パンツの話

米国で暮らして衣類で困ったことは、下着だった。パンツがでかすぎる。

おばちゃんの身長はアメリカでも中の上で不自由しなかったが、お尻はアメリカ人の広大なヒップには及びもつかない。黒人のおばちゃんなど、腰のくびれはしっかりあって横にもさらに”後ろ”にも張り出していて、まっすぐ立っていても腰の後ろにテラスができて缶コークの一本でも置けそうである。

90年代の初頭は小さなアジア系が少なかったので、下着もSサイズは見つけるのに苦労した。
困って子供用を試してみたことがあるが、おしりの頬っぺたはよいのだが、ウエスト部分が狭すぎた。

子供サイズと広大な大人サイズの中間がない。日本人の先人に聞くと、アメリカ人の女の子は子供だと思っていても、ある日突然大人の体サイズになるのだという。本当かぁ?

本当でもウソでも、中間のティーンサイズはなかった。おばちゃんはポンと手を打ち、そうだアジア系が多いリトルサイゴンでも覗けばちょうどいいサイズがあるのではないか?

おばちゃんはリトルサイゴンまで遠征し、香港製のパンツを発見したのであったが、10年ほど倉庫で寝ていたのではあるまいかと疑うほど古臭いデザインで、「下ばき」とでも言いたい代物であった。

燃えよドラゴンに出てくる中国人娘が身に着けていてそうなパンツ。その後、時勢にそってビクトリアン・シークレットがアジアサイズを売るようになったので、不自由はなくなった。

日本に帰国してからは、下着ではないボトムのパンツに不自由している。おばちゃん、足が長いのですべてのボトムがちんちくりんである。

トールサイズのお店に行けば?といわれたが周囲50キロにはたぶんトールサイズ店舗はない。面倒くさいのでおばちゃんは、オンラインでアメリカ人サイズのボトムをオーダーしている。

駐在員の奥様会

ああ、怖ろしい。
おばちゃんは禁断の領域に踏み込んでしまうのかしら。伏字だらけになりそう。

おじちゃんの会社は商社でもなく独身社員とローカル社員だったので、もちろん奥様会などという怖ろしいものはなかった。

駐在員は長くても7年ほどで帰国するから、おばちゃんが永住権を取って一回りすると交友関係は同じ永住権者とローカルが中心になった。

友達のアイ子さんは駐在奥様に人気のお習い事を教えていた関係で、駐在の奥様たちと交友があった。日本を代表する一流企業の駐在員の奥様は何年かに一回奥様会を催すのだった。

アイ子さんはその中の一人、知り合いの奥様からどうしたらいいかしらと泣きつかれて困っていた。親睦を深めるため奥様会が今度あるのだが、その席で当然ながら自己紹介をせねばならない。It sounds normal. それで?と思うのだが

この自己紹介が大変なのだという。
自分のざっとした履歴:上の人の奥様より華々しいと大変!どのように”抑え”て紹介するか、会社の社員であるご主人とのなれそめエピソード!つまんないエピソードでは受けが悪い。

かといってロマンチック過ぎると”上の方”の妬みを買うかもしれない。つまらなすぎず華々し過ぎず、適度にユーモアを散らして自分の地位=ダンナの役職にふさわしい自己紹介を考えないといけないらしい。

服装バッグも上の人を超えてはいけない。アイ子さん、どうしたらいいでしょう?どんなエピソードを話したらいいのかしら。まるっきりのウソではバレるわよね?

