アメリカの罰金 交通違反チケット

おばちゃんは寝坊してコミュニティ・カレッジの駐車場に着いたときは生徒用のパーキングはほとんどいっぱいで、ぐるぐる回っていても空きが見つからなかった。他にも同じようにうろついている車があった。
やぁ、困った。
事務局に近い方のパーキングは空きがあった。やったねと車を入れようとするとそこにはFacult yOnlyと書いてあった。15~16台入る駐車場に一台くらい生徒が止まっていても分かるかな?分からないよね?1クラスだけだし。

クラスが終わって帰ってくると、フロントには見事にParking Violationのチケットが貼ってあった。
やっぱりダメかぁ。
おとなしく罰金を払った。校内をぐるぐる回っているセキュリティの車にはスキャナーが積んであって、教師や事務員のナンバーをすべて登録してあり、パーキング・ロットに駐車している車列のライセンスナンバーをさーっとスキャンするだけで違反車がピックアップできるのだそうだ。知らんかった。

ところがある日、サクラメントから駐車違反の通知が来た。まったく足を踏み入れたこともない市よ、それも違反場所は大学。
ノーティスには心当たりがない場合は、車の登録証のコピーを同封して送り返せとある。
おばちゃんは頭をひねりながら登録証をコピーして、サクラメントには行ったことがなくて、違反時のX日X時には別の場所にいた。と手紙を書いた。

もし、アリバイの証明をせよと返事が返ってきたら、クレジットカードの使用レシートが使えるかな?とか、考えていた。アメリカではいろんなことが起こるため、レシートは捨てない。10年くらい保管するから。
サクラメントはそれっきり何とも言ってこなくて、結局ライセンスプレートのスキャンミスだったのだと思う。

ある時、別のショッピングモールに行こうとフリーウエイにのったら、途中で分岐の道路ができていてあれ?こっちだっけ?と乗り入れたらToll Road有料道路に出てしまい、あれ、困った出なきゃぁと思うのだが有料道路だから脇道にでたら料金所があってゲートがあった。バーは開いていた。

この道路は新しくてETC対応ではないようだし困ったのはゲートに人がいないのだ。窓口にはコインを入れる穴が開いた料金箱があるのだがあいにくコインが一枚もないし、いくらだかも書いてないし

クレジットカードのスリットもない。どうしろと言うのよ。おばちゃんは車から降りて料金所を見てみたがいないところに魔法のように人は湧いてこない。諦めて車を出したのよ。

そうしたら、2週間後に違反通知が来た。25セント支払わなかったので、25ドルの罰金だそうだ。
さすがにむかむかするから手紙を書いて、突然見慣れない道路ができて間違って入ってしまった。
支払おうにも人がいなかったので私のせいではない。すると、できたばかりの道路なので今回は勘弁してあげる。と返事が来た。

コインもなかったけど人もいなかったのよ、ひどいじゃない?と友達に話すと、ゲートにはセキュリティカメラがついているからコインがなかったら洋服のボタンでも毟って料金箱に入れりゃよかったわよ、クオーターに見えたよね、と。

アメリカの罰金


フリーウエイには一番左のレーンがカープールで2人以上乗車していると走れる。右の走行車線すべてが渋滞でもすいすいと走ることができる。人形を助手席に乗せてこっそり走ろうとしてつかまったりすると罰金だ。

日本と違うところは、同じことを2度やると、2度目の罰金は倍になるところ。一度のレッスンで学ばない頭の悪い人には罰金が多くなる。良い学習システムだと思う。

交通違反だけでしょうか? いいえ!
罰金倍々システムは他の法破りにも適応されるのですね。例えば、雇用法・労働法違反、所得税法違反とか、、、。アメリカに新規に進出する日本企業は右も左も分からない状況だと簡単に引っ掛かったりしてしまう。

住居手当と通勤手当を本給と別に支給して税務署から指摘されたりして。
最初の1回は”知らなかったんですぅ。”で税務署も引き下がってくれる。労働法違反はもっと早い。従業員が労働省に報告するので、通報が多数あったりするとすぐ指導が入る。

あるいは最初の1回目で従業員から少額裁判を起こされたりするから。具体的に言うと、日本の会社が起業するとする。
現地従業員を募集するわけだが日本から来る管理職クラスの人材が英語とアメリカの社会制度に精通しているかと言うと、そうではない。

大抵は現地アメリカ人を直接部下に雇う度胸も英語力もない。現地マネージャーとその下に日本人・日系人を雇うなら言葉が通じるので日本から来た管理職も仕事(本社との連絡)ができるというわけだ。

現地のコミュニティ雑誌に従業員募集広告を出すと、現地日本人コミュニティはxxxxが開業することを知る。友達や友達の娘が面接に行く。周りの知人の輪もそれを知っている。そういう状況下、はやくも面接でボロを出す会社がいる。

”5時で終わりなんですが5時半まで残ってもらうと思います”面接相手が日本人なので、日本社会にいると錯覚してサービス残業などをほのめかすわけ。

労働法では休憩を入れて1日8時間、週に40時間を超えた時間についてはオーバータイムで時給は150%にしなければならない。現地の日本人はすべて知っているが、日本から来た立ち上げスタッフは違反を気にしていない。

面接の日本人や、あるいはすでに採用になった従業員がアメリカルールを親切に教えるつもりで労働法違反になりますよと教えると、”そういうことを言う人はウチには要らないので、明日から来なくていいです。”と言っちゃったりするのである。

アメリカの会社には労働者の権利が書かれている労働法のでっかいポスターがあって、雇用主が違反をした場合は通報すべき電話番号が書いてある。このポスターは従業員全員がよく見えるオフィスの壁に貼らねばならない。貼らないと罰金。

こういう社会でサービス残業の強要をしちゃったxxxxはレジがすべて黒人のおばちゃんになってしまった。”そういうことを言う人はウチには要らないので、明日から来なくていい”と言われて日本人と日系人がごっそり辞めて、最低限の日本人を指揮系統に残したら、レジの人間が足りなくなってしまったから。

XXXXは日本人すべてが知っている超有名企業である。XXXXXXの場合は送り込まれた立ち上げスタッフたちが自分の権利を教えられて反乱を起こし、立ち上げすら危なかった。

知り合いのXXX子ちゃんが立ち上げに加わった日本のXXは賢かった。管理者とマネージャークラスはすべて経験のある現地日本人を雇い、あとはすべてアメリカ人。

ただXXX子ちゃんがこぼすには、何回スモールコートに証人マネージャーとして立ったか分からないですよ。だって、アメリカ人従業員同士が自分の都合でシフトを交換して自分(マネージャー)にそれを知らせてこなくて、給料日の次の日にオーバータイムがついてない!って裁判を起こされるんです。
タイムカードをもって何回も裁判所に行きましたよ。

サービス残業を勘定に入れたうえで利益を出そうとするビジネスはビジネス・モデル自体が間違っているのである。時給を上げる時にそのモデルは破綻するのだから。

労働法違反の罰金は、一人に付き5000ドル。2回目なら倍。

蛇足だが、賢かったXXアメリカ旅行の時にXXを見かけて店内にはいったとしても、見えるものすべては英語。日本人も誰もいない。日本を思わせるものは会社のロゴにだけ。

アメリカのパンはなぜバサバサか

アメリカの食パンはガサガサである。
大手の食パンなどを買うと、生地が荒くて指が入りそうな穴がぼこぼこ開いてる。こういう食パンをトーストすると、舌と唇にささる。がっさがっさのバッサバサ。アメリカ人はこういうトーストを喜ぶ、クリスピーと言って。

外はカリッ、中はフワッじゃないのか。厚切り食パンは存在しない。ふわふわ超熟もご飯のようなモチモチなパンも存在しない。クリスピーが命。

しっとりキメの細かいライムギパンとかもない訳でもないが、、。そしてそれがケーキになると、もっと顕著になる。スポンジケーキが本当にスポンジでできてるんではないか?と食べながらケーキを観察せねばならない。シフォン・ケーキはまかり間違っても、フワフワではない。ぷよんぷよん。

なんでこうなるのか?
おばちゃんは世界で最初にクロワッサンの生地を自動で作る機械を作った日本の会社の駐在員に聞いた。この駐在員はベロ・メーターを持っている。

一口食べると、粉の配合が分かるというベロの持ち主。世界中のパン屋とみれば、買って食べてみるというパン道を究めんとする駐在員である。

彼によると、ピルグリム移民のむかしから、アメリカには収穫した小麦粉を細かく挽く機械がないのだという。荒い粉でパンを作るからこうなるのだという。

元々クリスピーが命だから、あるいはがさがさの荒い小麦粉の製品ばっかり食べていた結果、フワフワ・しっとりを受け付けなくなったのか、それは定かではないが、アメリカには小麦をできるだけ細かく挽こうという意思も細かく挽く機械を作ろうという意思もなかったんである。

