留学生あるある 恋愛と永住権

おばちゃんはこれから世界に羽ばたこうとしている若者の夢を壊すつもりもなければ、勇気をくじく意図があるわけでもない。どちらかと言えば、おばちゃんのこのブログを読んで異国の地で墜落や沈没せぬよう励ましのつもりである。

日本の最新ファッションはOCでもわかる。日系スーパーに行くと、その時々の日本の最新ファッションに身を包んだ留学生がいるからだ。ある時はみんなチロル帽みたいな帽子をかぶり、リュックを背負って底が厚い靴を履いた女の子が見られた。
ある時はショーツに黒いタイツでつま先をㇵの字して唇を突き出した女の子がいた。
元々曲がった足をㇵの字にすると、さらに姿勢は悪くなってただでさえ見苦しいスタイルがますます醜い。

この国では、小っちゃくて可愛い女の子を喜ぶひ弱でオタクな男はいない。いやん、と身をよじって上目づかいでシナを作っても、寄ってくるのは同じくスタイルの悪い日焼けでくすんだ駐在員だ。

なんだか勝手が違うから、ひらひらのスカートをやめ染めた髪も褪めるままに、化粧も変わり意思表示をはっきりし、気が強くなって現地化してゆく。

留学生は、語学学校からカレッジさらにユニバーシティとトランスファーしていかねばならない。現地の語学学校は最初こそ目新しいが、やっていることと言えば日本でもやった文法やイデオムであったりするから、ダレてきて休む。

休んでも学校は何も言わないからバイトに精を出したりする。学校としては、全生徒が出席するととても教室が足りないので、
適当に休んでくれた方がありがたい。留学生ビザをキープするためには語学学校に所属し、学校が発行するI-20に金を払わねばならない。留学生は大切なお客さんなのである。

志高く目的をもって来た留学生ばかりではない。おばちゃんが聞いた一番情けない例はバイトも見つからず部屋を追い出され、語学学校に泣きついて(経営者も日本人だったから無下にできなかったのかも。)

学校が経営する他分野のビジネスに留学生を雇った。食べさせて住まわせて働かせて給料はなし。何のことはない、無料の従業員を飼っているようなものだ。異国で生活していく最低限の才覚がない留学生なら、おばちゃん、「日本へケエレ」と思う。

日系人の家に間借りして、禁止されているのにボーイフレンドを連れ込んで追い出されたり、夏休みにルームシェアの仲間が一人帰り家賃増加分がなくて貸してクレクレ

DUIで捕まって違反記録を消すのに弁護士費用がなくてクレクレ交通違反でポリスに止められ、文句を言ったらペッパースプレーを掛けられた、、、あるある。

めでたく語学学校を出て多少英語に自信が付きとりあえずカレッジに入る。留学生の授業料は、アメリカ人の7~8倍に設定されている。クラスによっても授業料に違いがある。年間の必要ユニットを取得するには何クラス取ればよいか?自分のゴールを達成するための最短最低費用のクラスはどれだ。自分の懐具合と、カリキュラムをにらめっこである。

おばちゃん、麻雀はやったことがないが、上がりにはいろんな「手」があるそうね。上がるだけを目的にして、安い牌だけ集めても大した報酬になるわけではないそうな。

当たり前だけど、自分の後半生がこのクラスに左右されるわけだから何の手で上がるか考えようよ。誰もが取れるCommnicationの手は安いよ。

恋愛と永住権

おばちゃんは、金髪に惚れるなと若い子に教えていたが、アメリカ人と結婚して永住権(グリーンカード)を取ったとしても
グリーンカードはアメリカで安住して暮らしていけるパスポートではない、と繰り返し言った。

ビザしか持っていない間は、安心して滞在できて仕事を選べる永住権が欲しくてたまらないが、永住権を手に入れたとしても、永住権が食と職を保証してくれるわけではないのである。

手に職をつけること、スキルを身につけること。看護婦は職が安定しているし、会計士も固い。文章能力が高いならパラリーガルもねらい目だ。

結婚することと、自分の能力を磨いてスキルをつけキャリアを積むことは別物だ。
結婚したからといって、スキルもいらない日銭を稼げるだけの仕事になぜ流れるのだろう?誰でもができる仕事はすぐ見つかるが、すぐに無くなる仕事でもある。

リーマンショックで一番先に夜逃げしたのは、ネイルサロンだった。たった1か月のネイル・スクールで身に付けられる技術で一生食っていけると思うのがおかしい。

あなたが仕事を首になっても家や車のローンを助けてくれる親や親族はこの国に誰もいないのだ。学校に戻れるうちに戻れ、と。

ポルシェを買う

おばちゃんがポルシェを買うわけがない。おばちゃんもダンナも根っからの庶民である。身の丈を知っているので、たとえ軽なみに安かったりしてもポルシェは買わない。「腐っても鯛」は信じない。
腐ったら鯛は食えないから買ってはイカンのである。鰯でいい。

ある時、ウチの女の子が「お話があるんですが、」と切り出した。この「お話があるんですが、、」というやつが一番どきっとする。いい話であったためしがない。給料日の後だと、金額が間違っていたとか?まさか辞める相談ではなかろうかとどきどきする。

「実は相談にのっていただきたくて、、、」
「ポルシェを買ったんですが、」
え?
「ポルシェを買ったんですが」
えっ、
「あんたがポルシェを買ったぁ?」

おばちゃんはこのやっと二十歳を過ぎた女の子が、何を言っているのかさっぱり分からなかった。「実は人に頼まれて、ディーラーでポルシェを買ったんです」ナルホド、そういう話か、、。で、?

BMWもそうだがポルシェもヨーロッパから正規代理店を通して日本で買うと高い。アメリカで新車を買いオーナー登録をしてから、中古車として日本に輸出すると、正規輸入よりぐっと安くなる。ポルシェのカイエンが日本で800万代になる。

同じ名前のオーナーが日本に何台も輸出すると、目を付けられるので、車の登録をしてくれる名義人が必要だった。数百ドルで名義を貸してくる間抜けな学生が必要だったと。

で、あんたが食いついたと。代行業者が輸出手続きを済ませて、車を日本へ送り出した後、州のDMV(自動車登録局)からあんたにポルシェの自動車税を払えと通知が来たから困ったって?

