とほほの女王

そりゃ、おばちゃんだって渡米したばっかりの90年代初頭は、ういういしくて見るもの聞くものめずらしくて
98年ころは今は無きGeocitiesでいくつかページを書き散らしていたのである。(あっ、誰かGeocitiesを保存しているやつがいたっけ)チャイニーズレストランがどうたら、アメリカの歯医者がどうたらとか無邪気なスカみたいなページ。

そのころGeoの住人も海外在住は多くなく、旅行雑誌のコラムみたいな記事はつまんなくなってくるし
もっと堪えるネタはないかと観察していたらおじちゃんの会社があった。

おじちゃんの会社のネタを書いていい?と聞いたら「俺を首にする気か?」と言われ露頭に迷ってまで
書くこともできず。
酒もやめたので、コンピューターにどっぷりつかった。文芸誌と小説を忘れてコンピューターの参考書を買い、
週刊アスキーを買う。

ちょうどウエスト・バージニア州のA子ちゃんとネットで知り合って、おばちゃんにEmailを書くと5分以内に返事が返ってくると言われた頃。LineもTextもない時代に。

朝、おじちゃんを送って行って帰ってきたらコンピューターの前に座り、Pearlとは何ぞやスクリプトとは何ぞや初めましてのプログラムはたった10行なのになんで動かんのか?

朝からコーヒーだけでそういえば、おしっこがしたかったけど
トイレに行くのを忘れとったわ。
上の空でトイレに行く途中、はっっ!もしかして3行目のコマンドはコロン:ではなくてセミコロン;ではないか?
トイレに行かずに書斎に引き返して、やっぱりセミコロン;でも動かんのぉ?そういえば、おしっこに、。
立ち上がってトイレに行く途中、はっとして4行目が、, カンマでなく.ピリオドではないか?引き返して、やっぱり動かんのぉ?

気が付くと夜になっていて上の空でおじちゃんを迎えに行って帰ってくると、なんだか心臓がどきどきする。
息も上がってきてドキドキはぁはぁなんか苦しい。あたし苦しいからエマージェンシーに行くわ!

おじちゃんを乗せてERの前まで行って、このドアを入ると一発$100ドルだ。くそっと腹が立ち、そういえば
私は今日水を飲んだっけ?

おばちゃん、脱水症状を起こしてたんですね。ERの料金がもったいないので、家に引き返して水を飲んだ。
やっぱ、プログラミングはセンスよね。あたし、向いてないみたい。
今はHtmlもほとんど忘れた。

週刊アスキーが面白いのでコラムのファンになり、おばちゃんも投稿してみっか?と投稿したら採用された。
ちょうど「新幹線より早い男」さんとか「かよのダンナ」さんとか「ご隠居」さんが活躍していたころだ。
女がただでさえ珍しかったので、おばちゃんは「とほほの女王」で
ミケ猫@カリフォルニ屋が誕生した。

そうだった。おばちゃん、すっかり忘れていたわ。なんせ、店の経営が忙しかったから。

コンピューターも仕事の集計とデザイン専用になってしまい明日のためにその1、今週のプロモーション!
などを考えているとWin03サーバーのセキュリティパッチ?ちょっと今暇がないから。息抜きは掲示板!てことになりおばちゃんは実務一筋にまい進したのだ。

ブログ?とんでもない。
おばちゃんの商売は客商売なので、どんなにおいしいネタが転がっていても書いたら廃業。書くならチラシに広告、店のWeb。OCに今でもいたらやっぱり書けないよなぁ。

帰国して見るもの聞くもの珍しくカウンターショックでブログをはじめようとしたら、日本語がメタメタだった。とても文章にならんのであきらめて庭いじりに専念していた。

無心で草取りをしていると日本語の文章がぷくぷく湧く。文章が頭の中を走っていって内容が面白いので、自分で一人で笑う。
しつこく湧いてくるようになったので、キーボードを叩いて頭から取り出すことにした。すっきりした。
そういえば今のうちに記憶も取り出して置かないと、おじちゃんからお前なにカリフォルニアの夢の話をしてんだよ。と言われてしまうことがあるかもしれない。

ラスベガスで骨休め

神は創造に疲れて7日目に休んだ。人間も休める時にきっちり休まないと商売と言うのは続けられない。

そうだ、ラスベガスに行こう!今までは会社の旅行だとか、取引先の人の接待だとかで連れていってもらったが、アナハイムから往復バスが出ているのでバスで行こう。

独立してから驚いたのは、おじちゃんが仕事モードとお休みモードのスイッチを持っていたことだった。おばちゃんは初めての経営で四六時中経営のことばっかり考えていて休まる時がなかった。

自宅に帰ってくるとおじちゃんはテレビは見ているけれど、何を聞いても生返事。おじちゃんは仕事モードのスイッチを切っていたのだ。やるべきことは沢山あるのに、何も考えていないとはどうしたことか、。ふがいないおっさんや。

ところが全速力で7日間稼働すると余力と言うものが無くなってくる。夜になるとスイッチを切って朝はまたフレッシュに活動できるおじちゃんと、夜通し考えて疲れ切って朝の仕事を始めるおばちゃんとのギャップが明らかになってきた。

結果と言うのはすぐ出ない、続けられなければ結果が出ない。7日稼働しても生まれるのは結果でなくて焦りと疲労だった。そこでおばちゃんも休みスイッチの必要が分かった。アイデアというのは贅沢な時間に生まれる。

一泊2日の休みならカリフォルニアからラスベガスは都民が熱海・箱根に行くようなものである。ベタ過ぎて新鮮味がないけれど、骨休めだから。目的はホテルのバフェとショーだった。

キンキンに冷房が効いたバスに乗って、ストリップの中ほどのホテルに着いて、通りに出て安売りチケット屋で今夜のショーを探す。うまくするといいホテルのショーがやったぁ!と言う値段で買える。

一度は「ジュベリー」がドリンク付きの最前列のテーブルで取れてしまって超ラッキーだった。もう、踊り子さんが1m先で踊ってる。ダンサーの足と言うものは、意外と逞しい。

網タイツに包まれた太ももに青タンがいくつもあるのがモロ見えである。長い足を振り回して踊るのである、ぶつけるのも無理ない。うっとり美しいショーを見るなら、最前列でないほうがいいかもしれない。

踊り子さんに劣らぬ短い衣装の若いサーバーがドリンクを運んできてコークは1杯8ドル2人分チップ込みで20ドル。次の日のランチはブッフェで幸せになってバスに乗って帰ってくる。おばちゃんはバクチは嫌いだ。