そこへ、世界初のクロワッサン生地を作る日本の会社が製パン機械をいろいろ持ち込んできた。主に機械を買ってくれるのは、アジア系である。米食でフワフワモチモチ系が好きな民族。細かく挽いた粉で作る台湾系のシフォンはしっとりして日本と変わらないおいしさがあった。

機械でなくて、フワフワモチモチを別の方法で解決したパン屋があった。
ハワイに。King’s Bakeryという。

King’s Bakeryの袋の後ろに、ベーカーリーの起源が書いてあっておばちゃんは、とても暇なときに何気なく裏を返して読んでしまった。

ハワイの人はパンが次の日に固くなってしまうのが悲しかった。次の日も固くならないパンが食べたい。それでKing’sの先代は試行錯誤をして、次の日にも固くならないパンを開発したのであった。

King’sのパンは確かに固くならない。うっすらと甘い。ふわふわである。だから、おやつのようにパンを毟ってたべる。うちのおじちゃんの好物であった。

King’sの創始者はハワイの日系人である。カリフォルニア州に大きな工場ができて、フリーウエイから降りると目の前にある。

将来アメリカ人の指向が変わって、しっとり柔らかなパンが好まれるようになるとしたら、それは日本人日系人の努力のたまものかもしれない。

マイクロソフトを買う

1993年からおばちゃんはMicrosoftに煮え湯を飲まされていた。
不安定なOSはしょっちゅうフリーズしクラッシュし、OSをアップデートすると周辺機器のドライバーは全滅した。ソフトが使えなくなることは当たり前だった。誰も責任を取らない。

クラッシュしたOSの再インストールをコンピューターショップに頼み作業完了したデスクトップを家に持ち帰って、NetscapeをインストールしたとたんにWidnowsは再クラッシュして
コンピューターショップに後戻りした。1998年のことであった。

その当時、おばちゃんはOSの再インストールが自分でできず、1回$150の再インストール料金を払うのは、ホントに悔しかった。特に1日に$300ドルも払うとなると、恨みがたまってくる。おのれ、マイクロソフト。

コンピューターショップのFry’sやMicrocenterにはよれよれのTシャツを着た白人のおっさん達と
若い細っこいベトナムと中国系のコンピューター・オタクが、CPUとマザーボードの周りで、ぼそぼそ話しながら溜まっていた。

おばちゃんの目標はコンピューターの自作とOSのインストールである。それができるようになれば、コンピューターショップに修理代を泣く泣く払うことも無くなる。日本語化されたWindows95-98と英語版は言語の問題もあって英語のインストール・ディスクは役に立たず、日本語のインストールディスクが必要なのだが日系コンピューターショップの飯のタネであったから
一般には手に入らなかった。

おばちゃんはDOSの参考書を日本から取り寄せて、自力でインストールディスクを作ろうとしていたが失敗していた。

いつまで不安定なシステムを使うのかなぁ。マイクロソフトに振り回される世は変わるんだろうか?
なぁ、マイクロソフトはいつも見切り発車して新OSを発売して不具合が見つかった時にダメージ食らうのはユーザーなんだ。

アンタの国ではどうだ?と聞かれた。WindowsはローカライズしてもWindowsよ、
世界中のマイクロソフトは一緒。けっ、と白人のおっさんは吐き捨てた。

あれはZIPドライブが使えなくなったときか、それともサービス・パックのせいでユティリティソフトがダメになった時かおばちゃんは突如としてマイクロソフトを買うことにしたのである。

手にできる発券したマイクロソフトの株。
One Share.comだと、手続きを全部代行して株券を送ってくれる。アメリカでは生まれた子供や孫のために株券を贈る習慣があった。

自宅のオフィスの壁に届いた株券を掛けて、おばちゃんは「私は今日からマイクロソフトの株主だから!」ちょっとだけ、イライラが収まりマイクロソフトはおばちゃんの中で独善の傲慢な企業から、やんちゃでオタクなお兄ちゃんに変貌を、、、あんまり遂げなかった。

遊園地で結婚式

始めて招かれた結婚式は遊園地のKnott’s Berry Farmナッツベリーファーム)だった。
おじちゃんの会社の女の子がアメリカ人と結婚するのだった。遊園地のゲートでカジュアルな服装の来園者に混じって列に並び、窓口で招待状を見せると中に入れた。池の近くに小さな教会があるから、興味があるなら探してね。

おばちゃんはどちらかと言うと、コマーシャリズムたっぷりのディズニーより、ナッツベリーの方がアットホームで好きだったし、遊園地で結婚式だなんていかにもアメリカで良いじゃないと思った。

ドレスコードにはいつも悩まされた。おばちゃんたちの服装はアメリカ人より2段階くらいかしこまって周囲から浮き気味だった。だらしない恰好よりはましだったが、周りがTシャツなのに、ジャケットをきて革靴を履いているとバカみたいに見えるこの時も招待状をもらってからほかの出席者に聞きまくったのだが、聞かれた方だって結婚式だからね、と言うばかりで具体的なアドバイスがなかった。

日本の結婚式より2段階くらい落して、おじちゃんはドレスシャツにネクタイで紺のジャケット、私は紺のワンピースに白のボレロという服装で教会に入ってみると、参列者にネクタイをしている男がいなかった。20代のカップルの参列者は、男はアロハに短パン、女の子は短いコットンのワンピース。
しまったぁ!またやられた。遊園地だし!パーティの後遊んでいくつもりだぁ。カジュアルな参列者に混じって、かなり居心地が悪い。

牧師は国際結婚ということで、文化宗教や人種の違いなどを心配しているのか、長々とつまらんことを言い募り、アメリカ人側の参列者だって、退屈のあまりじっと押し黙って膝を見ているのだった。

アメリカの結婚式も様々だし、予算の関係で色んなパーティがあるわけだが、この時は参列者が臨時のバーカウンターに並んで、アルコールの飲み物をキャッシュで買うのだった。テーブルにはアペタイザーがすでにセットされていて、これが生野菜だった。

人参、セロリ、ブロッコリ。おばちゃんが生のブロッコリに目をむいていると、隣のポロシャツのアメリカ人のおっさんがどうしたの?と聞くので
ブロッコリを生で食べるの?
おっさんはガハガハ笑って、魚を生で食べる日本人が何を言う。
野菜の生の方が魚の生より敷居が低いだろう?

dresscode

おっさんのカミさんらしき女性が、私は絶対生のブロッコリを
食べないわよ。いつだかサラダバーで生のブロッコリーをよそって食べようとしたら青虫が出てきたから。おばちゃんはセロリだけ食べた。

それから参列者はテーブルの順番に立ってまたもや行列を作りバフェテーブルから好きなフードをよそってもそもそと食べるのだった。ランチが終わって外に出ても、ネクタイとワンピースではライドに乗る気にもなれない。最初から新婦に聞いとけばよかったね、遊園地で遊んで帰っていいのか。

ドレスコードの悩まなくていいのは、ビーチのレストランだ。「裸足で来ないで、上半身に何か着て」以上。

ハンバーグは何料理

試しに Hamburg Steak と英語で検索をかけてみると。

検索結果:
生肉のタルタルがドイツに紹介されると、いろんなスパイスを加味して焼いてハンバーグステーキになり、それがドイツ移民とともにアメリカに入ったとか、検索結果:ハンバーグというと”焼いていない生のパティ”という意味。

あれ?と思うかもしれない。
アメリカでは牛肉100%のバーガー・パティは冷凍でも生でもスーパーでいくらも売っているが、アメリカ人はパティを焼いて誰もおかずとしては食べない。焼いてパンにはさんでバーガーとして食べる。
なんでか?
ハンバーグの検索のページをもう一度見てみよう。

Why is Hamburg steak popular in Japan?
Hamburg steak or hambagu became popular in Japan in the 1960s because of it was a more affordable way to serve meat by mixing it with other ingredients,,.