かつての□コ□奥様会は、上座から下座まで地位順に席が作ってあったのだが、さすがに対外に聞こえが悪いと反省したのか、近年は席を決めるのにくじを引くそうだ。途中に軽いゲームを行って、さらに席替えをするのだそうだ。

ある情報によると、XXXの奥様会は集合時に席に座っていらっしゃった奥様は会社の上様のお局で、他の出席者が誰一人手を付けられないお茶と茶菓子をおひとりだけ悠々と召し上がっておられたそうである。

お局様は”卒業式から結婚式”とご自分の経歴を披露なさり、社会生活に穢れることなく、ひたすらご主人と会社のために尽くしてこられたことがご自慢であられたそうな。21世紀の時代に?!いくら席をシャッフルしようとも、”お局様”がどなたかは一目瞭然だったという。

○○○の場合はもう少し小規模の会社で割と皆さん庶民派で和気あいあいだったらしい。

X菱の場合は、超一流にも関わらず奥様会が無かった。
元社員の本人から聞いたが、かつてX菱奥様会でバトルがあったのだそうだ。奥様同士がご主人を巻き込んで会社を2分するような紛争が起きたそうで、以来ではX菱奥様会はご法度らしい。

深田祐介は奥様会や駐妻生活はあまり書かなかったけど、一流商社の△△△△の奥様によれば、ダンナは仕事・仕事・夜討ち・朝駆け・出張・出張で子供を抱えていて学校関係の手続きも自分でやり病気でも引っ越しでもダンナはあてにできず母子家庭と同じ環境なの!とこぼした。

商社マンの勤務は激務で、重圧のあまり同僚で気が狂う人も珍しくないのだ、とおっしゃっていた。△△△△の毎月の給与明細には、支給額の他に今月退職するとしたらあなたの退職金=金額が記載されているのだという。

日本に帰国したときに日本の教育に遅れないように日本語学校の宿題も付きっ切りになって奥様が教えていた。

ダンナは一流商社で働いていて頭がいいのは証明済みなので、子供の出来が悪ければ奥様の出来が悪いことになってしまう。奥様だって想像もできないほどの重圧にさらされていて無論壊れてしまう方もいる。アパートのドアから一歩も出られないようになって、こうなると日本に送り返すしかない。

奥様会ほどの大げさなものではなくても駐妻持ち回りのお茶会があって、今週はこの方、次はこの方とめぐっていく会社もあった。会社は奥方を現地の文化や学校で自分磨きをさせるために派遣したのではないので、現地交流禁止などとオフレを配布する会社もあった。

会社を一歩外に出ればただの知り合い、会社と配偶者は無関係といかないのが日本社会のややこしい文化であった。(アメリカでもあるが日本ほど支配が濃密でもない)

脳外科医が救急車に乗る

アメリカ人はすべて確定申告をしているという事実はあまり知られていないかもしれない。
年が明け2月が始まるとそろそろ所得税の申告時期だ。
おじちゃんは勤めていた会社が使っている同じ会計事務所に申告書類を作ってもらっていた。
だって、会社の従業員の給与業務を請け負っていた会計事務所なので、所得の資料は全部持っているわけだったし。

3年目にうっかりして一部の書類を会計事務所に送るのを忘れた。申告書類が届かないのでどうしたわけかおばちゃんが会計事務所に問い合わせ、ついでに早くしてねと催促してしまって、そうしたら会計事務所は完成した申告書類を送ってきてそこに手紙が同封しあった。

その手紙には:
給与所得だけのあなたの申告書を作成するのはわが事務所にとってはBrain Surgeon脳外科医が ambulance救急車に乗っているようなものだ。能力の無駄遣いなので、来年は別の会計事務所に行ってね?と書いてあった。おばちゃんは大いに不快になり、どうせウチはまともに控除も無い給与所得者よと拗ねた。

国民全員が申告するわけだから、安い申告サービスも沢山あった。どの町にも支店があるチェーンの申告サービスなどは30ドルくらいで出来る場合もあって、知らなかったとはいえ脳外科医に風邪ひき程度の治療をそれなりの料金でお願いしてたわけだから、まぁ、件の会計事務所の言い分も一理も二理もあるわけ。チェーン申告サービスはシーズン中は混んでいて予約が取りにくい。すぐそばにあってガスステーション並みに気軽なので何年かご厄介になった。