ラスベガスの真ん中を走っているカジノ通りをLas Vegas Boulevard 通称ストリップともいう。
Stripteaseとはまったく関係がない。細長い土地をストリップと言うのである。ガザストリップとかね。

地理はシンプルだ。空港から北に向かうラスベガス・ブルーバードの両側に有名どころのカジノが軒を連ねている。ピラミッドを模したルクソールから超高層タワーアトラクションで有名な北のスフィアまで一本なので歩こうと思えばできないこともない。
ただ気候はひどいからストリップを絶え間なく走っているバスを使う方が楽だ。1日パスなら乗り放題だし。

高級カジノを除いてホテルの宿泊費は高くない。安ければ20ドルからあるし。
昔からラスベガスはギャンブルで人の懐をカッパぐつもりなので、宿泊費と食事は高くなかった。ただリセッションの後からはレストランがどんどん値上がりしてきた。

おばちゃんたちはショーとブッフェが目的。オンラインでホテルとショーを予約するサイトがある。
いいショーの手ごろな席はすぐ売り切れてしまうのであとは安くて見ずらい席か、超お高いいい席かどちらかになる。

最初に見たシルク・ド・ソレイユのミスティアは確か35ドルくらい。当時人気だったホワイト・ライオンのショーが売り切れだったから残っているチケットがシルクドソレイユだった。なんとキレイなサーカスなんだろうというのが感想。

その後ラスベガスに行くたびにシルク・ド・ソレイユのショーの値段は上がっており、「オー」のころには100ドル前後になっていた。ジョイスが、すごい!「オー」がすごいというので、一体「水」がどうすごいのか、すでにチケットは売り切れが多く買うのも大変になっていた。

やっとチケットを確保できて席も悪くなかったが、ジョイスがうまくすごさを説明できないのが分かった。
確かにオーは「水」のショーだ。舞台に深いプールがある。高く漕いだブランコからパフォーマが飛び込む。水しぶきは上がるので確かに水であることは間違いない。

次のシーンにあっという間に「水」が舞台から引いて乾いた舞台に変化する。水はどこに行ったか分からないさらに次の瞬間にまた深いプールが出現し鮮やかな衣装のアーティスティックスイマーが水の中で華麗なパフォーマンスを見せる。

Oneだけは見られなかった。チケットが高すぎ常に売り切れでストリップのあちこちにあるTix4tonightでキャンセル待ちをしても取れなかったから。

色んな雑誌がシルクドソレイユの特集を組み、パフォーマーの高い報酬などが知られるにつれてチケットの価格は下がらなくなったのね。2020年に破産宣告をして同じ規模と質のショーはもう二度と見られないかと思うとおばちゃんは悲しいわ。

90年代の始めはシルク・ド・ソレイユのミスティアが35ドルだったのが夢みたいだ。Open jaw 口ポカ~ンのすげ~というショウが見たい。
きらびやかでゴージャスで美しくて日常性を吹っ飛ばしてくれるショウ。ジュディ・オングと小林幸子を白人化して踊りまくり超美形の体操選手が色とりどりの衣装で「立体ステージ」の上・横・空中でパフォーマンスする。お~、見た後は知能指数が10くらい落ちた気がするが、すごいもん見た!とリフレッシュができる。

後ろの席は安いけが見づらいからどうしても不満が残る。でも、いい席は200ドル以上するから二人分は考える。そこで安売りチケット屋がある。

ストリップのあちこちにTix4tonightとかボックスがあるので、キャンセルチケットを探すのだ。今は携帯があるので、キャンセルが出た時知らせてくれてそれでチケットを押さえることができる。

ショーは6時半か7時から始まって2時間ほどで終わるからそうすると有名どころのブッフェディナーは終わっている。9時過ぎにも食べられる手ごろなレストランを探すのが大変。

次の日のランチはシーザースパレスのブッキャナンかアリアのブッフェが楽しみ。ただ、行列が長くなってホテルでも何とかクラブを作って会員を先に入れるようになったので会員になっとかないと。

カジノの盛衰は激しい。サビれたカジノからは人が遠のき、もっと人目を引く新しいカジノが次次とオープンしてニュースで報道される。

2010年ころは人手ががっくり減って、ストリップを渡る歩道橋にスッテンテンになった旅行者とホームレスが物乞いをしていた。
アリアの前の歩道橋を上がっていたら、ばったり知り合いの夫婦にあったこともあった。カジノは超うるさいパチンコ屋とタカラズカと競馬場と演舞場、映画館とショッピングモールと地下街を足したような街である。こんな街は世界中ここだけだわ。


Eate you alive!

ほんの出来心だったんである。軽い冗談のつもりだった。

ニャ―にゃんは相変わらずおしっこ掛けが止まらず、おばちゃんは絶望的にソファの拭き掃除をして、その日チャイニーズ・スーパーに行ったら生の竹の子が買えたので、おばちゃんは嬉しくてキッチンで竹の子の皮を剥いでディスポーザーで砕いて始末しようとしたら、繊維が詰まってディスポーザーが壊れてしまい、

アパートの管理に電話をして、修理をリクエストし、メキシカンのハンディマンがやってきて壊れたディスポーザーを外して、すぐ戻ってくると出て行ったきり夕方になっても戻ってこず、

そういえば今日は金曜日で、5時過ぎにメキシカンが間違っても仕事に戻ってくるはずがないことが確定してしまい、この間、怪我をした右足の甲はズキズキ痛んで、

それと言うのもシ、シアーズにショッピングに行ったらつるつるのビニール包装の重い重いブロックが胸の高さに積んであって、それが滑って足の甲を直撃しおばちゃんは怪我をし打撲と流血だったにも関わらずシアーズの裏の事務所でバンドエイドを一枚張っただけでソーリーとも言われずに、むかむかしていたんである。

スーパーの買い物を下ろそうにも、ウチのパーキングのロットは部屋から遠いので、一番そばのロットにとりあえず止めて荷物だけ下ろそうとしたところ、ロットの持ち主に怒られてしまい、

おばちゃんは足が痛いので、ケンケンをしながら
荷物を一つ一つ部屋に運んで、、、キッチンのディスポーザーが壊れたんである。いろいろ、フツフツと人生が煮えた。

斜め向かいのベトナム人は最近子犬を飼ったらしく、一日中ひゃんひゃんと鳴いているのが傷に響いた。
これは家庭教師だったスージーの憶測だが、斜め向かいのベトナム人は家族で、観察するところガバメントの何かのプログラムにあずかっているのではないか、と。働いているようではないし、例えば難民プログラムだとか。