なんで日本ではハンバーグが人気なんだ?(お高い)肉が手に届く値段で食べられるように混ぜ物をして、、ハンバーグという料理になった、、

ハンバーグはアメリカ料理じゃなかったのか?!
そうなんです。
アメリカではハンバーグ・ステーキという料理はまずない。日本のハンバーグがアメリカで食べられる所は、アメリカの日本洋食レストランか、もしかしてドイツ系移民の家庭か。

それでも、どうして?とと思うあなた。アメリカの牛肉は安い。日本で食べる魚より安い。豚肉を混ぜなくても、パン粉で増やさなくても肉が食べたければ牛肉100%のステーキ肉をそのまま焼けばよい。牛ひき肉にしちゃったらパンにはさむものなんだよ。

カリフォルニアロールはカニカマ

おばちゃんはある日、金髪の若いお兄ちゃんに日本人?って聞かれてそうだよと答えると、切羽詰まった様子で質問された。「本物のカニでできたカリフォルニアロールが食べられる日本料理店を知らないか?」

いきなりの質問で面食らったが、アメリカンの聞きたいことはよくわかる。何故ならたとえ日本人が経営する純粋の寿司屋でもカリフォルニアロールはイミテーションクラブミート(カニカマ)をマヨネーズで和えてカリフォルニアロールを作るから。高い店はカニ缶を半分くらい混ぜるかも。

この若い兄ちゃんは、カリフォルニアロールが好きで、もし”本物のカニとアボカドだけ”で出来ているカリフォルニアロールなら、きっと比べ物にならないほど美味しいのだろうと思ったに違いない。だから本気で探し回っているのだ。

残念ながら、当時お兄ちゃんの願いをかなえるお店はOCにはなかった。
懇意のすし屋でなじみになって、スペシャルオーダーが頼めて、キングクラブがある時で、さらに寿司シェフがYesといえば、作ってくれる可能性はないわけではないが、一口10ドル、一人前$50はくだらないだろう。

純粋日本人にしてみれば、いい新鮮なカニがあるなら、カリフォルニアロールみたいな”ゲテ物”にせず、そのままカニを味わえる調理法で食べない?と思う。
おばちゃんは、そんなことをお兄ちゃんに説明してもわかってもらえないと思い、素直にNo such restaurants.と夢をぶった切った。

アメリカでハンバーグがないのは、いい肉ならステーキで食べるからだ。
わざわざミンチにしてパン粉と卵をいれて嵩マシマシにしなくてもそのまま焼いてうまい牛肉を食べればよい。いい蟹はカリフォルニアロールにしないのと同じ。

この前、テレビで人気高級ハンバーグ店のオーナーが、これはA5ランクの肉なんです。とせっせとA5をミンチにしていておばちゃんは、ちょっと唖然とした。A5ならそのままステーキで旨いよ?あたし、ステーキでいいし。

ん~、ただ、日本人の食欲というか料理道とか探求心とかこだわりとか粘着質とかが、日本のハンバーグ・ステーキを嵩マシの救荒肉料理から、完成された別の天体に仕上げてしまった。
アメリカ人に食わせれば大抵うまいと言うと思うが、豚肉とパン粉を混ぜるのはやめてほしい。

空飛ぶ妊婦

空飛ぶ妊婦をおばちゃんは実際に見た。

OCにすごい勢いで中国人それも大陸からの移住者が増えた。新築の家の売り出しには中国人のリアルターが中国語のパンフレットを持って中国人の申し込み受付を始めた。中国人はローンを組まずキャッシュで買うので、抽選に当選しさえしたら確実に買う(売れる)

ガバメントはEB5という新カテゴリのビザを考案した。50万ドルの投資をすればグリーンカードが自動的についてくる。リアルターのデービッドは大忙しで、家は売れるビジネス物件も売れる、車もすごい新車がキャッシュで売れる。とにかく何かを世話すれば中国人が食いついてくる。

ショッピングモールの中国レストランの隣が売られると、これまた中国人が買い、その隣がまた売られると中国人が買い、ショッピングモール自体がチャイナ・タウンと化した。

おばちゃんのご近所でも住人が変わって、昼間に若い中国人女性がパジャマで出歩くのを見たり、3~5歳の子供が一人で三輪車を乗り回していたり、今までの静かな住宅街が変わり始めた。

幼児の下半身を露出して公園で排泄させたアジア系の母親が逮捕されたというニュースも放送された。
多分股のところをくりぬいたズボンをはかせていたと思う。

お高いデパートでここからここまでと目をひそめるような買い物をしたり、駐車場の空を争ってケンカをしたり。
友達のアイ子ちゃんはデパートの化粧品売り場に行ったら、買い物袋をいくつもおいて通路をふさいでいた中国人おばさんに、邪魔だからどいてくれない?と言ったところ
「You move」と言われてカンカンになっていた。

白人はどんどん南の市に逃げ始め、それでもアジア化は止まらず市長はベトナム系になった。そして、土曜日におじちゃんとランチを食べようとインドレストランに来ると、斜め後ろのパーキングにバンが止まった。

誰かがおりてきておばちゃんたちを追い越すとそれは妊婦だった。25・6歳で腹がでかい。割と美人系。そこそこ背も高くスタイルがいい。もう一人出てきた。

そしたらまた妊婦。年齢容貌同じくらいまた、出てきた。また妊婦。以下同。トータルで6人の中国人の妊婦がおりてきて、なかなか偉そうな態度で周りをうろつき、スーパーマーケットに入っていった。

アメリカは出産地主義を取っているので、アメリカで子供を産みさえすれば市民権が取れる。
共産党の幹部は「愛人」を腹の子ともどもアメリカに送り込んで出産させる。

将来、中国で何かあったとしても子供がアメリカ国籍を持っていれば子供をツテにアメリカに逃げることができる。その為に渡航費出産費用などが掛かっても保険として投資になるのだろう。

空飛ぶ妊婦はニュースにもなり、アジア系が多くなったOCに何か所か妊婦アパートがあるのだという。
むろん、アパートを経営するのも中国系だ。政府も危機感を持ち、何回か妊婦アパートを摘発したが、規制する法律がなくて、せいぜい宿泊施設でもない民家で違法に宿泊業を営んだ、くらいしか罰せられない。

ドアを開けておいて来るなと言う方がおかしい。
アメリカが出生地主義を廃さない限り、空飛ぶ妊婦は絶えることがないだろう。

おばちゃんが帰国してから何年も経ってしまったが、アイ子ちゃんに町の中国人はどうなった?と聞いたら昨今の米中の関係が悪化したせいで、町の中国人は家を売って消えたのだという。米中関係が変わったらまたやってくるだろう。

蛇足:質問があったので付け加える。
米国内で子供を産むとBirthCertificate出生証明書がとれる。これがアメリカ人である証だ。

子供がアメリカ人になったからと言って自動的に生んだ母や父に米国の滞在許可が与えられるわけではない。観光ビザ/ビジネスBビザで入国した母は産んだ子を連れて母国に帰国する。

21年たって米国人の子供はアメリカに帰ってくる。
子供は成年に達し出生証明書があるので米国大使館で米国人のパスポートが取れるい。つでも入国はできるが、アメリカ人として永住権のサポートが法的に可能になるのは21歳以上で、スポンサーとして経済力ができたとき。米国人としてアメリカに入国して、アメリカに両親とか配偶者とか呼び寄せて自分がスポンサーになって、両親の永住権を申請することができる。

観光ビザは最長90日滞在できる。ビジネスビザなら6か月。米国内で出産を計画しようとすると妊娠後期に渡米することになるが、米国政府がこれを察知して航空会社が後期妊婦へのティケット販売を制限するようになった。腹部が目立たない妊婦ならsneak in`できる。

2020年ついに米国は空飛ぶ妊婦へB2ビザの発給をやめた。ただ、F1F2への発給は止められないので、学生妊婦が増えるだろう。21年後のための米国内での出産は保険アリでも軽~く300万~ということがある。後期妊婦のために米国内でそれなりの産科施設を探さねばならないので伝手がないと。さらに定期健診と滞在費を支払える層でないとこの計画はできない。

September 11 2001  What if

September 11 2001
貿易センタービルが崩壊した日
あの日、いつものように主人を仕事に送ってゆき、家に帰ってきてテレビをつけると、映画の特撮シーンが何度も映った。頭が理解を拒否していたのだと思う。

送っていったばかりの主人はどうしているか、この映像のこの飛行機の衝突の瞬間に何人の命が失われているのか、この崩れ行くビルの間に何人の人がいるのか、恐怖にしびれているのだが、映像から目を背けることができなかった。
親友ジョイスに電話を掛けると、彼女も動揺していて娘を心配していた。彼女の長女は、当時ダナ・キャランNYのデザイナーでもしかして現場近くにいるかもしれず、気が気ではないのが分かった。ダンナのデイビッドは何か情報があるかどうか、電話をかけまくっているのだという。

電話を切って何も手がつかず、かといってテレビを消すと、沈黙で返っていたたまれなくなるのだった。次の日も次の日も、人は非常な緊張のもと日常生活を送ってはいたのだったが、足が地についているのか心もとない日々だった。生者は静かに死者を悼み、アメリカは喪に沈んだ。

May, 19 2003
大統領ジョージ・ブッシュは
My fellow citizens, at this hour,
American and coalition forces are in the early stages of military operations
to disarm Iraq, to free its people and to defend the world from grave danger.