でもポルシェは売って、名義はすでに変わったと主張しても、DMVはでは名義が変わったという証拠を見せろと、。業者に連絡しても返事がないと、。
やれやれ。

色々調べるとDMVが税金をこちらの名義人に請求して来るということは、車の登録証はまだ変更されていないということで、手元に残っていたピンクスリップか登録証なしでは日本での売買ができない。

業者もやっと気が付いたようなので、登録証は絶対渡すな、税金分の金を支払えば、売買契約書のコピーなどの証明書類と引き換えに送ってやると連絡をしろと。ぐずぐずいう業者をがんという態度を見せて事態は収束したのであった。

アメリカの車事情

アメリカ人の懐事情は車で一番わかる。ウチの女の子が男と付き合うときは、相手の男がどんな車に乗っているか、しっかり見ろと教えていた。

身の程を知らず無理をして家を買い、キューキューしてローンを払っているアメリカ人なら、車にはとても手が回らない。車を見れば、懐具合を図る目安になる。家を買う前のまだ若い世代ではどうか。BMWに乗っていたら要注意である。何故か?

BMWは日本で買うより、アメリカではず~っとお手軽価格になっている。ベンツやレクサスにとっても手が届かないけど、気分だけリッチになった気がするBMWはぴーぴー言っている貧乏世帯にも何とか手が届く。
な~んちゃって外車なのだ。

新車のカローラとかビッツより安かったりすることもあるのである。身の程知らずの見えっぱりに引っ掛からないように、おばちゃんは教えるのである。

ちなみに、金持ちになると車はどうなるか?世帯収入が20万ドル(2千万以上)前後が一番ベンツやレクサスに乗って見せたがるようだ。

1億を超えるような本物のセレブの場合、事情は変わる。どこにでもあるようなバン、見てくれは普通だがカスタム仕様でバレット・プルーフ。強盗と誘拐が一番怖いからだ。

おばちゃんが実際知り合ったのは、自宅はプライベート・ビーチ付きの55億
(当時、今はたぶん2倍の100億くらいだろうか)。車がトヨタのエスティマで(どんな装備が施されているかわからない)自宅には専属メカニックが住み込んでいた。

きらめくシャンデリア プール 螺旋階段

ひと月$700の最初のアパートの部屋にはシャンデリアがぶら下がっていた。普通に学生も住む標準のアパートである、築後30年は経っていたと思う。新しいこじゃれたアパートになるほど、古臭いシャンデリアは姿を消し、天井埋め込みの間接照明が多くなる。

最初の昔ながらのシャンデリアは、小さなロウソク型の電球がぐるりと半ダースもついて、ダイニングエリアにぶら下がっていた。
鎖が意外と長くて、たくし上げるのも面倒くさかったから、テーブルの席によっては、ダイニングテーブルから勢いよく立ち上がると、頭にぶつかりそうになるのであった。

ダイニングの照明はそれ一つであったから、ソファに座るととても本など読める明るさではなかった。フロアスタンドを買って、一番明るい100Wを付けてソファ周りは明るさがあるが、それでも部屋の天井や隅は薄暗かった。

新しめのアパートに引っ越してもリビングの照明は一か所。薄暗い部屋はなにか貧乏くさい感じがする。と当時のおばちゃんは思った。キッチンの天井のライトをつけ、リビングの照明をつけ、フロアライトの100Wを付けて、すみずみまで明るくなって、ようやく幸せな生活になった気がする。

夜の10時に主人をピックアップして帰ってくると、3階の我が家だけが、パーキングに入る前に目に飛び込んでくる。何故ならひときわ明るくきらめいていたからだ。前後左右すべてのアパートでそんなにも明るい部屋はどこにもなかった。若きおばちゃんは、何か田舎者になったようて恥ずかしくなってフロワーライトの電球を40Wに落としたのであった。

蛇足だが、アメリカのフィラメント電球は売っているときから「切れて」いることがある。先人の日本人のおばさまから、買うときに確かめてから買うようにとアドバイスをいただいたものだ。

私は何を言っているのかしら、このおばさまと思ったのであるが、本当だったのである。商品の電球を持って、振る。シャラシャラと音がするなら切れている。

おばちゃんは、今でもホームセンターでフィラメント電球を買う時振ってしまう。日本で今のところ不良品には出くわしたことがない。

プール付き

家にプールがある人は珍しくない。馬小屋が付いてる場合だってある。住み移ったアパートにはみんな25メートルプールが付いていた。のちに買った家にはアソシエーションのプールがあった。蒸し暑い夏は、何度か泳いだこともあるが、大人はそうそう泳がない。日焼けしたくないし

知り合いは自宅にプールを自分で掘って作った。土木的には難しい構築ではない。2008年に掘り始めたら、サブプライムの不況が襲ってきて、庭に掘りかけたまま大きな穴をさらしていた。2年ほど穴をさらしていて、金が回り始めたらようやく完成したようだ。

水不足のカリフォルニアでプールに一旦水を張ると、そうそう水の入れ替えはできない。フィルターとポンプで漉しているといっても水の状態はけして良くない。夜の間にガ、アメンボ、甲虫、バッタなどのありとあらゆる昆虫が盛大に水に飛び込む。この虫を掬って始末するための専用の長~い玉アミが売っているほどだ。

プールのメンテ会社も好景気には繁盛していた。メンテ会社に払う金を惜しめば、父ちゃんが昆虫アミをもってくそ熱い土曜の朝からせっせと虫を掬わねばならない。なんで、俺がこんなことをするんだろうとブツブツぼやきながら、息子にやらせればいいのだが、息子は金曜の夜からいない。

プールは面倒くさいので、大きさがもっと手ごろなJacuzzi(ジャク―ジ CUにアクセント)を買って庭に置いてみたいと思うだろう?
シャンパンを片手に、緑の芝生を背景に美女と笑いさざめくのだ。が、プールと同じことで、ふたをするのが面倒くさい、蓋をしないと虫が入る。しっかりと入れた塩素剤がポンプでブクブクされると、実に塩素がのどに来て痛い。髪も肌もバサバサになる。

水道代も電気代もバカにならない。油断するとハロウィーンの夜には、近所の悪ガキに洗剤をいれられてバブルのスイッチもオンにされ、あわぶくが1メートルも芝生にあふれることになる。思っていたロマンチックな幻想がぶち壊されて、瞬く間に邪魔くさい無用の長物となって、カミさんにうざがられる。

そんな事情で中古のジャク―ジはわりと余っている。
あなたも一つどうだろうか?

