多い)の他に何件もレストランがあった。
その一つは大衆の麺料理店みたいで、スティールのテーブルセットには小柄なよくしゃべる人たちで埋まっていた。んっご、ミャナゥ、ミャんごぅ、と猫が鳴くような話声。

どう見てもベトナムの庶民のおっさんが三ツ矢サイダーのコップみたいなグラスに氷を満杯にしてそれにビールを注いでいた。テーブルの真ん中には砂糖の大瓶があり、女と子供はまず砂糖瓶をつかむと、自分の水のグラスにたっぷり注ぎ、それからカレー用みたいな大きな金属スプーンで砂糖が解けるまでかき回すのだった。ここでは砂糖水はタダのソフトドリンクらしい。

おばちゃんたちはメニューを見てもわからないので、一番ポピュラーな牛肉のフォーを注文してもらった。フォーが来るまで周囲のテーブルを観察していると、別皿の緑の葉っぱをむしりどんぶりに入れテーブルの砂糖をスープに足し、赤いソースを足しライムを絞るらしい。

フォーが来ると、生まれて初めての匂いにたじろいだ。モールに一歩踏み込んだ時、匂ったのはこのスープとスパイスのような気がする。

初めてのフォーは澄んだ金色チキン出汁だった。スープ上にチキンの油の球が薄く浮き、濁りのないうまみがでたスープ。牛肉の赤身の薄切りが麺の上に載っていて、スープに浸かっている牛肉は煮えて真ん中はまだ赤みが残っていてやわらかい。
別皿のハーブはシャンツアイ、どう見ても軸のままのミント大き目の雑草みたいな葉っぱも(後でわかったけどバジル)が生のもやしと皿に乗っかっていた。生のもやしはどうすればいいのか。スープにライム?大丈夫か?

おじちゃんの同僚が、この生のもやしは僕もあまり得意ではないのですが、こうするといいですよ、と米の麺を箸で持ち上げると、別皿のもやしを手でつかんで麺の下に落として麺をもやしの上に戻した。スープがまだ熱いですから、こうすると火が通ります。

それから別皿の青いシャンツアイを手でちぎり、スープの上に申し訳程度に散らしライムと唐辛子ソースはお好みで、といった。おばちゃんは初めてのフォーのスープを一口すすった。甘い。
いろんなハーブのに香りがする。シャンツアイ/コリアンダーをを少しむしって強烈な匂いにひるんだ。麺にミント?こちらも一枚ちぎって入れた

麺は冷や麦より少し太めの角切り。フルフルモチっとしてラーメン麺ほど腰があるわけではないが、のびると滑らかに柔らかくなる。
薄切りの生の牛肉は衝撃だった。しゃぶしゃぶだって、少しくらい赤みが残っている牛肉がうまいから。ライムをスープに絞った瞬間に、味が変わる。おう、さわやか?!
ミントの葉はスープと舌をリセットする。

ラーメンほどギトギト脂ぎっていなくて、それとも京風ラーメンにもっとコクとうまみを足して、ハーブのアクセントを足したみたい?
スープもハーブを入れるごとに風味が変わりライムで味の七変化。スープも牛肉も麺もとても神経が通っていて繊細。これは結構料理好きのおばちゃんにも絶対再現できない。

札幌で生の蟹の寿司を食べた時よりも衝撃!なんといっても、自分の文化圏に全くない味とハーブに
踏み込んだという発見が大きかった。蟹はいろんな料理法があって、素材としての味は知っているわけで、フォーの場合は、スープがどんな素材を使ってできるのかそれすら想像ができなかったから。
まさに新しい天体の発見だった。

それ以来、フォーに病みつきになったかというとそうではなく、リトルサイゴンはやはり安全に不安があって3~4年後、自宅の街にベトナム人経営のフォー屋ができてから爆発した。メニューの大方を試してみて、やはり熱いフォーが一番。毎週土曜日のランチはフォー。

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