ブッシュの宣言でアメリカ領土を飛行するすべての航空機の飛行をキャンセルされ、アメリカはイラクに反撃を開始した。

2日後に甥の結婚式に出席するはずだった私はフライトのキャンセルを強いられた。長く会っていなかった母が姪と一緒に去年カリフォルニアに来るはずだったのが転んで腰骨を折ったので来れず、結婚式で再会を楽しみにしていた。5か月後に母はクモ膜下出血で亡くなり、ついに今生で会えることはなかった。

テロの記憶はアメリカ人一人ひとりに深く刻み込まれ、ソーシャル・セキュリティのアカウントにログインするときにの3つの秘密の質問には911あの時あなたはどこにいましたか という質問が含まれていた。誰も忘れようがないのだあの日のことは。

2021年7月

ある時私はおじちゃんとテレビ・ニュースを見ていたら、アメリカで親しかった人が突然画面に現れてびっくりしてしまった。

随分、お痩せになったようだ。
コロナの中大変な苦労をなさったのだと思う。とっくにリタイアのお年だけれど、ビジネスをやっていれば従業員への責任もあるし、簡単にやめるわけにいかない。それは私たちもすごくよくわかる。

今日は熱海のニュースを聞いた知り合いから、安否の電話をいただいきLAの知り合いがコロナで2人亡くなったことを知った。

あの時、ビジネスを畳まなかったら、もし、今もOCにいたら、もし、帰国しなかったら、テレビの知人とは別にお世話になった先人がいて、彼はそれこそ昭和の半ばに渡米され手広くビジネスを展開して隆盛を誇った方だった。

我々が帰国を決めて報告した時、
彼は”帰国するといってビジネスを畳む人は沢山見てきたが、本当にきっちり日本へ帰国できる人はほとんどいない”のだそうだ。

苦労して取った永住権が捨てられない住み慣れた家を売りたくない、売れない、子供が学校の途中だ。日本の知り合いに聞いたら職探しが難しいとか、なんとなくまだアメリカにチャンスがありそうでぐずぐずしてしまい居残って、、。
  

帰国の決心はまったく後悔していないが、伊豆には今夜も雨が降るのである。熱海には土石流が流れ、この山はどうなるのかなぁ?おばちゃんの人生はいつも先が真っ暗なのであった。

ロングビーチのキャット・ショー

ロングビーチのコンベンション・ホールは、入口でアドミッションを支払い、ホールに入ると見たことがない景色が広がっていた。

会議用の細長いテーブルの上に猫の横長ケージが乗ってそのケージが先頭のステージまで波のように続いている。CFA主催のキャット・ショーで今日のメインはスフィンクス。入口で白人のカップルが2匹のスフィンクスを出場登録をしていた。

ケージの中にいる猫様はスフィンクスだけではなかった。長毛や短毛、図鑑で見られる様々な猫がケージの中で鳴きもせずすましていた。

そのケージたるやまた目を奪わんばかりのフリルとレースときらびやかな色の奔流だった。他の猫を刺激せぬよう覆いをかけるように推奨されていたせい。

本物の家よりゴージャスに両開きカーテンの縁はフリルで飾られレースで二重になっているもの。
あるいは猫の毛色に合わせた淡い色でドレープをたっぷりとったサテンのカーテン。

おばちゃんは後にネットで調べて、この猫のケージのカーテンを専門で作るカーテン屋さんがいて、一作1200ドルから2000ドルもすることを知ってひっくり返った。

参加者は99%の白人。
女性が圧倒的に多いがカップルでの参加もある。おじちゃんとおばちゃんは人生初の光景に圧倒され、きらびやかなケージの合間の通路を口を開けながら歩いた。お猫様は皆きちんとお座りしている。

実際の審査の呼び出しがあるまで自分のケージが控室だ。ケージの前でスチール椅子に座った白人のおばちゃんが人間用の瓶入り離乳食をスプーンで掬って猫様に差しだし猫様はスプーンから女王様のように召し上がっていた。

鳴かない、動じない、怯えない。長毛の猫様はブリーダーの白人婆さんがブラシで毛並みを整えるのに余念がなかった。

長毛の猫は見たことがないほど純白でチカチカ光っていた。次のケージも猫様は静かに座っていた。
ベンガルだったかもしれない。おばちゃんは短毛の猫が好きなので、白人のおばちゃんにどこからいらしたのと聞くとアリゾナから、と。長いドライブが大変じゃない?そうね、でもこの子達は訓練しているから。

後にテレビの番組で猫のブリーダーストーリーを見たが、ブリーダーはキャットショーに出すために、子猫の時からでっかくうるさいフーバーの掃除機をわざと猫のそばで動かしたり、鍋やフライパンの底を麺棒でガンガンたたきながら猫を追い回す光景が映った。

怯えたりびっくりしてリングから逃げ出したりしたらそれだけで失格になってしまう。普通の家猫よりもずっとタフで動じない猫たちに育つのだ。野良猫を保護して育てたおばちゃんにはとても信じられない世界だった。

日本から連れてきたニャーにゃんに死なれてしまって、おばちゃんは何か月も動けなかった。
フリーウエイをドライブしているとふっと涙が出てくる。ニャーにゃんが生まれてから離れたのは一時帰国した10日間だけ。その家族がいなくなってしまった。心配したおじちゃんが頼んだのか、日中に友達が花をもって尋ねてきたりした。

日本のように野良猫がその辺を歩いていたりしない。コヨーテに食われてしまうから。アニマルシェルターに行ってみたけど、その時にいた若い保護猫は気難しくて単独飼いを推奨されていておばちゃんたちの要望とは合わなかった。もし、シェルターに引き取りを希望したとしても外国籍の私たちは譲渡の順位は随分低かっただろう。

ニャーにゃんは典型的な日本猫だったけど、顔が三角で耳と目が大きかった。おばちゃんにはこのタイプが刷り込まれていて長毛が混じったり丸顔の猫は別の動物のように見えた。

ナナちゃんの健康診断とIペットショップと提携の獣医に連れていったらそこの先生が当のブリーダーだったナナちゃんが3か月で風邪を引いてペットショップから診察を頼まれた時も、偶然この獣医のエリザベスが診ていた。ナナちゃんを褒め、もしキャットショーに出せば絶対チャンピオンが取れる子よと言う。

おばちゃんたちは家族が欲しかったので、チャンピオンが欲しくて飼ったわけではない。
でも褒められて悪い気がしなかったので猫雑誌を買ってみた。そこに全米のキャットショーのイベント・スケジュールやブリーダーの広告がわんさと載っていたのであった。おばちゃんたちはロングビーチのキャットショーに来てみた、どんなもんかと。

リング

そしてとんでもない世界があるもんだと圧倒された。並みいるケージの先頭にはリングがいくつかあって、そこにはブリード専門のジャッジがいる。スフィンクス、ヒマラヤン、ベンガルそして、無論ドメスティック(家猫)もあった。

まずジャッジがスタンバイしていたケージから猫を取り出すとステージの上に置いて、骨格、顔立ち、シッポの長さ、毛並みの色、瞳の色などそのブリードを特徴とする要素をチェックしていく。

特徴がそろっていればOK。次には猫じゃらしを取り出し、猫の反応を見る。怯えたりジャッジにかみついたりひっかいたりしたら合格はもらえない。猫じゃらしにじゃれついて猫らしい反応ができた猫は合格。

ジャッジがお腹の下に手を入れてお猫様を差し上げて合格!と宣言すると、リングの真ん前に5席ほどギャラリー席があって、そこに陣取った白人のおばちゃん、おばちゃんの友達がきゃーエミリーmy sweet heart!とパチパチ拍手する。
ジャッジは猫をケージに戻してケージに布のおリボンをつける。ケージにはすでに赤のおリボンが3つ黄色のおリボンが2つついていたりする。

ブリーダーで獣医のエリザベスによると、並みのおリボンを10個獲得すると、チャンピオン・リーグに出場する資格ができるのだという。チャンピオンリーグで5個おリボンが溜まるとグランド・チャンピオンに出場権ができる。

ウチのアルフレッドがグランドチャンピオンを取るのは大変だったと言う。キャットショーは全米を巡回して土曜・日曜日に開催される。まず猫のエントリー費用がかかり、他州の場合は泊りがけで土曜日曜をつぶして連れて行かねばならない。並みのおリボン10個とチャンピオン5個を取ってさらにグランドチャンピオンを取る費用を考えると総額いくらになるだろう?