税金を払っているかどうかはおばちゃんはどうでもいいが、犬はしつけて欲しい。子犬を飼ったらドッグスクールに連れていって、最低限のしつけをして欲しい。散歩に連れていっているようではないので、子犬が無駄鳴きするのも飼い方を知らないのかもしれない。

とにかく暑くて窓は全開にしている季節だったから、子犬の鳴き声はよく響いておばちゃんのイライラを増幅した。おばちゃんはもう6時だしバドワイザーをブシュッと開けた。バドはかったるいビールだと思う。

味が頼りないのでおばちゃんはジムビームに切り替えた。香ばしい花のような飲み口でその晩はどんどんグラスがすすんでしまい、おばちゃんはすっかり酔っぱらってしまった。

そうしたら、例の子犬がヒステリックに鳴き始めおばちゃんはキッチンに行くと網戸にした窓から子犬に向かって

「黙れバカ犬、黙らないと生きたまま食っちまうぞ」
と英語で叫んだ。
それが聞こえたか聞こえなかったかは知らないが、子犬はどこかへやられたようだ。犬を食べる民族と思われたのかもしれない。

おばちゃんは自分が書いたブログを読み返してみて、いたいけな子犬を脅かしたり、役所の職員を怒鳴ったり
近所の人と喧嘩をしたり、短気でがさつでこらえ性のないアカン人のように見えて、ちょっと落ち込んでいるのである。

おばちゃんは本来争いごとが嫌いで、対戦するようなスポーツはとてもできず、一人本を読んだりコンピューターをいじったりすくない友達を大事にしてたまにおしゃべりする静かな人であった。はず。

東京ボンバーズ

若い人は知らないかもしれないが(これをいっぺん言ってみたかった!)東京ボンバーズって知っているかしらん?
ローラーゲーム!70年代のアメリカ直輸入のスポーツ番組で傾斜したトラックを2チームのローラースケートチームが相手をつぶしあいながら、トラックを何週かごぼう抜きすると勝が決まる。

長い金髪をなびかせたアメリカ人の女の子が、日本人選手をどつき、髪を引っ張ったり、蹴倒すなど悪行の限りを尽くす。
お茶の間に放映されたがこんな野蛮なゲームを女の子は見てはイカンと親に禁止されたスポーツ?番組だった。

アメリカ人チームは悪辣で、日本チームのエース佐々木ヨーコを審判に見えないように背後から髪を引っ張ってバランスをくずさせ、倒れたヨーコを別のアメリカ人チームメートが蹴るのである。

華奢なヨーコは、海老のように丸まりそれでも憤然と立ち上がってコースにもどり前に出ようとするところを、さらに肘ウチを食らって、レールにもんどりを打つのであった。

番組の終了10分前になると、またも足を引っかけられ倒れたヨーコは審判にアピールするのだが、アメリカ人の違反の時だけあさっての方を見ている審判はノーカウントを宣言する。

怒りのあまりヨーコはついに自分のヘルメットをトラックにたたきつけて、トラックに猛然と突進し、邪魔するアメリカ選手を肘ウチでレールにすっ飛ばし、つかみかかってくる金髪を肩で突き飛ばす。

日本人チームメートのアシストを受けて、ヨーコは彗星のようにグループの先頭に飛び出し、満身創痍の勇者はコースを一周し、東京ボンバーズは勝つのだった。

忍び難きをしのび、耐えがたきを耐えてから相手をぶちのめし、勝利を勝ち取るのである。

相手が何もしないのにいきなりキレたら、それはただのアブナイ人である。

おばちゃんも「忍び難き」と「耐えがたき」がいろいろあったのだが、「忍び難き」はあんまり思い出したくない。「耐えがたき」を思い出すと暗くなる。
おばちゃんが怒鳴ったり喧嘩したりしたが、それは忍び難きと耐えがたきがあったからと思っていただきたい。

おばちゃんは今静かに、伊豆の山で庭の草取りをしながら、おだやか~な生活に感謝している。
おばちゃんは静かな人である、スイッチを入れなければ。

ケンカの達人 ジョイス

アメリカで戦い方を教えてくれたのはいろんな人だった。なかでも親友のジョイスは、アメリカ人にどんなふうに交渉すればいいか目の前でお手本を見せてくれたときもあった。当て逃げのアメリカ人を通せんぼして止めたのも彼女だった。

ジョイスは客家系の台湾人である。中国人がケンカをするとき、相手のしゃべるのを聞きながら自分もしゃべり、双方同時にしゃべりながら言い合いをする。相手もジョイスもしゃべるのを止めない。自分がしゃべっているのに、相手の言うことを聞いているの?聞いてる、とジョイスは言った。
中国人は特殊だと思う。

普通のアメリカ人も同時にしゃべり倒して言い合いをしているのはよくある景色だった。相手のしゃべることをたぶん聞いてはいるが理解していない。
おばちゃんも、何度も相手と言い合いになった時があり、その中でふと相手が何を言っているか聞こうとして、自分のしゃべりを止めると、、負ける。

150センチあるかどうかの小柄なジョイスが、大きなアメリカ人に一歩も引かず、相手の矛盾をつぶしていきついには相手が黙ってしまうのだった。

私がかかりつけ(PCP)ドクターにアポを取りたいのだが、電話をしても受付で予約がいっぱいで2週間先になると言われてしまった。と愚痴をこぼすと、ジョイスはもう一度電話をしてこう言えと言った。If somethinge happen on me, Dr. A is all responsible under the law.私が教わった通りに秘書に言うと、秘書はエマージェンシー料金を25ドルもらうがいいかと聞き、次の日に予約をねじ込んだ。やれば、できるじゃないか!