後に起業して、事業の申告をするときに紹介されたのは元IRS(税務署員)だった。
この会計士を使うようになって知ったことは、例のチェーン・申告サービスは一番間違いが多く、税務署からAudit(監査)を掛けられる数もダントツに多いのだと知ってまたびっくり。

彼女によると、税務署が一番目をつけるのは、ホーム・オフィス小企業。自宅をオフィスにして会社の経費として自宅のローンの半分とか3分の1などを会社の経費として申告している場合は、一番レッドフラグが立つのだという。

アメリカに会計士・税理士に関するジョークがある。

小学生:1足す1は? 2です。
大学生:1足す1は?  2です。
会計士:1足す1は?
    手をモミながら、いくつにしたいですか?

ウチの会計士は税務署員上がりなので、決算数字が税務署の注意を引かないように申告できますと言った。「監査保険」をつけてさらに50ドル料金を支払うなら実際監査が入った場合におばちゃんを煩わせることなく会計士がすべて税務署に対応することになっていた。おばちゃんは一度も監査に入られることなく幸せだったが、料金は脳外科医会計士の5倍以上だった。

ニコチンパッチで死にかける

おばちゃんはアメリカで2回死にかかった。
一回目はメタボリック・アシドーシスになった時。2回目はタバコで。

1回目の時、事件の遠い原因だったアルコールはすっぱりやめた。外国でシラフで生きていくのも大変なのに、酔っぱらいながら生き延びられない。だからやめた。

2回目のタバコはちょっと違う。おばちゃんはニコチン中毒という状態に倦んでいた。体も部屋も臭くなり、歯はシミがついて汚い。タバコを切らすのが不安。切れないように在庫を確保しておく。

そういう状態自体がなんかストレス。タバコを止められるなら、やめてみたい。そんな時ニコチンパッチが保険適用になった。

おばちゃんはその時のかかりつけのドクターに行って、ニコチンパッチの処方を頼んだ。
ドクターは処方量を決めるために、おばちゃんにどのくらいタバコを吸うのか聞いた。正直に2箱吸います、と申告した。

夫婦二人で吸うので、おばちゃんたちはスオッチ時計を男女用それぞれ。マルボロの電源付きキャンプ用クーラーボックス大。マルボロの寝袋3袋、おじちゃん用のマルボロキャップ。マルボロのリバーシブルジャケット男用。セブンスターの目覚まし時計など、2人のタバコの空き箱で様々なグッズが
集まってしまうのだった。

ほう?一日2箱も?それは量が多いですね。
XXXミリのパッチかな。

おばちゃんは薬局でニコチンパッチを受け取るとずっしり重かった。サロンパスを円形にして1.3倍くらいの大きさにしたものと思ってくりゃい。うゎー婆さんの膏薬かい。見えないように貼ろう。

寝る前に最後の一服を吸い、灰皿とライターを処分して休んだ。朝起きると枕もとのタバコの代わりに置いたニコチンパッチの最初の一枚を取り、肩に貼った。頑張ってくれよ~と肩をモミモミした。

おじちゃんを仕事場に送り届けてアパートに帰る途中。突然、尾底骨から何かが脊椎を駆け上がり脳で爆発した!同時に心拍が160くらいになり、視野が外側から欠け始めて
中心の30センチくらいしか見えなくなった。後は真っ暗である。

道路は幹線道路で3車線あるうちの真ん中レーンを60マイルで走っていて、前後左右側には同じく車が走っている。息が苦しくて前がよく見えない。ハンドル操作を間違えればどこかにぶつかる。
不運なことに一番右端のレーンはフリーウエイの登り口で右脇道に入れない。
フリーウエイの入口が過ぎたら車線を右に変更して交通量の少ない脇道へ入ろう。