おばちゃんはグランドチャンピオンなどというお猫様やお犬様が世にいることは知っていたが、何か並みにないExtraodinary/卓越した何かが猫にあって賞を獲得したのかと思っていた。猫や犬がブリードの特徴に収まっていればおリボンは取れるようだ。

ただ賞をとるにはまず飼い主が並外れた情熱と費用がいる。世の輝やけるグランドチャンピオンの賞は、飼い主がExtraordinaryな情熱と金を費やしたという勲章である。あなたの猫や犬だって美しくて可愛い。
ニャーにゃんだって可愛かった。無冠のチャンピオンだ。ただ、ショーに出ていないだけの話。物珍しさにおばちゃんたちはもう少し探検することにした。

リングにはいろんな猫種がいた。ギャラリーが多いのは当時の人気のブリードだった。
ベンガルとかロシアンブルーとか。椅子が足りないので後ろに立って、Oh, loveryだのMy girlだとワンピースのおばさんたちが甲高い声援を送っている。Domestic Cat家猫のリングは家族で応援してた。It’s an american family.つぅ感じのファミリー。

ケージの列の間で誰かがCat out!と叫んだ。猫が逃げたらしい。
テーブルの下を駆け回ったらしいがすぐ捕まった。Cat out of the bagと言い回しを思い出してなんだかおかしかった。

猫専属カメラマン

一通りリングを回って展示エリアに来るとそこには撮影テントがあった。猫専用のポートレート撮影カメラマンがアメリカン・カールの撮影をしているところだった。
おばちゃんたちは観察した。テントの中に小高いステージがありブルーグレーのサテンが敷き詰めてあった。背景は少しブルーが強いサテン。

お猫様はポーズを取り、カメラマンはフロアにしゃがんでカメラ目線を欲しかったのか、なんと左手に猫じゃらしをつかんで背中に回し、猫じゃらしの先っちょを自分の頭の上に出して、振った。猫がカメラマンに視線を向けると、右手で撮影スイッチを押して一丁上がり。1枚700ドルするようだ。すごいわ、猫専属のカメラマンで生活できるなんて。

こうしてプロが撮影したポートレートをCFAの猫雑誌に載せる。2004年度グランド・チャンピオンとか。次のコーナーは猫のおもちゃ、キャットタワー、キャットフードなど猫グッズが一杯。
おばちゃんたちは記念に猫じゃらしを一本買って帰ることにした。

ナナちゃん

おばちゃんはアルフレッドを見た時、えぇっこのぶちゃいくがチャンピオンでナナちゃんのMating相手?グランドチャンピオンのアルフレッドはぶちゃいくだった。やぶにらみCrossed Eyeで顔がへちゃっていた。どっちかと言うとヨーダに似ていた。

おばちゃんはナナちゃんにどうしても家族が欲しくて獣医のエリザベスがブリーダーだったから、Matingを申し入れてみた。
エリザベスがナナちゃんをほめてキャットショーに出してはどうかと言ったくらいだったので、アルフレッドとMatingさせるのには異存がなかった。ま、いろいろ交渉の課程はあったが、。

アルフレッドはめっちゃ人懐っこかった。部屋に入った瞬間に足にまとわりついてゴロゴロと鳴いた。気がつかない間におばちゃんの床に置いたバッグにスプレーされていた。ナナちゃんがお泊りするので、ナナちゃんが好きなカリカリを持参したのに。

獣医のエリザベスの家は海辺の一軒家で2階のベランダはすべて金網で覆われていた。アルフレッドの住居スペースだった。去勢していない雄猫はスプレーをするので、雄猫専用の小屋が無いと家が一軒ダメになってしまう。水洗いできるベランダをアルフレッドの居住空間に当てたのだろう。主人と二人で金網を張ったのよ。5000ドルかかったわ。暖かいカリフォルニアといえども冬の戸外は結構寒い。アルフレッドちゃんは吹きっさらしで生活していたので毛がバサバサになっていた。

ナナちゃんはMatingのために2泊か、運がよければ1泊することになっていた。翌日エリザベスから連絡が来て、念のためもう一泊すると。3日目に引き取りに行くとエリザベスはたぶん大丈夫だと思う。うちのアルフレッドのSpermは優秀だから。出産まじかになったら無料で診察してあげる、と。ナナちゃんはその時0.8歳だった。

ナナちゃん出産する

出産予定日から10日くらい前、エリザベスは自宅まで診察に来てくれた。
Mating料のおまけの診察だから触診だけだけどお腹にいるのは多分3子、もしかすると4子だそうだ。おばちゃんは手元に2匹残すか、それとも3匹とも残そうかもうワクワクしてしまって出産予定日が待ち遠しくてならなかった。

おばちゃんは子供のころから猫を飼っていたので、何回か出産につき合ったことがある。おじちゃんは始めて。

ナナちゃんは夕方産気づいて用意した産室もハウスもバスケットも無視して洗面所の下で最初の子を産んだ。2子目は2時間かかってやっと生まれたが頭のすごく大きな子だった。
産道に引っ掛かっていたのかしら。3子目は産室で産んでくれたので、産室に毛布を掛けておばちゃんたちはリビングに退却した。

寝る前におじちゃんが産室の毛布をそっと持ち上げて中を覗くと、なんと4匹目の赤ちゃんがいた。
エリザベスはやっぱり正しかった。大きなオマケをもらったみたいで二人とも幸せに寝付いた。
おじちゃんは毎日飛んで帰ってきてナナちゃんの産室をそっと覗く。

最初と2番目に生まれたのがルディ、3番目と4番目の子が赤毛。子猫の脳みそって毛虫なみじゃないかと思う。な~んにも考えていなくてただ転げまわるモフモフの塊。おじちゃんの大好物。

子猫たちは問題もなくあっという間に育ちおじちゃんは子猫も登れるキャットタワーを自作して
ナナちゃん一家の運動会を見て幸せに浸っていた。生まれるのに時間がかかった2番目は

とりわけおっちょこちょいで頭がでかすぎて不細工。オマケで生まれた末子の赤毛は骨格は大きいものの痩せて便秘気味だった。おばちゃんは4匹のしっぽを持ち上げて覗くと1番目と3番目が女の子ではないかと思われた。おじちゃんもおばちゃんも女の子と男の子を残したい。

2人の知り合いから女の子を譲ってとお願いが来ていておばちゃんたちはどの子を残そうかと悩んだ。1番目の1ちゃんと4番目の4ちゃんはどうか?でもどうも男の子か女の子か確証がないので、一匹づつしっぽを持ち上げ写真を4匹分撮って印刷し、ニャ―にゃんの時からお世話になっている獣医のトムのところに写真を持ち込んだ。

トムが受付まで出てくるのを辛抱強く待ち、トムに写真を見せてどの子が女の子ですか?と聞いた。するとトムは4つの写真を指さしてboy, boy, boy, boyと言った。

おばちゃんは耳が信じられずその場で呆然として立ったまま、いやひと腹で全部男の子なんて何かの間違いに違いない。写真の見せ方が悪かったのよ。再度トムを捕まえた。
ドクター、よっく見て!
どの子が女の子?
トムはまたしても
boy, boy, boy, boyと指をさした。
アビーは男の子を生みやすいんだよ
と言った。おばちゃんの楽しき家族計画はガラガラと崩れていった。

ナナちゃんの4匹の息子たちのうち、長男の一ちゃんはグレンデールに、3ちゃんはLAにお婿に行った。おじちゃんが頭のおっきい久太郎がお気に入りで、オマケで生まれた八助はちょっとひ弱でいつも便秘気味だったので人様にもらっていただくより、手元に置こう。2匹も3匹も一緒じゃんと。家に残した。

久太郎

頭でっかちの久太郎は食べるのが大好き。もともと大きい頭でコロコロ太るととてもアビィに見えない。アビィの恥さらしみたいな体系になってきて毛色も姿もタヌキに近かった。キッチンでガサゴソ音がすると飛んできて、食べるものが出てくるかもとキッチンから離れなかった。よだれが多い子で、食べ物を期待しているときはいつも口元がうるうるしていた。

おばちゃんがサラダに入れるキュウリを輪切りにしていて、輪切りが一切れ床に落ちると、デブにしては俊敏に飛びつくので口が卑しくておばちゃんは恥ずかしかった。

この子は人懐っこくてバスルームも一緒に入ってきて洗面用ベイスンの上に乗るのがお気に入りだったが、ある時おばちゃんは、ピチャンと水音がするので変だな、水漏れかしらとあたりを見渡すと
なんと!驚いたことにベイスンの上の久太郎のよだれが床に落ちる音だった。