とにかくPushせいと言われた。色んな所で、いろんな人がPUSHしろ言った。物事を動かすためにはPushが必要。
Fightともいわれた。この場合のファイト/戦う は物理的に争うことではなくて、自分の立場を明確にし自分の立場をサポートしてくれる意見や証拠や人を固めて、正義のラインを自分の方に引き寄せること。

保険の査定や契約違反や交通違反で捕まった時や行列に横入りする奴をはじき出すときも戦う。戦って決着がつかなければ、法廷に行って解決が気に入らなければ、結局コブシでカタつけるいると言うのもまたアメリカだった。

遅刻の達人

ジョイスは約束の時間が守れなかった。”貴方が来れる時間に”って約束するのだけど、約束の時間に間に合ったことがなかった。サンフランシスコで1度、ラスベガスで1度、飛行機を遅らせたことがあるからたぶん治らないと思う。

渡米して最初の年にESLで知り合ったのだが台湾系の客家だった。その時点で彼女は20年ほど住んでいたので、英語のおしゃべりに不自由があったわけではなく、文法がダメとか英文が書けないとかの自覚があったみたいで、カレッジの作文クラスや文法のクラスをとっていた。ただし、ファイナルまで受けてクラスを終了することはほとんどなかった。

何故かというと彼女の親戚たちは学校の試験時期などお構いなしに訪ねてきて、そうするとジョイスは親戚のおもてなしが最優先になってテストをほっぽらかす。学校の事務局からはこれ以上ドロップするクラスが増えるともうクラスの登録さえ許さないと最後通告を受けていたが、どれほど止む得ない理由があったかと窓口で力説するので事務の方が根負けするのだった。

電気ガスなどのユティリティの支払いは請求書を受け取って期限までに支払えないので、ガス電気水道アソシエションなどすべてのハウスホールドにかかわる支払いの窓口(地上オフィス)の場所を知っていた。

期限当日に請求書をもって窓口まで行くから約束のレストランで待っていて彼女が走ってくると、まず、なぜ遅れたのか事情を15分は聞かされる。誠実な人柄で信義に厚いのだが、時間と納期だけは守れない。

旦那デービッドの愚痴やガールズトークなどおばちゃんの英会話は彼女で鍛えられたようなものだった。レストランでご飯を食べ2時間おしゃべりをしてそれ以上テーブルを占領するのも申し訳ないから外に出て、駐車場で立ち話で話していると、アメリカ人のティーンががやがやと側を抜けてファーストフードに入り、出てきたら同じティーエージャーが同じ場所に立っておしゃべりを続けている私たちにあきれて、女ども早よウチ帰れ!と言われた。

ある時はショッピングモールのフードコートで待ち合わせ、さんざんおしゃべりをして周りのテーブルにも人がいなくなり、モップを持ったジャニターが掃除を始めても動かず、でも膀胱の方が満タンになってきたので二人で御手洗いに行ったら用をたしている間にトイレも電気が消された。

フードコートにはもう誰もいなくて無論電気も消えていた。キャー怖い!と私が言うとジョイスは前はどこそこのモールで閉じ込められたと言っていた。出口の鍵はまだかかっていなかったので助かった。

家族とか親族とか友達にはとことん尽くす。アメリカ人に理不尽なことを言われたら、こう言いかえせとかこう戦えとか、アメリカで生きていくためには何をわきまえて何をすればならないのか教えてもらった。ただ、時間は守れなかったけど。

直伝の餃子

ジョイスは客家出身で台湾経由でアメリカに来たから、ジョイスが作る餃子が中国人の伝統餃子だと断言はできない。ある時、夕食に招かれていたので時間に行ったら大慌てで準備中だった。若きおばちゃんは料理が嫌いではなかったので、一緒に作ろうと言って手伝った。

餃子の具や包み方は家それぞれの伝統があるのだという。ジョイスは白菜を微塵に刻んでいた。ボールの白菜を短い時間電子レンジにかけ、ギューッと水を絞った。
味付けの塩や調味料を入れた。(ここはよく見てなかった)ひき肉を混ぜて白ワインを少し足した。台湾だったら紹興酒なのかも。ネギも玉ねぎもニラもニンニクも入れない。

焼き方はフライパンで蒸し焼き、鍋貼だった。もしかして私のことを考えて、あえて鍋貼だったのかもしれない。出来上がった餃子は唐辛子ソースオイル?HotOilをつけて食べる。酢醤油は付けないの?と聞いたら酢醤油って何?とそういえばレストランでも酢醤油はないもんね、。

ジョイスはFreshなおかずはいつ作るの?と私に聞いた。FreshFoodsが分からない。いろんな角度から話して分かったことは、ジョイスは家族全員がそろっている日曜日に大鍋いっぱいのスープを作る。これが今週のスープ。それと何種類かのおかず。

で、次の日はスープを温めておかずを温めて、目先を変えてスーパーの蝋肉(チャーシュー)を買ってきておかずに追加したりするらしい。

はぁ、そうかそれで分かった。このさっきから何だろうと思っていた黒いチャーシューは何回目かにチンした中華スーパーの蝋肉(チャーシュー)だったのだ。私もよく買ったけど、買った当日は赤っぽいのね。何回かチンすると黒くなってくるのだ。

油の使用量も質問がかみ合わなかった。ジョイスは1月に30リッター缶を何缶使うの?と聞くのだが私は3~4か月に500ミリを1本使うかなぁ?と答えたりしてお互い質問が間違って聞こえてるのだと思っていた。ジョイスはその時下の娘が3人家にいたから5人家族で多分30リッターの油を2~3缶使っていたのだろう。


お互いの食文化が違いすぎて信じられなかった。だって、ほうれん草のお浸しは塩を一つまみ入れて茹でると言ったら、えっ?青菜は油を入れて茹でるものでしょう?と返事が返ってきてお互い驚いた。

ジョイスの家はきれいだったけど、この油の使用量のせいで中国人の住んだ家は買うものじゃないと言われていた。インド人のキッチンもスパイスが染みつくので同じく買うものじゃないと言われていた。

まぁ、ジョイスみたいに今週のスープとおかずを週末にまとめてお料理をするのがどれほど中国的に伝統的一般的なのか分からないけれど、二人でおしゃべりをして夜の9時に帰ってもジョイスはチンすれば家族に夕食を出せるわけでそれが女二人でゆっくりおしゃべりできる秘密だったのだろう。

純白のジャガー

ジョイスの前の旦那は台湾人で母親が宝石商だった。乗っていた車がジャガーで、ジョイスは何かジャガーに特別な思い入れがあるようだった。

中国人も韓国人もベンツ大好きなのに?ジョイスはあくまでもジャガー、白のジャガー。

デービッドが乗っていたのは古いホンダでジョイスはBMWだった。ホンダが限界になりとうとう真っ白なジャガーを買った。ジョイスのBMWはデービッドに下げ渡しになり、普段はジョイスがジャガーを運転していた。

ある時二人で旅行社に行ってバケーションの相談をして外に出ると、ジャガーの周りをポリスが取り囲んでいる。運転手はお前か?と聞かれデービッドがそうだと答えると登録証を出せという。

ポリスは登録証をパトカーに持ち込んで照会を掛けた。さらにポリスはこの車はお前の車ではないといい、押収するから車から自分の持ち物を出せといい、トランクも開けてテニス用具だとか荷物を全部下ろさせた。レッカー車を呼んで引いて行ってしまった。