ニコチンパッチのせいだと直感で分かった。貼ったままにしておけば心不全で死ぬか道路で爆死するだろう。ハンドルにへばりついた右手を離して、シャツの首から手を突っ込み
左肩からパッチをむしり取った。もし腰に貼っていたらおばちゃんは間違いなく死んでいた。
運転席に座った状態でぴったりしたジーンズの下に手を入れるのは難しい。

パッチを捨てても視野は戻らなかった。心拍も早すぎて呼吸が難しい。その状態で右レーンに移り
次の信号で右に曲がった。アパートまではとても持たない。手前のショッピングモールに入りパーキングで止めた。目が見えずハンドルに突っ伏した。

時間はわからない。ようやく視野が戻ってきて目の前には公衆電話があった。25セントを探してよろよろ車を降り、エマージェンシーだとドクターに電話をした。

ドクターにどうしたらよいでしょうと聞くと、ドクターも動転している。クリニックに来てください、というが、そんなことは無理だ。救急車を呼んだ方がいいですか?

ドクターは嬉しくないようだ。タクシーは呼べませんか?
いまこの状態でタクシー会社を調べ電話してこの場所を説明するのはムリだ。もうしばらく休んでアパートに辿り着き、ドクターに電話をかけてもらってアパートにタクシーを派遣してもらった。

どう考えてもニコチンのオーバードースだった。
おばちゃんは診療ベッドに横たわって点滴を射たれながら、赤んぼがタバコを1本食べれば死ぬし、
成人のニコチンの致死量ってどんだけなんだろうか?膏薬みたいなパッチは一体何グラムのニコチンが含まれているのか、とかこの治療費は払えないか、とか つれづれに考えた。

おば:ドクターにどうしたんでしょうね?
ニコチンが多すぎたように思いますが。
医者:でも、あなたは1日2箱吸うヘビースモーカーですよね?
   最強のパッチを処方しました。
おば:はぁ、確かに2箱吸いますが、
   マルボロはマルボロでも「ライト」を吸ってます。
医者:「ライト」って何ですか?知りません。
    僕タバコを吸わないですから。」語尾が裏返っていた。

おばちゃんは、もう消耗しすぎて「どっひぁ~ん!」とも言えなかった。

おじちゃん 免許を取る

おばちゃんは車が必須の地方都市で生まれて免許は18の時からある。一方おじちゃんは東京でずっと働いていたから免許を持っていなかった。
日本で結婚をした当時からおばちゃんは運転手。カリフォルニアに移住しても運転手。

公共機関が発達しているニューヨークとか都市部を除いてカリフォルニアで運転免許を持っていないということは、移動の自由と移動の能力がない。扶養家族の子供と同じような存在になってしまう。

家と職場、学校、習い事、スーパーですら歩いて行ける距離でないことが多い。就学中の子供が2人いるアメリカの平均的なママは一年間に2万5千マイル運転距離があるという。

子供が自分で運転してくれるようになるのは楽になる反面事故を起こしゃしないかと気が休まらない時期でもある。

おばちゃんだって体調が悪いときはある。この国で生きていく限り免許は不可欠なことは分かっていたが解決を先延ばしにしていたのだね。そろそろ言い訳ができなくなった2003年、おじちゃんに免許を取ってもらうことにした。

ペーパーテストは日本語もあるのものの二世が訳したのか「てにおは」がおかしくてテストの設問自体、これは禁止と言っているのか行為を肯定しているのか、どっちかわからんという魔の設問なのだった。

特訓したのでペーパーはパスした。
ペーパーをパスすると日本の仮免と同じく路上で練習運転ができる。ただし免許を取って確か10年の運転歴があるドライバーが同乗しなければいけない。StudentDriverと書いてルーフにガムテープで張っ付けておっきな駐車場でヨタヨタ練習できるわけだ。

幹線道路は50マイルでビュンビュン走ってるし、いきなりそんなところに出たら夫婦で玉砕してしまう。警備員がいそうもない駐車場で一通り曲がれるようになったら、個人のドライビング・スクールでしごいてもらった。