何故か久太郎は油症だった。小梅ちゃんが油っぽくて窓ガラスに手をつくと跡がついた。玄関先が見える窓ガラスには久太郎が鼻を押し付けて手をついた跡がハンコみたいに模様になっていた。
久太郎が走るとぷっくりお腹がよさよさと左右に揺れて、小熊が転げてくるようだった。
八ちゃんはお兄ちゃんの陰にいつも隠れて、自己主張せずおとなしく遊んでもらえるのを待っていた。

ナナちゃんと大きくなった息子たちは仲のいい親子とはいえなかった。ナナちゃんの遊び盛りの1歳前に子供を産ませてしまったし、おばちゃんたちは独立して仕事を始めてしまって朝出勤すると夜までかまってやることができなかったから。ナナと久太郎はあまり目を合わせない。
久太郎は自分の半分くらいの大きさのナナちゃんを怖がっていて、シャーと威嚇されるとおじちゃんの後ろに隠れるのだった。

突然死

九太郎は3歳になる前に突然死した。
9月の早朝5時に母のナナちゃんがものすごい悲鳴をあげおばちゃんたちは飛び起きてリビングに行くと、そこにはぱっちりと目を開いた九太郎が床に倒れており八助が倒れたお兄ちゃんに顔をかしげて静かに見ていた。ナナちゃんは二人に向かって聞いたことがないような威嚇をしていた。ナナちゃんが八助にとびかかろうとする。

おばちゃんたちは何が起こったのか分からない。九太郎の体はまだ暖かかったが息がなかった。もがいた様子もなければ吐いた形跡もなくただ、ぱったりと倒れて死んでいた。久太郎は太りすぎだったけど、健康診断でも何も引っ掛かる数値は無くもうすぐ3歳になるはずだった。

八助は攻撃して来るナナちゃんに怯えて逃げた。
ナナちゃんは久太郎を殺したのは八助と思い込んでいるように八助の姿が見えるたびにヒスるので別室に隔離した。

ナナちゃん以上におばちゃんたちもショックだった。トムのクリニックの緊急番号に電話を入れ起こったこと状況を話すと、久太郎の死は心臓が原因だろうと言った。
ナナちゃんが狂ったように残った息子に飛びかかろうとするんです。ナナもきっと怖ろしい思いをしたんでしょう。

久太郎が死んでも仕事にはいかねばならない。おばちゃんたちは九太郎をベッドに寝かせ仕事に行った。隣のパン屋でコーヒーを買う時ジャネットに息子の一人が亡くなったのよ、と泣き崩れてしまった。昼休みに家に帰って久太郎をトムのクリニックに連れて行って、久太郎も真っ白な骨になって帰ってきた。ニャーにゃんのUrn骨壺は小さすぎるので、九太郎も入るようにネットで泣きながら大きなUrn骨壺を探した。

ニャーにゃん

日本から連れていった猫は完全室内猫で日本の地面を歩いたことがなかった。おばちゃんたちの都合で、よその国に連れていってニャーにゃんに何かあったらどうしようかと心配したが、最初の1年を過ぎると年中温暖な気候で冬毛も生えなくなって、リビングの窓から緑の芝生を日がな眺めて穏やかに毎日過ごしていておばちゃんも幸せだった。

試しに首輪にリースをつけて芝生に出してみると、へっぴり腰でヘタって歩けないのだった。
抱き上げてほ~ら鳥さんだね。ブタさんが散歩してるね(ちょうどミニブタのブームだった)
芝生の前庭には街路樹があって、その一本は根元から緩やかに横に張り出していて、人間でも猫でも登ってくれと言っているようだった。

ニャーにゃんも抱かれて外に出るのが慣れたころ街路樹の枝にニャーにゃんを乗せてみた。
爪を立てて身をすくめていたが、危険がないと分かると静かに通りを眺めていた。

たまに通行人がニャーにゃんに気が付いてそれはなんていう動物?と聞くのがおもしろかった。
猫だよ。
ニャーにゃん7Kgもある白キジの男の子だった。90年代の初めに、ペットの猫を外国に連れていくなんておかしな人はあまりいなくて、猫の移住の資料はほとんどなかった。

飛行機会社は料金を払えばチケットはとれた。アメリカの検疫が心配だったので、LAXの検疫に電話
をかけてもらったが、日本で得られる情報以上の詳細は分からなかった。

かかりつけの獣医さんと相談して、うてる予防注射は全部うった。生まれてからのカルテを全部英訳してもらった。100%室内猫を移動中に怯えさせないように、2日ほど預けてニャーにゃんにあう安定剤を選んでもらった。後はニャーにゃんに耐えてもらうしかない。

おばちゃん、飛行中は息子のニャ―にゃんが無事かどうか心配で喉がカラカラだった。LAXのラッゲジクレームで水色のキャリアーを確認したときは、キャリアーに抱きついてオイオイ泣きそうになった。Jalのスカーフをしたスチワーデスのお姉さんたちが、心配して寄ってきたほどだった。

アパートに辿り着くと、ニャーにゃんはベッドの下に滑り込み1週間出てこなかった。
水とご飯はベッドの下に差し入れた。当時 使い捨ての砂はまだなくて、トイレはなかなか面倒だったから、おばちゃんが人間トイレでできるように訓練した。おっきい方は愛用のバスケットで出来る。代々の猫で一番賢い子だった。3歳だった。

ニャーにゃんは日本生まれの日本育ちだったから、和食しか食べなかった。魚味のカリカリ、おかか、煮干し、かまぼこ。おやつは焼きのりとオカキ(醤油味で海苔付きだとなお可)

アメリカの常識だと、猫は家禽類をたべるもの。猫缶はチキンかターキーが主流。
魚味の猫缶は少数で、ニャーにゃんはマグロとかサケは見向きもしなかった。
缶を開けると、見るからに鮮度が悪そう。人間も肉食の国だから、魚の猫缶のクオリティは
日本とダンチでおいしくなかった。日本育ちのグルメが飛びつくわけがないよね。

引っ越し荷物に入れた日本のカリカリが尽きる前に、ニャ―にゃんが食べられるカリカリをとっかえひっかえ買ってみた。お試しサイズがあったので、それは助かった。不満でもミックス味は食べると分かったから、主食が決まって一安心。

ニャーにゃんはお食事マナーもキレイであった。おばちゃんが、テーブルには絶対乗らないように、自分のお席(厚めのクッションを引いて)に座って食べるようにしつけた。
テーブルマットに主食と副食2を乗せて今日はどれを召し上がる?これ?これ?これか~?
と3つの皿を順々に指すと、ニャーにゃんはこれ~!と一つの皿を指さすので、おばちゃんか、おじちゃんが手のひらに載せてニャ―にゃんに召し上がっていただくのである。

ただ、焼きのりが食卓にある場合は別。ニャ―にゃんの目を盗んでこっそり食べるか、
ニャ―にゃんに一枚あげて彼が召し上がっている間におじちゃんとおばちゃんが大急ぎで食べるのであった。そうでないと、テーブルに乗り出してくるから。

おじちゃんが仕事で同僚に”ウチは海苔も食べられないんだよ、。”と愚痴をこぼすと、おじちゃん家は海苔も買えない貧乏と思われた。

海岸線が長いくせにアメリカの魚はだめだが、海老・カニは意外と安い。特にチャイニーズ・スーパーに行くと水槽があって、活けのロブスターもいた。一匹7~8ドルだったと思う。誕生日だったかな、
おばちゃんはきばって一匹ロブスターを買ってきた。シンクに置いた紙袋の中でガサガサ音がする。
ニャーにゃんは警戒心まるだしで、恐る恐るキッチンに入ってきた。

おばちゃんはいたずらっ気をだして、動いているロブスターの胴体を持つとほらっ!とニャーにゃんに見せた。

その瞬間、ニャ―にゃんのしっぽは最大に膨らみ恐怖のあまりキャッと40センチほどジャンプしたのであった。そして盛大にちびった。

生まれて初めての粗相であったから、ごめんよぉ、とおばちゃんは掃除した。

もう、お母ちゃんが悪かった。ニャーにゃんに謝り倒したのだが、このトラウマは終生残ってしまったのだった。どういう風にと言うと、気に入らないことがあるとか、気に入らないことがあったとか、おしっこを掛けるようになってしまった。

おばちゃん、西海岸で一番という獣医さんにかかっていたからニャ―にゃんを連れてカウンセリングに行ったのであった。
獣医のTomは西海岸で最初に猫だけのクリニックを開いた伝説の人でクリニックの中には、クリニックの飼い猫なんだか長期入院の猫だかわからない猫が自由にのったり徘徊していた。

ニャーにゃんは診察テーブルに乗って、トムが手を伸ばした途端聞いたこともないほど、ぐるんごろん喉を鳴らして
自分から体をすりつけていった。お母ちゃん以外にこんなになついたことがないのに!