その頃には、モールのにいた買い物客も野次馬になって眺めている。
デービッドは何を言ってもポリスに相手にされず恥ずかしさと困惑でわなわな震えていたという。物静かな人が、。

タクシーで家に帰って電話をかけまくると、ドジをやったのはローンを組んだ銀行だと分かった。ディーラーから買って名義変更を忘れたのだ。ジャガーを取り戻さねばならない。

真っ白な新車のジャガーはその時、ポリス御用達しの露天のジャンクヤードに放置されていて、引き取りに行ったときは、新車のボディに擦り傷がつき運転席はドロドロに汚れていたという。

デービッドは激怒してとにかくドジをやったのは銀行なので今月のローンは絶対払わないし傷ついたボディを何とかせい!と抗議していた。名義変更を忘れるのもアメリカよね。

先日、これまた物静かでホントにいいひとだったSさんが荒れ狂って一枚の写真を公開していた。家の中がハリケーンが通ったみたいにひっちゃかめっちゃかになった写真。
奥さんと一緒に家に帰ってきたらドアが開けっ放しで惨状が見えたそう。めちゃくちゃにしたのはFBIだった。隣の家と間違えて家宅捜索したんだって!

ポルシェを買う

おばちゃんがポルシェを買うわけがない。おばちゃんもダンナも根っからの庶民である。身の丈を知っているので、たとえ軽なみに安かったりしてもポルシェは買わない。「腐っても鯛」は信じない。
腐ったら鯛は食えないから買ってはイカンのである。鰯でいい。

ある時、ウチの女の子が「お話があるんですが、」と切り出した。この「お話があるんですが、、」というやつが一番どきっとする。いい話であったためしがない。給料日の後だと、金額が間違っていたとか?まさか辞める相談ではなかろうかとどきどきする。

「実は相談にのっていただきたくて、、、」
「ポルシェを買ったんですが、」
え?
「ポルシェを買ったんですが」
えっ、
「あんたがポルシェを買ったぁ?」

おばちゃんはこのやっと二十歳を過ぎた女の子が、何を言っているのかさっぱり分からなかった。「実は人に頼まれて、ディーラーでポルシェを買ったんです」ナルホド、そういう話か、、。で、?

BMWもそうだがポルシェもヨーロッパから正規代理店を通して日本で買うと高い。アメリカで新車を買いオーナー登録をしてから、中古車として日本に輸出すると、正規輸入よりぐっと安くなる。ポルシェのカイエンが日本で800万代になる。

同じ名前のオーナーが日本に何台も輸出すると、目を付けられるので、車の登録をしてくれる名義人が必要だった。数百ドルで名義を貸してくる間抜けな学生が必要だったと。

で、あんたが食いついたと。代行業者が輸出手続きを済ませて、車を日本へ送り出した後、州のDMV(自動車登録局)からあんたにポルシェの自動車税を払えと通知が来たから困ったって?

でもポルシェは売って、名義はすでに変わったと主張しても、DMVはでは名義が変わったという証拠を見せろと、。業者に連絡しても返事がないと、。
やれやれ。

色々調べるとDMVが税金をこちらの名義人に請求して来るということは、車の登録証はまだ変更されていないということで、手元に残っていたピンクスリップか登録証なしでは日本での売買ができない。

業者もやっと気が付いたようなので、登録証は絶対渡すな、税金分の金を支払えば、売買契約書のコピーなどの証明書類と引き換えに送ってやると連絡をしろと。ぐずぐずいう業者をがんという態度を見せて事態は収束したのであった。

アメリカの車事情

アメリカ人の懐事情は車で一番わかる。ウチの女の子が男と付き合うときは、相手の男がどんな車に乗っているか、しっかり見ろと教えていた。

身の程を知らず無理をして家を買い、キューキューしてローンを払っているアメリカ人なら、車にはとても手が回らない。車を見れば、懐具合を図る目安になる。家を買う前のまだ若い世代ではどうか。BMWに乗っていたら要注意である。何故か?

BMWは日本で買うより、アメリカではず~っとお手軽価格になっている。ベンツやレクサスにとっても手が届かないけど、気分だけリッチになった気がするBMWはぴーぴー言っている貧乏世帯にも何とか手が届く。
な~んちゃって外車なのだ。

新車のカローラとかビッツより安かったりすることもあるのである。身の程知らずの見えっぱりに引っ掛からないように、おばちゃんは教えるのである。

ちなみに、金持ちになると車はどうなるか?世帯収入が20万ドル(2千万以上)前後が一番ベンツやレクサスに乗って見せたがるようだ。

1億を超えるような本物のセレブの場合、事情は変わる。どこにでもあるようなバン、見てくれは普通だがカスタム仕様でバレット・プルーフ。強盗と誘拐が一番怖いからだ。

おばちゃんが実際知り合ったのは、自宅はプライベート・ビーチ付きの55億
(当時、今はたぶん2倍の100億くらいだろうか)。車がトヨタのエスティマで(どんな装備が施されているかわからない)自宅には専属メカニックが住み込んでいた。

きらめくシャンデリア プール 螺旋階段

ひと月$700の最初のアパートの部屋にはシャンデリアがぶら下がっていた。普通に学生も住む標準のアパートである、築後30年は経っていたと思う。新しいこじゃれたアパートになるほど、古臭いシャンデリアは姿を消し、天井埋め込みの間接照明が多くなる。

最初の昔ながらのシャンデリアは、小さなロウソク型の電球がぐるりと半ダースもついて、ダイニングエリアにぶら下がっていた。
鎖が意外と長くて、たくし上げるのも面倒くさかったから、テーブルの席によっては、ダイニングテーブルから勢いよく立ち上がると、頭にぶつかりそうになるのであった。

ダイニングの照明はそれ一つであったから、ソファに座るととても本など読める明るさではなかった。フロアスタンドを買って、一番明るい100Wを付けてソファ周りは明るさがあるが、それでも部屋の天井や隅は薄暗かった。

新しめのアパートに引っ越してもリビングの照明は一か所。薄暗い部屋はなにか貧乏くさい感じがする。と当時のおばちゃんは思った。キッチンの天井のライトをつけ、リビングの照明をつけ、フロアライトの100Wを付けて、すみずみまで明るくなって、ようやく幸せな生活になった気がする。

夜の10時に主人をピックアップして帰ってくると、3階の我が家だけが、パーキングに入る前に目に飛び込んでくる。何故ならひときわ明るくきらめいていたからだ。前後左右すべてのアパートでそんなにも明るい部屋はどこにもなかった。若きおばちゃんは、何か田舎者になったようて恥ずかしくなってフロワーライトの電球を40Wに落としたのであった。