プロなので本番の実地コースを全コース知っている。坂道駐車や車線変更をここはポイントというところを練習してもらって受かった。おじちゃん40歳すぎにして初めて免許を手にした。

ああ、おばちゃんの本当の受難はここからである。毎朝おじちゃんが車の運転席に、おばちゃんは助手席に。通勤コースを同乗して、この辺から進路変更しておけとか、ここは減速してとか、なるべくおじちゃんを刺激しないようにクチクチ教える。

おじちゃんはどうしてもハンドル操作が甘いので、カーブの時などつい手を添えてぐいんと回してしまう場合もある。会社に到着して、おばちゃんが乗って帰ってくる。夜は迎えに行っておじちゃんが運転する。2か月やっておじちゃんが一人で出勤するようになった。携帯を契約して持たせた。

朝出勤したあと20分は電話がかかってくるのじゃないかと気が気ではない。30分経つとたぶん無事についたんだと思う。帰宅の時は帰るコールがあってから15分過ぎにはリビングの窓からパーキングに車が入ってくるかどうか覗く。

そのうち、胃がシクシク痛むようになった。喉の奥が酸っぱい。寝るときは足を曲げて横に寝る。ああ、気持ちが悪い。おばちゃんはかかりつけ医に予約を取った。
How can I help you today?と診察室に入ってきたドクターに
「実はね、ドクター変に聞こえるかもしれないけれど、ウチの主人がこの前やっと運転免許を取ってね、毎日運転するようになったのよ。毎日無事に帰ってくるか心配で心配で、胃がキリキリと痛むんですわ。」
すると
「おぅ!わかるよ」
「わかります?」
「わかるさ、ウチの娘が16でこの間免許を取ったんだ。お互い頑張ろうな」
と制酸剤を処方してくれた。

英語の達人

アメリカで暮らしている間に英語の達人は何人も見た。
某、麺会社の支社長は機関銃みたいに英語を繰り出し、取引相手?か、白人のおっさんもタジタジ、社長は口も挟ませず相手にすきを与えない。

某宗教の現地大学の教師も、切れ目がないほど喋りまくる。社会学の教師で話すのが商売なのだから話さないと話にならない。
もう一人の彼女も教師だった。目をじっと見て、あらゆるレトリックとロジックを使って、相手を導き、自分のもつ結論に導いていく。

そういう達人の人たちの英語は、仕事や生活を通じて獲得した能力の一つで、自分の目的を達成するためにある力だった。英語が身を立てるためのゴールではなくて、ゴールを達成するために英語は必要条件なだけ。
判断力、交渉能力、場を読む力は語学に関係ないのであった。

ある時、日本人コミュニティに新顔が増えた。
駐在員家族ではない。いかなる会社も関係していない。アラサー夫婦に小学生が2人。全員留学生ビザと帯同者ビザだという?コミュニティの日本人が頭をひねる、何故?

家族全員で英語を取得するためだという。アラサーの大人が語学学校に3年いたとしてABCニュースを50%理解できてそれでどうなんだ。どの国で生きるつもりなのか。

小学生を数年現地の学校にやって、ぺらぺらと日常会話ができるようになるのは確かだが、それで日本に帰国して、実際どの程度実生活に役に立つかは疑問だ。

さらに、おとうちゃんは学生で収入がないのに一家全員アメリカに移住できるとか、どんな家なのだろう?

アメリカで食って生活している周りの日本人は皆同じ事を思っていたはず。
アメリカで英語ができるのは当たり前、その他の能力がないとここでは生きていけないのに。だから看護学校に進学する。金融・ビジネスを学ぶ。アメリカでは薬剤師が信頼される職業の上位だから、教育費をバイトで必死に貯める。だからみんな、なんだかなぁ、とぬるくその一家族を見守っていた

日本で会社内の公用語を英語にした会社があるそうだ。
例のブログの大家さんの駐在員はToeicの点数だけで選ばれたのだろうか?
実をいうと、おばちゃんはこの耳で、ブログの大家さんの駐在員が現地雇いのローカルの英語がうまいとか、ヘタとか、一緒に赴任した同僚だかの”英語の棚卸”をしているを聞いた。
あほ、じゃないかと思った。

英語ができるだけで仕事ができると思ったのか?