トムは猫たらしだった。
多分、猫にまみれているせいで猫の匂いが染みついているのだわ。カールした灰色の髪に深く落ち着いた声でゆっくりしゃべる。
「去勢手術をしても、10匹に1匹くらい雄の本能が蘇るケースがあります。」
トムは静かな声で、いつも致命的な宣言をするのだった。生きたロブスターを見せて以来、おしっこスプレーをするように
なってしまったニャ―にゃん。蘇るって、えっ、どうなんの?

トムはうっすらと微笑みながら安定剤を処方してくれた。クリニックのそばの人間用の処方箋薬局ではニャ―にゃん用のちっちゃなハート型をした安定剤をくれた。
こ~んなちっちゃな錠剤見たことがない。
ところでなんの薬だろう?
ボトルにはヴァリューム(Valium)と書いてあった。
ひぇ~、あの人間用のヴァリューム?!
かの有名なヴァリューム!誰もがご厄介になると言うヴァリューム、うつ病の!

ちっちゃなハート型の錠剤をニャ―にゃんに飲ませると、ニャ―にゃんはぬいぐるみになってしまった。
日がなソファーの背に箱ずわりして目を半眼にしたまま動かなくなった。
英語の家庭教師のスージーに話すと、スージーはひっくり返って笑った。猫にヴァリューム!

トムはそもそもスージーから紹介されたんである。人間に効くからもちろん猫に効くのよ。それでおばちゃんは、ニャ―にゃんのお薬を一錠試してみることにした。

効き目はものすごかった。!眠くてしょうがない、とろとろズルズル。な~んかだるくて何もする気になれない。
気が付くとうたた寝していて2日ぐらい役に立たなかったのであった。ニャ―にゃんは7キロあったが、1錠で人間も寝てしまう安定剤は合わないのではないか?

おばちゃんは、ニャ―にゃんにスプレーを止めてほしかったので、ぬいぐるみが欲しいわけではなかったおばちゃんはトムに再びアポイントメントを取ったのだった。獣医のトムの声は静かで深~くて、ニャ―にゃんだけでなくおばちゃんもごろにゃ~んとなつきたくなるほど安心する響きだった。

おば:人間用のヴァリュームで大丈夫なんですか?
トム:猫には違った効き方をするんだよ。
ヴァリュームの他の薬を試してみようか。

次の薬もやっぱり人間用の安定剤だったが、ニャ―にゃんはぬいぐるみから解凍された。動く猫のゾンビくらいになった。

三白眼でゆるく歩きカリカリを食べ、宙をにらんで放心していたと思うと、むっくり起き上がってトイレに行った。帰ってくるとごろんとリビングに寝転んだ。おばちゃんはリビングのコヒーテーブルで宿題をやりながらニャ―にゃんを見守っていた。

おばちゃんはトイレに行こうと、よっこらしょと立ち上がり膝をコーヒーテーブルにぶつけた。その瞬間カタンと小さな音がした。

トイレから帰ってくると、ニャ―にゃんはコーヒーテーブルの影にかがんで「カリカリカリ」と何かを食べていた。
おばちゃんの人生のなかで3番目くらいに怖ろしい音だった。コーヒーテーブルから安定剤の瓶が落ちており、
ふたが開いてこぼれた錠剤をニャ―にゃんは無関心にただポリポリと噛んでいた。

おばちゃんはひぃと悲鳴をあげトムのクリニックにエマージェンシーだからこれからすぐ猫を連れていきますと叫んだ。
トムは最初信じなかった。
でもおばちゃんが、ニャ―にゃんがぼりぼり食べていたんです。ホントです。というと処置室に連れていった。後で電話をするから待てと。

夕方トムから電話があり、
胃洗浄をしたら、思ったよりたくさんの錠剤が出てきてどれだけ吸収されたか分からないので、
今夜はクリニックで様子を見ると言われた。どうしよう。おばちゃんは胸が潰れそうだった。

たった一人の息子なのに。眠れぬ夜をすごして、翌日の昼過ぎクリニックから
迎えに来ていいよと電話があった。

ニャ―にゃんはよだれをたらしていてトロンとしていた。トムが胃洗浄をしたときに、歯が一本折れてしまった。でも、いまは安定しているから連れて帰っていいよ。トムの大きな白い手の甲には生々し血のにじんだ切り傷があった。

ニャ―にゃんはアディクトになってたんでしょうか?自発的にポリポリ食べてたんですよ?
トムは、動物はアディクトになりませんね。
自発的に薬物を取らないので、。
そうかなぁ?

おばちゃんはこの日以来、ニャ―にゃんのスプレーを直すことは諦めた。ニャ―にゃんは顔が三角で耳と目が大きな美猫で今までで一番賢い息子だから。猫生に一つくらい傷があるものよ。と腹をくくった。もとはと言えば、おばちゃんがロブスターを見せたせいだし。

ニャ―にゃんのスプレー場所はソファだった。おばちゃんが一番長くいる場所なので、何か不満があると
やってきて読んでいる本から顔をあげないと、ソファの横に行って、しっぽを上げる。おばちゃんが気が付いてニャ―にゃん、何がしたいの?ご飯?遊ぶの?

おばちゃんが気付いてくれないと、立てたしっぽをプルプルと振ると同時におしっこを掛ける。雄猫のおしっこというのはたまらんほど臭い。

布張りのソファの生地を石鹸と漂白剤で洗い、猫用の洗剤とスプレーで洗い、いくら洗っても、また同じ場所に掛けるので
ソファはとうとう穴が開いてしまった。布はやわだからダメだわ。引っ越しの時にソファは捨てて、革のカウチを買った。

日本にいるときは、あまり鳴きもしない静かな子だったのに、スプレーをし始めてから、本来の利かん気が花咲いたのか、
ニャーにゃんは不満があると、大きな声で鳴くようになった。おばちゃんが何かに気を取られていると、その近くで不満をぶつける。
ソファーにスプレーし、キッチンの柱にスプレーし、プリンターにスプレーした。

健康診断でニャ―にゃんをクリニックに連れていってトムに愚痴を言うのだったが、そばの看護婦がスプレー掛けは一生治らないから、普通に飼うのは無理よ、、ね。

聞こえるか聞こえないかぐらいで言った。彼女の口ぶりの百分の1くらいに、眠らせるしかないかも。という響きが含まれているのを、まぎれもなく聞き取った。
ふん、アメリカ人は問題があるペットを眠らせることがあるから。
おばちゃんはニャ―にゃんがおしっこ掛けをするからと言って、見放したりしない!ふん!

しかし、ニャ―にゃんはシッポをフルフルするだけで、おばちゃんが慌てて駆けつけてなんでもしてくれるのを学習してずんずん増長していった。革のソファもやっぱり被害にあり、ただ掃除はまだ楽だった。
キッチンの柱は洗剤であまりにも洗うので、ペイントが落ちてしまった。

このアパートから引っ越すときに、臭いはどうしても取れず、清掃代としてなんぼか支払わねばならなかったのだ。
アパートのマネージャーは事務的に処理したが、
引っ越し屋さんはそうではなかった。

前のアパートから今のアパートへ引っ越すときに、一番近い運送屋さんを頼んだのだが、偶然にまた同じ引っ越しクルーに当たった。クルーのチーフはまだ若い金髪の男だったが、革のソファを肩に担いでトラックに積んだ後部屋に戻ってきた。

カンカンに怒っていた。
アンタ、あのソファに猫のおしっこがついてたぞ。俺は猫のシッコを顔に付けるために、引っ越し屋をやってるんじゃねぇ!
とおばちゃんにすごんだ。

ソファは掃除してあったはずだけど、革に染みこんだ臭いはやはり落ちなかった。
おばちゃんはしまったぁ!と思ったのだが、ここで金髪男にヘソを曲げられると引っ越しができない。

本当にごめんなさい。
ウチの猫がきっと引っ越しでナーバスになっていて、知らない間に、おしっこを掛けたのかもしれない。
貴方の顔につくとは私も全く知らなかった。これで、クリーニングをしてください。と20ドル札をお兄ちゃんの胸ポケットに押し込んだのであった。

手下の小柄なメキシカンがボスは、月曜日が嫌いなんだ。月曜日はいつも機嫌が悪いんだよ。ネバーマインドと慰めてくれた。

ニャ―にゃんは日本にいた時から完全室内猫だったから他の猫を見た経験がなかった。カリフォルニアの最初のアパートは1階だったので、リビングからでもベッドルームからでも外が見えた。窓から街路樹を走るリスや芝生を食べるウサギや
鳥が飛んでいくのは映画のように楽しかったのだろう。