蛇足だが、アメリカのフィラメント電球は売っているときから「切れて」いることがある。先人の日本人のおばさまから、買うときに確かめてから買うようにとアドバイスをいただいたものだ。

私は何を言っているのかしら、このおばさまと思ったのであるが、本当だったのである。商品の電球を持って、振る。シャラシャラと音がするなら切れている。

おばちゃんは、今でもホームセンターでフィラメント電球を買う時振ってしまう。日本で今のところ不良品には出くわしたことがない。

プール付き

家にプールがある人は珍しくない。馬小屋が付いてる場合だってある。住み移ったアパートにはみんな25メートルプールが付いていた。のちに買った家にはアソシエーションのプールがあった。蒸し暑い夏は、何度か泳いだこともあるが、大人はそうそう泳がない。日焼けしたくないし

知り合いは自宅にプールを自分で掘って作った。土木的には難しい構築ではない。2008年に掘り始めたら、サブプライムの不況が襲ってきて、庭に掘りかけたまま大きな穴をさらしていた。2年ほど穴をさらしていて、金が回り始めたらようやく完成したようだ。

水不足のカリフォルニアでプールに一旦水を張ると、そうそう水の入れ替えはできない。フィルターとポンプで漉しているといっても水の状態はけして良くない。夜の間にガ、アメンボ、甲虫、バッタなどのありとあらゆる昆虫が盛大に水に飛び込む。この虫を掬って始末するための専用の長~い玉アミが売っているほどだ。

プールのメンテ会社も好景気には繁盛していた。メンテ会社に払う金を惜しめば、父ちゃんが昆虫アミをもってくそ熱い土曜の朝からせっせと虫を掬わねばならない。なんで、俺がこんなことをするんだろうとブツブツぼやきながら、息子にやらせればいいのだが、息子は金曜の夜からいない。

プールは面倒くさいので、大きさがもっと手ごろなJacuzzi(ジャク―ジ CUにアクセント)を買って庭に置いてみたいと思うだろう?
シャンパンを片手に、緑の芝生を背景に美女と笑いさざめくのだ。が、プールと同じことで、ふたをするのが面倒くさい、蓋をしないと虫が入る。しっかりと入れた塩素剤がポンプでブクブクされると、実に塩素がのどに来て痛い。髪も肌もバサバサになる。

水道代も電気代もバカにならない。油断するとハロウィーンの夜には、近所の悪ガキに洗剤をいれられてバブルのスイッチもオンにされ、あわぶくが1メートルも芝生にあふれることになる。思っていたロマンチックな幻想がぶち壊されて、瞬く間に邪魔くさい無用の長物となって、カミさんにうざがられる。

そんな事情で中古のジャク―ジはわりと余っている。
あなたも一つどうだろうか?

螺旋階段

アメリカだから、らせん階段があるのよね?と日本の幼い子にと聞かれて困ってしまった。らせん階段?をしずしずと美女が降りてくる?中世のヨーロッパだろうか

階段をらせん状にする理由はスペースが狭いからだと思う。アメリカの豪邸にある場合、どちらかと言えば宝塚かな。あるいはラスベガスか。
吹き抜けのホールに、左右合流するだ~んと広い階段。LAは別だが、郊外は広大に広がっていて普通の一軒家は普通に階段があり、大豪邸はだ~んと宝塚。

郊外の都市に高層ビルがなくて、びっくりしたものだった。高層ビルに邪魔されない郊外の空は、広~くハレバレとしていた。土地はたっぷりあるので、ビルを高くする必要がなかった。

有名ショッピングモールでもほとんど平屋か2階まで。延々と何ブロックにでもまたがっているので、何か所もある駐車場は目当てのショップに近いものを選ばないと、長く歩く羽目になる。

日本にも進出してきたCostco(コスコと発音する Tは無性音)は1990年代初め、店員はローラースケートを履いて移動していた。嘘やおまへん! ホンマどす。テコテコと店内を歩かねばならない客の私はうらやましかったものだ。

自動ドア

カリフォルニアにはほとんど自動ドアがなかった。ドアは自分で開けるもの、開ける際に後ろを見て、人がいたらドアを押さえるものと教わった。
押さえてくれる人がいたら、ありがとうと礼を言う。

帰国したらほとんど自動ドアだった。たまに自分で開けるドアの場合、後ろの人のためにドアを押さえていると、後ろの人は何も言わずに通っていく。
会釈も笑顔も返さない。2人目も3人目も幸いとばかりずんずん通る。

大体観察していると、人がドアを開けるとき、本人は後ろを見ていない。後ろの人は他人とばかり、手を放して後ろの人の顔の前でバタンと閉まる。
すごくショックである。
建物のドアで私のために開けてくれ押さえていてくれる日本人は、今のところ主人だけである。
なんか、悲しい。

海外の嫁姑事情

海外にも嫁姑問題はあるのか?
ある。

親友ジョイスは大雑把に言えば台湾系で、カナダ経由でカリフォルニアに渡った。ダンナも同じく台湾系だが上海出身でやはり台湾からカナダに流れた。

台湾というか、中国も日本の戦前の家族観が続いていると思ったらよい。家族法も日本でいう旧法のようで相続は長子の男子総取だったりする。親友のジョイスは、実はバツイチで一子あり、ダンナより4歳年上。
このジョイスが結婚するとき、ダンナの母(姑)は荒れに荒れた。新婚旅行に同行し、夜は嫁を別室にして自分が息子と眠った。

面と向かえば非難と批判に糾弾である。新婚家庭に数か月居座り、彼女が料理をしても食べない。中国女は気が強いが、ジョイスは儒教に縛られていて姑には言い返さなかった。ビザがない姑が長くいられるわけもなくアメリカと台湾で別居したところで東西冷戦状態に突入した。

ダンナの父が亡くなった時は、葬儀に台湾に帰ったがジョイスはホテルに滞在した。彼女は葬儀には出ず先に帰米した。葬儀が終わってダンナも帰国してきたが、ダンナが持ち帰ったお土産がJを大爆発させた。これは嫁にやれ、と壊れたドライヤーを姑に持たされたのだ。

「ねぇ、どう思う!どう思う!」ダンナがアホじゃないかと思うのだが、
ん~とか、あ~とか冬彦さんはアメリカにもいるのかと思った。ちょうど日本でドラマになったころである。