螺旋階段

アメリカだから、らせん階段があるのよね?と日本の幼い子にと聞かれて困ってしまった。らせん階段?をしずしずと美女が降りてくる?中世のヨーロッパだろうか

階段をらせん状にする理由はスペースが狭いからだと思う。アメリカの豪邸にある場合、どちらかと言えば宝塚かな。あるいはラスベガスか。
吹き抜けのホールに、左右合流するだ~んと広い階段。LAは別だが、郊外は広大に広がっていて普通の一軒家は普通に階段があり、大豪邸はだ~んと宝塚。

郊外の都市に高層ビルがなくて、びっくりしたものだった。高層ビルに邪魔されない郊外の空は、広~くハレバレとしていた。土地はたっぷりあるので、ビルを高くする必要がなかった。

有名ショッピングモールでもほとんど平屋か2階まで。延々と何ブロックにでもまたがっているので、何か所もある駐車場は目当てのショップに近いものを選ばないと、長く歩く羽目になる。

日本にも進出してきたCostco(コスコと発音する Tは無性音)は1990年代初め、店員はローラースケートを履いて移動していた。嘘やおまへん! ホンマどす。テコテコと店内を歩かねばならない客の私はうらやましかったものだ。

自動ドア

カリフォルニアにはほとんど自動ドアがなかった。ドアは自分で開けるもの、開ける際に後ろを見て、人がいたらドアを押さえるものと教わった。
押さえてくれる人がいたら、ありがとうと礼を言う。

帰国したらほとんど自動ドアだった。たまに自分で開けるドアの場合、後ろの人のためにドアを押さえていると、後ろの人は何も言わずに通っていく。
会釈も笑顔も返さない。2人目も3人目も幸いとばかりずんずん通る。

大体観察していると、人がドアを開けるとき、本人は後ろを見ていない。後ろの人は他人とばかり、手を放して後ろの人の顔の前でバタンと閉まる。
すごくショックである。
建物のドアで私のために開けてくれ押さえていてくれる日本人は、今のところ主人だけである。
なんか、悲しい。

海外の嫁姑事情

海外にも嫁姑問題はあるのか?
ある。

親友ジョイスは大雑把に言えば台湾系で、カナダ経由でカリフォルニアに渡った。ダンナも同じく台湾系だが上海出身でやはり台湾からカナダに流れた。

台湾というか、中国も日本の戦前の家族観が続いていると思ったらよい。家族法も日本でいう旧法のようで相続は長子の男子総取だったりする。親友のジョイスは、実はバツイチで一子あり、ダンナより4歳年上。
このジョイスが結婚するとき、ダンナの母(姑)は荒れに荒れた。新婚旅行に同行し、夜は嫁を別室にして自分が息子と眠った。

面と向かえば非難と批判に糾弾である。新婚家庭に数か月居座り、彼女が料理をしても食べない。中国女は気が強いが、ジョイスは儒教に縛られていて姑には言い返さなかった。ビザがない姑が長くいられるわけもなくアメリカと台湾で別居したところで東西冷戦状態に突入した。

ダンナの父が亡くなった時は、葬儀に台湾に帰ったがジョイスはホテルに滞在した。彼女は葬儀には出ず先に帰米した。葬儀が終わってダンナも帰国してきたが、ダンナが持ち帰ったお土産がJを大爆発させた。これは嫁にやれ、と壊れたドライヤーを姑に持たされたのだ。

「ねぇ、どう思う!どう思う!」ダンナがアホじゃないかと思うのだが、
ん~とか、あ~とか冬彦さんはアメリカにもいるのかと思った。ちょうど日本でドラマになったころである。

その他家族事情中国人の家族「ファミリー」の観念はちょっと日本と違う。父方か、母方か従妹の関係を一言で表す言葉が豊富らしい。

ジョイスには姉が何人かいて姉の一人が結婚した。ダンナには幼い妹がいて、ジョイスの姉が母替わりで養育した。ところがダンナのギャンブルと酒が問題で結婚は破綻した。

ジョイスの姉の元ダンナの妹は、のちにカリフォルニアの中華系と結婚し、この中華系がIC製造で大成功して長者になる。パシフィック・パリセリードで大豪邸を構え、クルーズ船をチャーターして、一族をクルーズに連れてゆくのである。

ジョイスも一族としてヨーロッパを回り、私はイタリア土産のバルサミコ酢をもらった。

姉の元夫の妹は、IC富豪が自分の親族にバカバカ金を使うのに心穏やかでない。係累が少ない自分の親族をあらん限り呼ぼうとする。自分の兄の元妻の妹も親族として大盤振る舞いをしないと公平ではないと思う。

だからIC長者からすると、自分の妻の兄の元妻の妹も十分にファミリーとして範疇になるらしい。

時は過ぎて、ジョイスの知り合いの中国人が娘を持ち娘は大学の同級生の韓国系2世と結婚した。両民族(ファミリー)は結婚を祝福したのであったが、アメリカ育ち2世の結婚は最初はうまくいっていたのだが、韓国系ダンナが中国系妻を殴り、気の強い中国系妻が親に泣きついて、一挙に民族闘争と化すのであった。

中国系は親戚の男手を集め、ついでに得物(火器ではない、捕まるがな!)としててんでにバットや棒を持ち、中国系は韓国系実家に殴り込みに行ったのである。20世紀が終わるころの実話である。

アサちゃんの場合は

ウチの仕事に来た時、アサちゃん(仮名)はすでに子供が一子いた。アメリカ人のご主人は、彼の母親のお気に入りのBoyらしかった。ストレートでダイレクトなアメリカ人が、歯に絹きせずに物いうとどうなるかというと。

I hate you。と
私のお気に入りの息子を取ったお前が嫌いだ。銃があるなら撃ってやりたいよ。アサちゃんも、アメリカにもまれて経験を積んでいる。

姑の顔に触れそうなまで自分の顔を近づけて、そうか、撃てるもんなら撃ってみな!そう言ってやったんですよ。アサちゃんは鼻息を荒くして私に言った。

二人の女は天敵である。同じ部屋にいることはない。アサちゃんは子供の数は増えたが、ダンナはアリゾナに行き、今は離婚して平和だ。

ミドリちゃんは、バイトの同僚だった金髪ブルーアイズと結婚した。ダンナが日本趣味でわざわざしゃぶしゃぶ屋でバイトをしたのだが、実は、金には全く困っていなかった。

海岸沿いの広大な土地に代々の墓があるような、地主の息子だった。シンデレラの物語は本当にあったが、結婚生活には鬼婆の姑がもれなく付いていたのである。

鬼婆はミドリちゃんにむかって、ストレートを撃つ。
「あんたはウチの金が目当てで息子と結婚したのよこの ビッチ!bitch」って言うって。ミドリちゃんは子供を抱え、撃たれっぱなしだった。