日がな眺めているのはいいのだが、困るのは偶に近所の飼い猫が窓の外を横切っていくことだった。途端にシャーっと尾を膨らませ、ついでにスプレーもするのだった。おばちゃん、段ボールをばらして30センチくらいの幅に切り、外が見えるすべての窓にガムテープで止めた。

そのころ二階に引っ越してきた中国人は時間を全く無視して、夜の11時に掃除機を掛けたりカンカン中華鍋を振って料理をし始めるので、おばちゃんはイライラしていた。管理オフィスにどうにかしてくれと文句を言うと、掃除・洗濯・料理などの生活に必要な活動は住人に権利があって制限をすることができないと教えられた。

夜の10時過ぎにパーティー・音楽などがうるさければ、隣人は警察にリポートする権利はあるそう。まぁ、子どもいるような人は、迷惑を掛けないように一階に、頭上がうるさいのが嫌な人は、上の階がいいわよ。ウチの他のアパートで上の階が開いているところがあれば引っ越せるから。

おばちゃんは3ブロック先に3階建ての3階の部屋を見つけ引っ越した。ニャ―にゃんは他の猫に神経質になることはなくなった。

3階でエレベーターはなかったけど、築浅で広いし小奇麗だし、玄関にゴミ袋を出しておけばアパートの管理が持って行ってくれるし、クリーニングが必要な服をビニール袋に入れドアノブにぶら下げておくと、クリーニング屋さんに出してくれる。高かったが、。

ちっちゃなデッキがリビング側に付いていて、おじちゃんがプランターに花唐辛子を植えた。なかなかにぎやかな色でかわいらしかったが、どういうわけか、鳩が巣を作った。

日本よりず~っと小柄な鳩のつがいが、ぷーぽぷーぽと鳴き、ニャ―にゃんが見守って麗しい愛の家族が実現したのだった。つがいはタマゴを3つ産んで温めある晩気付くとヒナに孵っていた。

んま~、おじちゃんもおばちゃんもメルヘン気分になって、ヒナが順調に育っていくのが楽しみだった。
一緒のお家で育つからみんな家族!と思っていたのは人間だけで、ある晩帰ってくるとドア閉め忘れたデッキに鳩の巣が散らばっていた。ヒナは一羽デッキの上で死んでいた。もう二匹はどうした?おじちゃんとおばちゃんは一階の垣根に落ちたかも、。パニックになりながら探したけれど、ヒナも見つからず、親鳩は二度と戻ってこなかった。

ニャ―にゃんは大慌てしている私たちを横目でちらっと見ながら毛づくろいをしていた。おじちゃんが、ニャ―にゃんがやったんでしょ。可愛かったのに、。ニャ―にゃん、ここは3階だからプランターに飛びついて落ちたらどうするの?
ヒナさん死んじゃったから、ニャ―にゃんも死んじゃうよ。

アパートは2年ごとの契約更新で随分高くなってきたのでおばちゃんは家を買う決心をした。外が見えるリビングが1階じゃなくて、ニャ―にゃんが落ちるような危険がない家。そんな家あるのかしら。
あったのである。

おばちゃん カリフォルニアで家を買う暑くも寒くもない10月の休みの日、風がないのでおじちゃんと
家のそばの公園でバドミントンをして遊んでいた。帰ってくるとニャ―にゃんはオイラも遊んでくれよ、
とふくらはぎに体をぶつけてきた。ニャ―にゃんのお気に入りの黄色い猫じゃらしで

いつものように”遮蔽物からこんにちは、パタパタはどっちだ”を遊んでいると、ニャ―にゃんの息がだんだん上がってきて、突然向こう向きに倒れた。

お腹は呼吸で上下しているので、ニャ―にゃんどうしたの?と正面に回ると、ニャ―にゃんは半眼で泡を吹いてた。
クリニックのトムに電話を掛けると、その状態なら提携しているクリティカル治療のエマージェンシーに
直接行ってくれと言われて始めてニャ―にゃんをアニマル・エマージェンシーに連れていった。

診察が終わるのを待っていると、ナースが現れてニャ―にゃんは心臓に原因があって一晩心電図を取らないと
正確な診断ができないこと、料金は$900ドルだがやるかどうか聞かれた。無論やる。

おばちゃんたちは暗澹と家に帰った。次の日ニャーにゃんをピックアップすると、検査結果と診断はトムに送ってあるから、詳しい話はトムから聞いてくれと言うことだった。

ニャーにゃんは拡張型心筋症だった。心臓移植ができれば助かるかもしれないが、とトムが言った。原因は何ですか?
タウリンが不足すると発症する場合があります、。ではタウリンを処方してください。
発症してしまった後に、どれほどの効果があるかでもおばちゃんは一縷の望みをかけて薬局でタウリンを買った。

ニャーにゃんの食欲はほとんど無くなって、好きなかまぼこもパックを切ったその日だけほんの少量口をつけた。
おばちゃんは少しでもましなかまぼこや練り物、魚を求めてOC中を走り回った。

かまぼこや竹輪は冷凍の状態で日本から輸入される。どこの食料品店でも、解凍して売っているのだった。これでは食欲の落ちたニャーにゃんには食べてもらえない。自分でかまぼこは作れないの?

ネットからかまぼこの作り方を印刷した。おじちゃんは魚屋に鯛を一本注文し、届いた鯛を下ろしてフードプロセッサーにかけ、驚くべきことにレシピはペーストを水で洗えとあるのだった。

取っておいたかまぼこ板にペーストを塗りつけて蒸し3本のかまぼこはできた。ニャーにゃんは申し訳程度に食べてくれた。その頃になると、ニャ―にゃんはトイレに歩くのがやっとでベッドにはもう飛び上がれなかった。
ベッドに抱き上げようとニャーにゃんを抱くとギャーとすごい悲鳴をあげる。心臓が痛むのだと思う。

ニャーにゃんをベッドで寝かせるのはあきらめて、私たちが床に降りることにした。寝るときはリビングに毛布を敷き、ニャ―にゃんのトイレバスケットと水を周りにセットして休んだ。

おばちゃんは一度寝付くと目を覚まさないのだが、明け方キッチンの電話がなり最初のリングで目が覚め床から起き上がり、2度目のリングで受話器を取った。日本からの、母の訃報だった。

おじちゃんはニャーにゃんがいるから日本には行かない。Jalに電話をかけて当日のチケットを取った。

2~3日前からOCには灰が降っていた。北のランチョー・クーカモンガで大規模な山火事が発生しており、
その灰がOCまで流れて降っていたのだった。LAXに着いた時も空は不気味な鉛色で、チェックインするどころか出発便はどれもキャンセルされていた。Jalに聞いても空の状態が悪すぎるので、いつ飛べるか分からないと。

ひょっとしたら別のキャリアなら飛べるのではないかと望を抱いて、反対側のANAのカウンターでどれか飛ぶ飛行機はありませんかと聞いた。そうしたら、
「空の気象状況はウチのせいじゃないんで、そんなことを聞かれても困る」
おばちゃんは飛ばないことを責めていたんじゃない。飛ぶかどうか聞いただけ。ANAは生きている限り使わない。その時決めた。

7時間LAXでひたすらアナウンスを聞いて、夕方ついに飛行機は飛んだ。着陸したとき成田はすでに真夜中近くで、おばちゃんはJalの配慮で東京にホテルを取った。ほとんど眠ることなく朝一番の新幹線で実家に着くと、
姉がアンタ喪服はどうするの?私は母から私用の喪服を作って保管してあると聞かされていたので、お母さんが作ってくれているから、お母さんに聞いて。と言ってしまって、そうだ、その母が亡くなってもう居ないのだと呆然とした。

ニャーにゃんは葬儀から帰ってきてもまだ生きていた。ある日、よろよろと立ち上がると玄関に向かい、
ドアを開けろとしぐさをした。玄関デッキにでて青い空を見ていた。痩せて力が亡くなった体はふらふら揺れていた。

おばちゃんが夜中にふと目を覚ますと、毛布の上のニャ―にゃんがいなかった。おじちゃんにニャーにゃんがいないとゆすって起こしどこに行ったか二人で探すと、バスルームの床で冷たくなっていた。

おばちゃんたちは冷たくなったニャーにゃんをバスタオルで包みトムのクリニックに連れていった。渡米以来ずっと知ってるちょっと冷たくてつっけんどんの受付のおばちゃんが、哀れみを浮かべてAshes to Ashes, Dust to Dust と言った時おばちゃんは我慢が切れて号泣してしまった。ニャーにゃんは真っ白なサラサラの灰になって帰ってきた。

  • footer