その他家族事情中国人の家族「ファミリー」の観念はちょっと日本と違う。父方か、母方か従妹の関係を一言で表す言葉が豊富らしい。

ジョイスには姉が何人かいて姉の一人が結婚した。ダンナには幼い妹がいて、ジョイスの姉が母替わりで養育した。ところがダンナのギャンブルと酒が問題で結婚は破綻した。

ジョイスの姉の元ダンナの妹は、のちにカリフォルニアの中華系と結婚し、この中華系がIC製造で大成功して長者になる。パシフィック・パリセリードで大豪邸を構え、クルーズ船をチャーターして、一族をクルーズに連れてゆくのである。

ジョイスも一族としてヨーロッパを回り、私はイタリア土産のバルサミコ酢をもらった。

姉の元夫の妹は、IC富豪が自分の親族にバカバカ金を使うのに心穏やかでない。係累が少ない自分の親族をあらん限り呼ぼうとする。自分の兄の元妻の妹も親族として大盤振る舞いをしないと公平ではないと思う。

だからIC長者からすると、自分の妻の兄の元妻の妹も十分にファミリーとして範疇になるらしい。

時は過ぎて、ジョイスの知り合いの中国人が娘を持ち娘は大学の同級生の韓国系2世と結婚した。両民族(ファミリー)は結婚を祝福したのであったが、アメリカ育ち2世の結婚は最初はうまくいっていたのだが、韓国系ダンナが中国系妻を殴り、気の強い中国系妻が親に泣きついて、一挙に民族闘争と化すのであった。

中国系は親戚の男手を集め、ついでに得物(火器ではない、捕まるがな!)としててんでにバットや棒を持ち、中国系は韓国系実家に殴り込みに行ったのである。20世紀が終わるころの実話である。

アサちゃんの場合は

ウチの仕事に来た時、アサちゃん(仮名)はすでに子供が一子いた。アメリカ人のご主人は、彼の母親のお気に入りのBoyらしかった。ストレートでダイレクトなアメリカ人が、歯に絹きせずに物いうとどうなるかというと。

I hate you。と
私のお気に入りの息子を取ったお前が嫌いだ。銃があるなら撃ってやりたいよ。アサちゃんも、アメリカにもまれて経験を積んでいる。

姑の顔に触れそうなまで自分の顔を近づけて、そうか、撃てるもんなら撃ってみな!そう言ってやったんですよ。アサちゃんは鼻息を荒くして私に言った。

二人の女は天敵である。同じ部屋にいることはない。アサちゃんは子供の数は増えたが、ダンナはアリゾナに行き、今は離婚して平和だ。

ミドリちゃんは、バイトの同僚だった金髪ブルーアイズと結婚した。ダンナが日本趣味でわざわざしゃぶしゃぶ屋でバイトをしたのだが、実は、金には全く困っていなかった。

海岸沿いの広大な土地に代々の墓があるような、地主の息子だった。シンデレラの物語は本当にあったが、結婚生活には鬼婆の姑がもれなく付いていたのである。

鬼婆はミドリちゃんにむかって、ストレートを撃つ。
「あんたはウチの金が目当てで息子と結婚したのよこの ビッチ!bitch」って言うって。ミドリちゃんは子供を抱え、撃たれっぱなしだった。

自分が戦って強くならねば、誰も守ってくれない。子供ものためにも強くならねば、国を撤退することにもなりかねない。戦え!戦って強くなれ。

元号が覚えられない カタカナが怖い

LAの総領事館のオフィスがまだ下方の階で、広くって超高学歴・完璧バイリン”風”の窓口の大使館員おばさんがいたころ、もっと偉そうでつっけんどんだったころ。
窓口には、戦争後に来たんじゃないかという、日本人のお婆様が申請フォームを手に、もう日本語なんか書けないし、言葉も色々忘れちゃってるから、バイリン風窓口のおばさん大使館員が、くどいくらいあれこれ日米両言語で問いただしてた。

窓口の上方の壁には横1メートル・縦50センチくらいのでっかいサインボードがあって、老眼鏡も絶対必要ないだろうという大きさで
「今年は平成 X 年です」と書いてあった。
まぁ私も見たときは ああ、もう X年なんだと思うのだが、次に領事館に来るときは当然ながら年が変わっているわけで、ああ、X年なんだ。とまた思うわけ。

日常生活で日本の年号を目にすることもないし、ネットはまだ黎明期で、Yahoo!か朝日新聞がようやく稼働を始めたかという時期だったから。日本は今、年号で何年になるのかさっぱり覚えられなかった。

渡米した日本人に共通していることだけど、渡米すると自分の中の日本の時が止まる。記憶の中の日本は昭和 X年、あるいは平成 X年なんだね。その代わり、渡米してからの経過年数は絶対忘れない。
自分の年を忘れても、アメリカに来てからの年は忘れない。死んだ子の年を数えるみたいに。

私も当時の窓口の婆様になりかかったころに日本に帰国してきたから、当然平成年号が記憶できていない。おばちゃん、平成が何年で終わったかも覚えてないから西暦でしか生活できない。
でも、年齢を引き算するには西暦の方が絶対便利よ?


実をいうと、日本語が書けない。
コンピューターのキーボードがないと書けない。手書きで書けるのは自分の名前と住所。これは帰国してから練習した。だって、アメリカでは日本語を書く必要がなかったから。

領事館で証明書類を申請するときくらいで、電話債権を売るのに在留証明を取らないといけなかった。その在留証明にはなぜ在留証明をとりますか、理由を書け、とかあった。

なぜ理由を聞く?。
と思いながら債権?そんな漢字が書けるわけもなく、こんなところで日本語を書かせるのがまず間違ってると、ぷんぷん怒りながらひらがなで理由を書いた。

仕事中に書くメモも日本語だったわけではない。頭が半部英語モードで動いていると日本語に切り替えるのがすごくつらい。
あの、ひらがなというやつが曲者だった。一番困るのは「な」「ね」「の」「ぬ」
止めのところがどちらかにくるっと曲がるのがどっちだったか?右か?左か?自信がない。「な」ってこっちに曲がるんだっけ?と従業員に聞いても、ん~ん、そのように見えますが、彼女だって自信がないのだ。

アルファベットだと文字数はたった26文字で全部書けるのにね。それにというものは何十年もやっていないと、書き方も忘れてしまうのだ。

ひらがなも困るが、カタカナは嫌いだ。
渡米する際には日本から文豪ワープロとインクリボンを持って行った。当時のアメリカでは日本語を書けるコンピューターがなかった。Windows 3.1では日本語が書けず、印刷するプリンターもなかった。Windows95が発売されてやっと日本語が書けるようになった。