自分が戦って強くならねば、誰も守ってくれない。子供ものためにも強くならねば、国を撤退することにもなりかねない。戦え!戦って強くなれ。

元号が覚えられない カタカナが怖い

LAの総領事館のオフィスがまだ下方の階で、広くって超高学歴・完璧バイリン”風”の窓口の大使館員おばさんがいたころ、もっと偉そうでつっけんどんだったころ。
窓口には、戦争後に来たんじゃないかという、日本人のお婆様が申請フォームを手に、もう日本語なんか書けないし、言葉も色々忘れちゃってるから、バイリン風窓口のおばさん大使館員が、くどいくらいあれこれ日米両言語で問いただしてた。

窓口の上方の壁には横1メートル・縦50センチくらいのでっかいサインボードがあって、老眼鏡も絶対必要ないだろうという大きさで
「今年は平成 X 年です」と書いてあった。
まぁ私も見たときは ああ、もう X年なんだと思うのだが、次に領事館に来るときは当然ながら年が変わっているわけで、ああ、X年なんだ。とまた思うわけ。

日常生活で日本の年号を目にすることもないし、ネットはまだ黎明期で、Yahoo!か朝日新聞がようやく稼働を始めたかという時期だったから。日本は今、年号で何年になるのかさっぱり覚えられなかった。

渡米した日本人に共通していることだけど、渡米すると自分の中の日本の時が止まる。記憶の中の日本は昭和 X年、あるいは平成 X年なんだね。その代わり、渡米してからの経過年数は絶対忘れない。
自分の年を忘れても、アメリカに来てからの年は忘れない。死んだ子の年を数えるみたいに。

私も当時の窓口の婆様になりかかったころに日本に帰国してきたから、当然平成年号が記憶できていない。おばちゃん、平成が何年で終わったかも覚えてないから西暦でしか生活できない。
でも、年齢を引き算するには西暦の方が絶対便利よ?


実をいうと、日本語が書けない。
コンピューターのキーボードがないと書けない。手書きで書けるのは自分の名前と住所。これは帰国してから練習した。だって、アメリカでは日本語を書く必要がなかったから。

領事館で証明書類を申請するときくらいで、電話債権を売るのに在留証明を取らないといけなかった。その在留証明にはなぜ在留証明をとりますか、理由を書け、とかあった。

なぜ理由を聞く?。
と思いながら債権?そんな漢字が書けるわけもなく、こんなところで日本語を書かせるのがまず間違ってると、ぷんぷん怒りながらひらがなで理由を書いた。

仕事中に書くメモも日本語だったわけではない。頭が半部英語モードで動いていると日本語に切り替えるのがすごくつらい。
あの、ひらがなというやつが曲者だった。一番困るのは「な」「ね」「の」「ぬ」
止めのところがどちらかにくるっと曲がるのがどっちだったか?右か?左か?自信がない。「な」ってこっちに曲がるんだっけ?と従業員に聞いても、ん~ん、そのように見えますが、彼女だって自信がないのだ。

アルファベットだと文字数はたった26文字で全部書けるのにね。それにというものは何十年もやっていないと、書き方も忘れてしまうのだ。

ひらがなも困るが、カタカナは嫌いだ。
渡米する際には日本から文豪ワープロとインクリボンを持って行った。当時のアメリカでは日本語を書けるコンピューターがなかった。Windows 3.1では日本語が書けず、印刷するプリンターもなかった。Windows95が発売されてやっと日本語が書けるようになった。

キーボードがあれば日本語メールを書くのに不自由はなかったので、買い物メモもToDo Listも日本語である必要がなかった。
ジャガイモはPotatoって書けばカタカナより早いし。周りの日本人はみんなそうだったからね。中国人のサマンサだってジョイスだって、漢字は書けないって言っていた。日本語のニュースはネットや書物で読んでいたから、読む能力は衰えていなかったが。

何年かに一度、親戚友人などがやってくるとディズニーランドへ案内した。親戚・知人は日本語の園内地図を選びおばちゃんは英語を選んだ。カタカナが読めないから。

おばちゃんは、カタカナしか書いてないMapを見るとパニックになってしまう。「ウエスタンランド」というカタカナの音がWestern Landだということを変換するのに時間がかかるから。すごくつらい。

日本語のつづり(カタカナ)は英語の音をあらわしていない。
ラリルレロの綴りは 「L」か「R」かバビブベボは 「B」か「V」か「th」はどうするか?だから頭がフリーズして日本語への変換を拒否していたのだ。

日本で一番の恐怖の場所はDVDや音楽CD売り場。
頭痛と吐き気が止まらない。パッケージのラベルがカタカナ表記で、さらに日本語語順 ア イ ウ エ オでカテゴライズされてたから。Tayler Swiftが「」行にあるんだよ?

兵隊さんと一緒に学ぶ

簿記には全く興味はなかったが、将来のために登録した夏クラスは首尾よく取れた。
ところが、どうもクラスの場所が分からない。
コミュニティ・カレッジの住所と違う。学生課に聞いたら、やっぱり学校内ではなくて。近くの空軍の施設の中であるのだそうだ。

家の近くをドライブするとどこからでも見える大きなドームのある空軍ベース。
大統領が西海岸にやってくるときエア・フォース・ワンはここに降り立つ。かまぼこ型ドームは、規模がよくわからないほどデカく扉が開いていると、ヘリが飛びながら入っていくのだが、おもちゃのように小さく見える。

このベースの中で簿記のクラスは行われるのだが、最初の日はとても緊張した。ベースの入口は何も遮るものがない一本道で両側に関所がある。ゲートのバーが開いているので、そのまま通行する。帰りはゲートに車の列ができていた。おばちゃん、皆なんで止まっているか分からず、辛抱強く待っていた。

ゲートの直立不動の兵隊さんの横で、前の車がいったん停車しすッと出て行った。おばちゃんもとりあえず兵隊さんの横で止まる。それから車を出すと、兵隊さんの後ろにいたちょっと違った制服の兵隊さんが物凄い形相でわめきながらおばちゃんの車の前に飛び出てきた。

「なんでお前は止まらないんだ!」
おばちゃん、超怖かったが殺されてはたまらないので「だ、誰も止まれって言っていないよ?」
「お前間抜けか?こいつが止まれのサインをしてるだろうが!!」と直立不動の兵隊さんを指さした。

兵隊さんは、相変わらず直立不動でただし、左腕を斜め30度左下に差していた。
これが止まれ?そんなもん知るか。おばちゃん、ビビってたけどムカッついて

「サ・サ・サイン?それが止まれのサイン?
世界共通なの?私ボディサイン知らない」

エライさんは虚を突かれた顔をしてIDを見せろと言った。そしてぶっきらぼうに”行け”と言った。
おばちゃんは震えながら車を出した。ゲートで止められたのはそれ以降ほとんどなかった。