キーボードがあれば日本語メールを書くのに不自由はなかったので、買い物メモもToDo Listも日本語である必要がなかった。
ジャガイモはPotatoって書けばカタカナより早いし。周りの日本人はみんなそうだったからね。中国人のサマンサだってジョイスだって、漢字は書けないって言っていた。日本語のニュースはネットや書物で読んでいたから、読む能力は衰えていなかったが。

何年かに一度、親戚友人などがやってくるとディズニーランドへ案内した。親戚・知人は日本語の園内地図を選びおばちゃんは英語を選んだ。カタカナが読めないから。

おばちゃんは、カタカナしか書いてないMapを見るとパニックになってしまう。「ウエスタンランド」というカタカナの音がWestern Landだということを変換するのに時間がかかるから。すごくつらい。

日本語のつづり(カタカナ)は英語の音をあらわしていない。
ラリルレロの綴りは 「L」か「R」かバビブベボは 「B」か「V」か「th」はどうするか?だから頭がフリーズして日本語への変換を拒否していたのだ。

日本で一番の恐怖の場所はDVDや音楽CD売り場。
頭痛と吐き気が止まらない。パッケージのラベルがカタカナ表記で、さらに日本語語順 ア イ ウ エ オでカテゴライズされてたから。Tayler Swiftが「」行にあるんだよ?

兵隊さんと一緒に学ぶ

簿記には全く興味はなかったが、将来のために登録した夏クラスは首尾よく取れた。
ところが、どうもクラスの場所が分からない。
コミュニティ・カレッジの住所と違う。学生課に聞いたら、やっぱり学校内ではなくて。近くの空軍の施設の中であるのだそうだ。

家の近くをドライブするとどこからでも見える大きなドームのある空軍ベース。
大統領が西海岸にやってくるときエア・フォース・ワンはここに降り立つ。かまぼこ型ドームは、規模がよくわからないほどデカく扉が開いていると、ヘリが飛びながら入っていくのだが、おもちゃのように小さく見える。

このベースの中で簿記のクラスは行われるのだが、最初の日はとても緊張した。ベースの入口は何も遮るものがない一本道で両側に関所がある。ゲートのバーが開いているので、そのまま通行する。帰りはゲートに車の列ができていた。おばちゃん、皆なんで止まっているか分からず、辛抱強く待っていた。

ゲートの直立不動の兵隊さんの横で、前の車がいったん停車しすッと出て行った。おばちゃんもとりあえず兵隊さんの横で止まる。それから車を出すと、兵隊さんの後ろにいたちょっと違った制服の兵隊さんが物凄い形相でわめきながらおばちゃんの車の前に飛び出てきた。

「なんでお前は止まらないんだ!」
おばちゃん、超怖かったが殺されてはたまらないので「だ、誰も止まれって言っていないよ?」
「お前間抜けか?こいつが止まれのサインをしてるだろうが!!」と直立不動の兵隊さんを指さした。

兵隊さんは、相変わらず直立不動でただし、左腕を斜め30度左下に差していた。
これが止まれ?そんなもん知るか。おばちゃん、ビビってたけどムカッついて

「サ・サ・サイン?それが止まれのサイン?
世界共通なの?私ボディサイン知らない」

エライさんは虚を突かれた顔をしてIDを見せろと言った。そしてぶっきらぼうに”行け”と言った。
おばちゃんは震えながら車を出した。ゲートで止められたのはそれ以降ほとんどなかった。

簿記のクラスの初日は50人くらいは入れる教室が満室で座れない生徒は、後ろで立っていた。私の前の生徒はどう見ても高校はでてます!兵隊やってます、というクールカットの襟足も青いお兄ちゃんなのであった。

観察すると、あちこちに兵隊さんらしいのが何人もいる。除隊したときに困らないように簿記を取るとしたら正しい判断である。

先生のテリーは複式簿記(Double Accounting)というのはなんでも2回記帳するのだ、2つの項目にまたがって記帳するとどっちかが間違ってもすぐわかるから。この2重記入が近代の会計を大きく変えたのである。

お前たちはこれから同じ数字を2つの項目に何度も何度も記帳することになる。DebitとCreditという二つの言葉で混乱せぬように。教科書とワークブックを用意して、チャプター1を読んでくるように命じた。

教科書は電話帳より厚くて重かった。ワークブックも同じお厚みがある。夏休みのたった6週間の間に、この教科書を全部済ませるのだ、できるか知らん。
チャプター1を読み通すのに辞書を引いたが、日本語辞書の経済用語はおばちゃんをますます混乱させた。


2回目の授業でテリー先生はDebit(借り方)Credit(貸方)という言葉に惑わされるな。
簿記では2つの言葉に英語の意味はない。ラテン語でDebit Creditというのは左側右側という意味だ。いいか、英語の意味を忘れろ。左側と右側だ。

なまじ英語の意味に囚われなかった(英語が染みこんでいなかった?)私はテリー先生の言うことを丸のみにするのだった。

クラスメートは軍人さんを含めてアメリカ人だったからどうしても丸のみにできない生徒もいた。
Debit借り方は ネガティブ借りじゃないか、どうして増えるとプラスになるんだ?Credit貸方はプラスなんだから増えればプラスだろ?なんで下がるわけ?
どうしても言葉の「意味」から離れられなかった生徒は最初の1週間でごっそり減った。

クラスの50席はところどころ空き始めた。テリーはものすごい有能な先生だった。教科書を解説して宿題を答え合わせしていく。生徒を指して行く。この答えは?次、この時のCreditは何を意味してる?次、、、。
次から次へ生徒を指して、生徒が分かりませんというと、何が分からないと質問し、口ごもるとすぐ次の生徒に飛んだ。1時間半の授業の間、緊張が途切れない。

宿題量もものすごい量で終わっておかないと、次の授業では置いてけぼりになってしまうので土日を全部つぶしてもワークブックをやった。テリーの言う通り、同じ数字を何度も何度も書くので人差し指はあっという間にペンだこができた。
毎週、生徒が減っていく。生徒が少なくなると、ますますテリーの質問が早くめぐってくる。質問に答えられてホッとすると前の席のお兄ちゃんの頭が目にはいる。

兵隊さんの頭の地図はすっかり見慣れて白人でもぶつけて怪我をすると、傷がハゲになるんだな。とか、うなじの白い肌にニキビができるとみっともないね。先週より増えたかも、とか。

ファイナル・テストの前になると、生徒はたった7人になった。もう、3分ごとに質問があてられる。
一秒も気が抜けない。最後の週のファイナル・テストが終わるとテストの点数なんかもうどうでもよくて終わってくれたことが嬉しかった。

おばちゃんは、このクラスのせいですっかり体力を使い果たし腱鞘炎と膀胱炎になってしまった。

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