簿記のクラスの初日は50人くらいは入れる教室が満室で座れない生徒は、後ろで立っていた。私の前の生徒はどう見ても高校はでてます!兵隊やってます、というクールカットの襟足も青いお兄ちゃんなのであった。

観察すると、あちこちに兵隊さんらしいのが何人もいる。除隊したときに困らないように簿記を取るとしたら正しい判断である。

先生のテリーは複式簿記(Double Accounting)というのはなんでも2回記帳するのだ、2つの項目にまたがって記帳するとどっちかが間違ってもすぐわかるから。この2重記入が近代の会計を大きく変えたのである。

お前たちはこれから同じ数字を2つの項目に何度も何度も記帳することになる。DebitとCreditという二つの言葉で混乱せぬように。教科書とワークブックを用意して、チャプター1を読んでくるように命じた。

教科書は電話帳より厚くて重かった。ワークブックも同じお厚みがある。夏休みのたった6週間の間に、この教科書を全部済ませるのだ、できるか知らん。
チャプター1を読み通すのに辞書を引いたが、日本語辞書の経済用語はおばちゃんをますます混乱させた。


2回目の授業でテリー先生はDebit(借り方)Credit(貸方)という言葉に惑わされるな。
簿記では2つの言葉に英語の意味はない。ラテン語でDebit Creditというのは左側右側という意味だ。いいか、英語の意味を忘れろ。左側と右側だ。

なまじ英語の意味に囚われなかった(英語が染みこんでいなかった?)私はテリー先生の言うことを丸のみにするのだった。

クラスメートは軍人さんを含めてアメリカ人だったからどうしても丸のみにできない生徒もいた。
Debit借り方は ネガティブ借りじゃないか、どうして増えるとプラスになるんだ?Credit貸方はプラスなんだから増えればプラスだろ?なんで下がるわけ?
どうしても言葉の「意味」から離れられなかった生徒は最初の1週間でごっそり減った。

クラスの50席はところどころ空き始めた。テリーはものすごい有能な先生だった。教科書を解説して宿題を答え合わせしていく。生徒を指して行く。この答えは?次、この時のCreditは何を意味してる?次、、、。
次から次へ生徒を指して、生徒が分かりませんというと、何が分からないと質問し、口ごもるとすぐ次の生徒に飛んだ。1時間半の授業の間、緊張が途切れない。

宿題量もものすごい量で終わっておかないと、次の授業では置いてけぼりになってしまうので土日を全部つぶしてもワークブックをやった。テリーの言う通り、同じ数字を何度も何度も書くので人差し指はあっという間にペンだこができた。
毎週、生徒が減っていく。生徒が少なくなると、ますますテリーの質問が早くめぐってくる。質問に答えられてホッとすると前の席のお兄ちゃんの頭が目にはいる。

兵隊さんの頭の地図はすっかり見慣れて白人でもぶつけて怪我をすると、傷がハゲになるんだな。とか、うなじの白い肌にニキビができるとみっともないね。先週より増えたかも、とか。

ファイナル・テストの前になると、生徒はたった7人になった。もう、3分ごとに質問があてられる。
一秒も気が抜けない。最後の週のファイナル・テストが終わるとテストの点数なんかもうどうでもよくて終わってくれたことが嬉しかった。

おばちゃんは、このクラスのせいですっかり体力を使い果たし腱鞘炎と膀胱炎になってしまった。

パイポ・カナイナ 波乱万丈 人生記

森鴎外に「渋江抽斎」という小説があって、片っ端から本という本を読み漁っていたおばちゃんは、薄いな、と思って手に取った。鴎外だし品質は保証されているから、どんな物語が展開するのかとワクワクしながらページを開いたが、、、、、。

なんじゃぁ?これ。
地味~なおっさんの地味な人生を鴎外が検証してゆく。無味乾燥な文章から抽斎の人生を抜き出し解剖し再構成していく。ナニコレ?波乱万丈の人生?違うじゃん。ワクワクする急展開、無いじゃん。ああ、終わった。

カビくさいおっさんの人生はいくら鴎外が蘇らせても10代の娘にはちっとも面白くなかった。若い人間が読む作品ではない。
じゃあ誰が読むと面白いかといえば誰か知らんが、
一番楽しかったのは間違いなく書いていた鷗外だな。
読者としては格調高くなくていいから面白い一代記を読みたかったと思う。

おばちゃんの周りには一杯いたぞ。波乱万丈な言葉そのままの人たちが。
格調?それ食えるの?美味しいの?生き残るためにぎりぎりの人生を送っている人達に格調なんかいらない。下じもの人生に必要なのはしぶとさと生きるエネルギー。おばちゃんが見たしぶとい人たちはこうだった。

2世のパイポの名はハワイ好きでサーフィン好きのお父ちゃんの趣味でつけられた。
パイポ・カナイナ(仮名)
このカナイナ家はパイポと妹を除き、全員日本生まれで最初にアメリカに渡ってきたのは、パイポのお父ちゃんカナイナ家。

パイポの母とばあちゃんのケカウルオヒ一家。ケカウルオヒのばあちゃんは最初は日本で結婚し娘(パイポの母)をもうけたがその後娘と二人で渡米した。渡米後、ドイツ人と結婚してケーキ職人として働いていた。もう一系統カライママフ一家のおじいちゃんと出会って「結婚した」。

「結婚した」と書いたのは実はこのおじいちゃんが、日本に戸籍上の妻を残しておりアメリカに渡ってきたから。そこでケカウルオヒのばあちゃんと連れ子の娘と出会い再婚した。

ばあちゃんのドイツ人の夫がどうなったのか詳らかではないし、じいちゃんに日本の妻がいたからアメリカの婚姻届けはどうなっているのかわからない。

パイポはおばあちゃんと結婚したカライママフ爺を小さいころからおじいちゃんと呼でおり、考えると血はつながっていないはずなのだが、パイポにはおじいちゃんなのだった。おじいちゃんはビジネスでそこそこ成功しており、ばあちゃんと連れ子娘と一時期一緒に暮らしていたのは確かだが、その後ばあちゃんは別居しておもに娘のケカウルオヒと生活していた。

娘ケカウルオヒはパイポの父カナイナと大学時代に会い、まだ若いうちに結婚してパイポと妹のキナウを生んだ。高校時代にアメリカに連れてこられ、その後日本語教育も受けなかったので、お母ちゃんは英語の方が得意でパイポとキナウは日本語がほとんどしゃべれなかった。

しばらく親子4人で幸せな家族生活があったのだろうが、パイポが小学生の頃に離婚してパイポはお父ちゃんへ、妹のキナウはお母ちゃんと生活するようになった。お互いの家は近くにあるので、子供たちも頻繁に行き来していた。

パイポに言わせれば、お父ちゃんとお母ちゃんは嫌いあって離婚したのではなく今でもお互いが好きなのだが、どうも離婚するしかなかったのだという。パイポの幻想かもしれないがいつかはお父ちゃんとお母ちゃんが再婚するという夢を語っていた。

CAのおかあちゃんは稼ぎがよくて、それに目を付けたフィリピンのやさ男でしょっちゅう失業しているボーイフレンドが一緒に住んでいて、フィアンセと名乗っていた。かれこれ7~8年もフィアンセだったが、パイポはこのフィリピン人の寄生虫ボーイフレンドが嫌いだった。
家に行きたくないが妹のキナウと祖母ちゃんもいるので顔を出す。母ちゃんは稼ぎがいいけど給料が入ると、ボーイフレンドに乗せられてすぐ旅行や車にパーッと使って貯蓄というものができなかった。

パイポと一緒にいるお父ちゃんはどうだったかというと、お父ちゃんは人好きのする丸顔で陽気。誰でもすぐ友達なれる性格で人から好かれた。現地の日本企業の営業で、口は立つし売り込みがうまいのでいい成績を挙げるのだが日本企業の理屈に合わない旧弊な制度なんかにぶち当たると嫌になってしまいやめる。

そしてバイトで食いつなぎ切羽詰まってくると日系企業に就職してまた営業で成績をあげる。若いころに2Bのコンドミニアムを買っていたので、ローンは安く何とかパイポと二人暮らしていた。

パイポが中学生くらいになると、お父ちゃんが家を掃除しておけと命令する時がある。パイポはいやいや掃除をする。父ちゃんがガールフレンドを連れてくるのだ。父ちゃんは人好きがするからすぐにガールフレンドができて、ただあまり長く続く人はいなくて、いずれはお母ちゃんと復縁を夢見ているパイポにはガールフレンドはうれしくない。


ここにリーマンショックが襲ってきた。お母ちゃんのクレジット・カードの枠は一杯で、フィリピン男のフィアンセは自分の小遣い以外に稼ぐ能力がなく、お母ちゃんはシフトを少し削られて残業手当もなくなると、貯蓄はもともとないので、家のローンが焦げ付いた。

ばあちゃんも年金があるのかないのか、自分の生活が手いっぱいで娘と暮らしているのでローンの手助けは手に余る。じいちゃんは何回か助けてやったらしいがとうとう家を出る羽目になった。

父ちゃんもその当時付き合っていたガールフレンドが家賃を払えなくなり、でっかいラブラドールと一緒にコンドに転げ込んできたとパイポがこぼしていた。
パイポも犬が好きだから犬は構わないが、女ってなんであんなに沢山の服がいるんだ?山ほどの服がメインベッドルームに入りきらずリビングに積み上げられたんだという。

さあ、母ちゃんとおばあちゃんに妹のキナウはどこで暮らせばいいか。切羽詰まって、ばあちゃんが知恵を絞った。

アメリカにはシニア・ハウスという老人用の住宅があってこのシニア・ハウスの家を買う条件は年齢が65歳以上で金融資産が30万ドル以上なんて、条件が付いている。家の価格はずいぶん安いので自宅を売って老後は移り住む人がいるわけだ。
ばあちゃんは、むろん資産などないから買えはしないがシニア・ハウスに住んでいたが住人が亡くなった家に目を付けた。子供の相続人がいるのだが、不況のさなかで家が売れない。毎月施設共益費が別口でかかるので、子供が困っていた。住むには年齢制限がある。そこでばあちゃんが共益費+家賃を払うので住まわせてくれと安い家賃で借り上げに成功した。

ただ、このシニアハウスはゲートがあるのである。日本では理解しにくいが、コミュニティの住宅全部をフェンスで囲ってしまい敷地に入るには、ゲートが1か所しかない。人間の門番がいるか、リモートかパスワードを打ち込んでゲートを開けるしかない。あいにくこのシニアハウスは人間の番人がいた。

ばあちゃんは歳なので、文句なしにゲートは通過できるが、母ちゃんとパイポの妹は若いので門番に止められる。シニアハウスを訪問する子供孫は当たり前にいるが、毎日出入りしたらおかしいだろう?だから母ちゃんとキナウは車の座席の下に深く身を伏せてゲートを通過していた。フィリピン人のボーイフレンドはどっかに行ったみたいだ。

こんなシニアハウスで1年くらい過ごした後、お母ちゃんの給料も徐々に回復して市中のアパートに移った。パイポとそっくりな丸顔の妹キナウは運動神経がよく、サーフィンや新体操で優秀な成績を上げ新聞に載った。

パイポもローカルのUC大学に合格して、祖父ちゃんがお祝いに新車を買ってくれた。ただし、車の名義は100%じいちゃん。使わせてもらうだけ。うれしくて飛び回って喜んでいたパイポは10日後、絶望に突き落とされた。新車を引き上げられたから。

名義が100%じいちゃんだと、パイポが事故を起こしたとき、結局じいちゃんに責任がかかってくるのがわかってビビったじいちゃんは車を取りあげててディーラーに返し、その代わりに1500ドルの中古車をパイポにやった。
この1500ドルという金額が血がつながっているかいないかの微妙な線なんだな。

天国から地獄とは言わないけど煉獄あたりにひっかかったパイポはしばらく憮然としていたが、父ちゃんは絶対金を出してくれないので自前の車ができて満足するしかなかった。
父ちゃんは日本から進出してきたフードサービスの会社の現地マネージャーに収まり、美味しい汁を吸えるらしいので、大学を卒業したらパイポもそこに引っ張るつもりだった。

この辺でおばちゃんはアメリカを引き上げたのだが、日本のおばちゃんにパイポがメールでウチで働いていた在籍証明をくれないかというのでウチのペイロールだった銀行を教えてコピーを取らせた。

そして、コロナが襲ってきてフードサービスの父ちゃんとパイポ、飛行機業界のお母ちゃんが一体どんなことになったか?カナイナ家もケカウルオも子孫が増えたかもしれず、きっと波乱万丈の人生が続いているに間違いないと思う。

カリフォルニアを走る

おばちゃんは80年代にバイク乗りだった。黒のヤマハのRZに黒つなぎとブーツにフルフェイス。ゴキブリと言われて横浜の街を走っていた。日本のバイク乗りの夢は、果てしないカリフォルニアのフリーウエイをローライダーで走る映画イージーライダー。

あるいはハーレーが集合する聖地サンフェルナンドバーレーのベーカーズ・フィールド。テレビのシリーズCalifornia Highway Patrols「CHIPS」ではJoeか Ponchかどっちがかっこいいか話が尽きない時代であった。

おばちゃんは卒業祝いで買った黒の革ジャンにアメ横で買ったハイウエーパトロールのワッペンを縫い付け、いつかカリフォルニアで走れたら素敵!
などと夢を見ていたのであったが、、、、。

90年代に入ってすぐ渡米すると、ローライダーの夢はす~っっぱりと消えたのであった。あの人たちはちょっと違うのである。

体腔の薄いぺらぺらな胸をツン!としたら倒れそうなきゃしゃな日本人ではなくて、こめかみから顎までコワいひげを生やしてバンダナをし、胴がドラム缶くらい太く、くっそ重たいハーレーをたらたら転がしている人たちは、
あれは、ライダーというより出勤するためにこざっぱりした服を着てフリーウエーに乗り渋滞を辛抱強く走る人生ではなくモーターサイクルという人生/ライフスタイルを選んだ人なのである。ハンパじゃない人なんである。

ホコリ色の服を着て排気ガスを浴びながら、車の間をハーレーですり抜けていくライダーはモーターサイクルという人生を選択したんである。

おばちゃんたちはただでさえも、体格がきゃしゃで体力がなく、英語と交渉が人並み以下で肌に色がついてるアジアからの移民である。100%の自分たちではアメリカ社会に勝てない。120%の努力をしてやっとアメリカ社会で生きていけるかどうかである。タイヤ2輪のために追加の社会のハンディキャップを背負いきれない。

渡米してみればChipsのパンチョは太って中年のメキシカン丸出しのおっさんになっていてテレビのCMに出ていた。テレビで物の宣伝をしてんのよ!
ジョイスと待ち合わせをしたとき、寒かったので皮ジャンをひっかけてショッピングモールに行けば、左腕にChipsのワッペンが張り付けてあったのをすっかり忘れていた。

警官の詐称は確か罪になるのではなかったか?ワッペンを剝がせればよかったのだが、縫い付けたあったので建物に寄りかかって左腕のワッペンを隠した。こんなアジア系の女の子がどうして、Chipsのワッペンをしてるのか周りからおかしく思われそうで、気が気ではなかった。

おばちゃんの夢はガラガラと崩れ、バイクを買うどころかカローラやビッツの目立たない日本車に乗り中流の下であってもアメリカ社会で生き残っていくのが目標になった。

ハーレーに触れることもなく何十年、日本に帰国してみると日本のバイク文化は衰退し昔とは見る影もなかった。日本の道路はあぜ道のように狭く、広フリーウエイまっすぐをすっ飛ばすのとはまた違った走り方があるのだった。

ちまちまとくねくねと細い一車線の田舎道を走っていると、なんとなくまたバイクで走るのもいいなと思う。125㏄あたりの車高の高い軽いトレールなどで山の空気を切りながら走ってみたい。ただ、おばちゃんの自動二輪の免許はとっくに失効してもう一度取り直さねばならないのがネックである。

フリーウエイを走る

フリーウエイを走る土曜日の午後、南に下るフリーウエー5番の右から2番目を走っていたら、。一番右端の路肩にダークグリーンのセダンが止まっていて、30くらいの白人の男が後ろのトランクを開けていた。

アスファルトに金具が転がっているのを見ると、パンクしたのだろう。
お兄ちゃんはトランクから予備タイヤを両手で取り出すと、地面に縦にトンと置いた。お兄ちゃんが両手を離して後ろ向きにトランクの中を見た瞬間、縦のタイヤはそのまま転がり始めた。下り車線の車に向かって!

兄ちゃんの口が「O」の形になり、おじちゃんとおばちゃんも同時に「オー」と叫んだ。タイヤと65マイルで進みゆく我がホンダと距離は50ヤード
車は7~8台。
来るな!来るな!と叫ぶおばちゃんたちの願いとは正反対に、先行する車はひらりとよけ、タイヤは倒れもせず2車線を斜めにするすると横切って、我がホンダの右バンパーにぶつかって跳ねた。

白人のお兄ちゃんはその間中、「O」の形の口に手を当てていた。おばちゃんたちは当たった瞬間「Shit!」と叫び、跳ねたタイヤの行方には目をそらした。

うちのせいじゃないから。
仕事場についてバンパーを確認したらかすり傷だったので修理の必要がなくてよかった。

ある日、うちの女の子が泣きながら出勤してくるので、どうしたのか聞くと、こわかったんです!~。とすすり上げる。中古で買ったばかりのKiaのバンパーがフリーウエイでいきなりすっ飛んだのだという。

ボロKiaはスピードが出ないので、一番右側を走っていたのが幸いし、バンパーが路肩にすっ飛んでいったのだそうだ。バンパーがなくなってしまったKiaはなんだかジャンクのようだった。他のダメージを確認してみると前輪タイヤの2本がほとんど擦り切れていて、いつバーストしてもおかしくない。

買った中古屋に電話を電話をして、ボロKiaは擦り切れタイヤのまま引き取らせた。

カリフォルニアには雨がほとんど降らないので、アメリカ人は雨が降ると路面が滑るということもあまり自覚がない。その日は昼から霧のような雨が降り、午後に上りの5番に乗ったら4~5台前の右車線のシボレーがいきなり一回転して後ろ向きになった運転席のアメリカ人が呆然としているのが見えた。こっちだって、車線を変えて避けるので精いっぱいである。

降るのは雨だけではない。11月ごろには落葉が強い風にあおられてフロントガラスに張り付いた。小さい落ち葉はまだましだが、たまに白いビニール袋が飛んでフロントに張り付くことがある。ロングビーチの手前で張り付かれ、陸橋の下をくぐるとき風の向きが変わってはがれた。

何が怖いかって車は65マイルから75マイルで走っているのである。405でも5番でも4レーンから5レーンの車線を他の車も同じような速度で走っているのである。そこでいきなりビニールでフロントが見えなくなる。恐怖そのものである。

かといえば疲れて帰宅しようとする夜の10時半にいきなり前方車両の全レーンのスピードが落ち、ついには止まってしまった。夜だから前方が何やらほんのり赤い点滅の光が見える。ポリスがカーチェースのために全車両を止めたのだ。5番と405で一度づつ、ラスベガスの帰りの15番で一度。

15番は一本道でう回路がないから、1時間以上も炎天下の砂漠で待たされるのはひどい苦痛で、スタックした車列の中から中央分離帯を無理やり超えてラスベガスにUターンするセダンもちらほらあった。テレビの実況でカーチェースを見るのは他人事だが、自分が止められると果てしなく長い。

ニューポートビーチから内陸に向かう時に隣の車線にとんでもない車が走っていた。セダンの屋根に黒人のおっさんが胡坐をかき、両腕を後ろで屋根に付け55番方面に走っていった。

405で落ちたばっかりのセスナの隣を抜けたこともあった。落ちたてで煙もなければ消防車もまだ来ていなかった。

フリーウエイを走るときは、もし、こんな事態になったらこう車線を変えてこう避けると常にシュミレーションをしていた気がする。

混血と遺伝子サイコロ

日本人と欧米系の混血の場合、お尻の蒙古斑が若干薄くなるのよ。薄くなっても蒙古斑として依然とある場合が多く、時として事件になる。

蒙古斑の知識がない医療関係者や育児関係者にお尻の青あざを児童虐待と疑われて警察に通報されてしまい、ローカルの警察なども蒙古斑の遺伝的知識が無い時があると親は逮捕、子供も取り上げられて大変な事になる場合がある。

だから日本人の血を引いているなら蒙古斑を医学的に解説したプリントアウトなどを万が一のために用意しているものだった。蒙古斑はMongolian spotと言う。

Mix Race 或いは Mixed Race 公式的にはMultiracialと言うがおばちゃんの友達は何人も国際結婚がいたから、国際結婚から生まれたお子さんたちはMixedRaceだった。生まれた直後の身体的特徴はあまりあてにならず成長に従ってころころ変わっていく。

知り合いのお母さんは東ヨーロッパ出身で金髪だった。顔の彫は深くなかった。生まれたお嬢さんは小学校の低学年まできれいな金髪で父親の日本人の遺伝子はまるっきりで見えなかった。
小学生の高学年になるころには髪が暗色に濃くなっていき子供のころは目立たなかった目頭が純粋の白人よりはかすかに蒙古ひだを思わせるシェープになった。
東ヨーロッパはフン族とかアッチラに何度も蹂躙されたからお母さんの遺伝子にアジア系が残っているのかもね。

スカンジナビアン系と結婚した友達は二人の娘に恵まれた。やはり幼いころの方が髪の色が薄かった。同じカップルから産まれた姉妹なのに、二人の髪の明るさは微妙に違い、外出したときに二人の頭に手を同時に乗せると、明るい髪の方が明らかに温度が低いのだという。


目はヘイゼルから茶色またヘイゼルへと目まぐるしく変化し、お姉ちゃんはヘイゼル、妹は薄い茶色に落ち着いたそう。背の高さは日本人の血を引た。彼女たちの子供にはひょとしてスカンジナビアンの背の高さが遺伝するかもしれないね。

別な知り合いは黒人と結婚して男の子と女の子をもうけた。お兄ちゃんの方が黒人の血がよく出て、髪は少し伸びると天然のアフロになる。柔らかそうに見えるが実際はキシキシしていて絡まりあっている。


誰が教えたのでもなく、お兄ちゃんは小さなものを隠すとき髪の中に隠すのだという。便利そうでびっくりした。妹は生まれた直後の写真では日本人の赤ちゃんと言っても不思議ではない容貌だったわ。髪も直毛だった。

お兄ちゃんが育つと、しなやかな足は驚くほど長い。腰の高さが日本人と比べ物にならないほど、高い位置についている。運動能力は日本人のお母さんにはついていけない高い。

欧米の白人とアジア系のミックスはユーラシアンと呼ばれたりするがキアノ・リーブスのようなアジア系からも白人からも強烈に引き付けられるいいとこどりの当たりが出たりする。もちろんその反対もいるわけだが。つくづく国際結婚と混血子は遺伝子サイコロだと思う。

カリフォルニアの離婚

おばちゃんの周りでも色々離婚した。国際結婚で離婚へというカップルも多かった。2組に1組離婚すると言う統計もあるから日本よりはずっと離婚率が高いには間違いない。

当時の記憶だから法律の適応や細部については保証しないが、日本とカリフォルニア州の一番大きな違いと言うのは、「無過失離婚」だと思う。加州の結婚についての基本的な定義は:結婚は二人の合意に基づいて成立するもので片方がイヤになったら夫婦として成立しない。

これを知った時おばちゃんはナルホドと思った。片方が我慢して成立するような結婚・カップルはそもそもおかしいわけだ。

日本に帰国してびっくりしたことは、法律番組でXXの理由で離婚できるかできないか、相談があまりにも多かったこと。法律で規定された離婚理由が必要なの?法律的に離婚理由じゃないから出来ません、ておかしくない?

アメリカ人だって、離婚になるまで努力しないわけじゃない。普通に結婚カウンセラーとかセラピストがいっぱいいるし、でも努力の結果、片方がやっていけませんと結論した場合離婚を申請するのは致し方ないと思う。カップルと言うのは双方が慈しみ合って成立するものだと定義するから。

日本の法律の場合、カップルの片方がダメだと思っているのに離婚事由に当たらないから離婚はできません。結婚/カップルとしての定義が違うわけよね。片方がイヤでも結婚してなさいと。じゃあ、日本の結婚の定義とは何?一度婚姻届けを出した以上嫌になっても我慢しなさい。それが結婚というものです。罰ゲーム?

カリフォルニアで結婚を登録した場合は、確か離婚コートに離婚をファイルして離婚の条件(子供の親権や養育費、ジテーションや妻への生活費やいろいろ)を決めて成立したと思う。日本の協議離婚の方がよほど簡単だと思う。

米国での離婚がはるかに面倒くさいにもかかわらず、離婚率が高いということは自分の心に正直なのか?日本の結婚したままのカップルが多いのは、もしかしてどちらかな嫌なのに我慢したままの率が多いのだろうか?

離婚条件でもめるのがイヤだから、結婚前にプリナップprenuptial agreementにサインしてもらって或いは双方合意でプリナップを作成してサインすることが多くなったのだと思う。私の友人も結婚相手から差しだされたペーパーにサインしたから。

ただ、その時私が思ったのは彼女がサインをしたプリナップは結婚相手が一方的に作成したものであって、彼女に有利な条項は何一つないと推測できる。アメリカで自分が作成に参加同意していない契約書にサインするのはリスクのある行為だと思う。

結婚前のカップルでスイートな夢に浸っている状態で離婚時の条件を決めるのは何かとハードルが高い。でれでれ甘々なプリナップにサインして、離婚のとき条件で揉めるというのもまたアメリカによくある話かしら。

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