さらに、日本の有名大企業のあのCMを聞くたびにおばちゃんんは苦痛でならない。Inspire the next, , , , ,  と言うやつ。

Next what? 
何をInspireしたいのさ?とイライラしてしまう。Nextの次に来る単語が一番重要です。
だから何を言いたいのかよくわからない。英語スピーカーはみんな同じことを思っていると思う。
日本人のいいたことよくわからない。

1)Future/Lifeーーー inspire the next futureこれが一番しっくりくるけど
  平凡で訴える力が弱いよね。へぇ~それで?ていう。
2)Generation/Technologyー これも同じよね。具体的なビジョンが見えてこない
3)Peopleーーー inspire the next people
これだとCMを作る人の意図が違ってくるよね。
  ものを作ってる会社だし。
Inspire the next Chronosome おう、人類に貢献しそう
Inspire the next Ibaraki 地元貢献は大事
Inspire the next US president アハハ
何か言いたいことを考えてみよう!

おばちゃんも書いたフライヤーの文章がおかしいとか、ネイティブから指摘されて直したよ。
英語としておかしいんだから正しい英語に直せば?と思う。開き直って、ウチの会社のスローガンなんだよ。日本風の表現なんだよ。禅なんだよ。ってか。これは調べたら結構有名らしい。
素直に直しゃいいのに。

ローカルテレビなのかな、おばちゃんがよく見せられるCMがある。
Try the next.
だから何をTryしたいのさ?
これは大学のCMなの。大学・・・!笑える。何を教えるんだろう? わっはっは!

移住のすすめ

明治の文豪は書いた。

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。
意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。

昭和の時代も平成の時代も日本は変わらなかった。おばちゃんには、いつも住みにくかった。

人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。

人でなしの国イギリスは漱石には住みにくかったのだね。黄色人種にとって、当時のイギリスが住みやすい国であるわけがなかったけれど。

今は事情が変わった。
日本人でなしところへ引っ越すと、楽に呼吸ができるようになる場合もある。ただし、己の力が100とすると、日本人でなしの国は常に120%の力がいる。日本人でなしの国で打ち勝つには200%の力がいる。
80%の力で生きて生きたいなら、日本で窮屈になるばかりだ。

生きにくいなぁ
と思ってたら、生きやすい場所を探してみればいいじゃないか。おばちゃんの周りの若い子は、1年、ある子は2年きついバイトをしてアメリカにやってきた。

間借りやルーム・シェアしてボロの車を買って宿題とテストに泣き英語の発音を馬鹿にされて、くやしさに憤慨しつつ言い返すことを覚え、戦って自分の居場所を作っていく。
皆知っていたのだ、人でなしの国が住みにくければ、日本へ帰るしかないことを。

おばちゃんは初めから強かったわけではない。
昭和の昔に姉妹の末っ子に生まれ、自営業の両親は忙しかったので、放し飼いで育った。
近くに気が合う年ごろの子供がいなかったので、好きなことを自分で見つけて一人遊びし、失敗すると親が後始末をしてくれた。

長じて大学に行くとダンナと知り合い、卒業後結婚を申し込まれて結婚した。自分で稼ぐのは面倒くさかったので養ってもらおうと思ったのである。結婚してもデート時代と同じように外食し、ある時映画に行く前にキャッシュカードでお金を下ろそうとしたら、残高不足だった。

ダンナは銀行窓口の知り合いに電話を掛けたが、間違いではなく、ダンナが生活費として引き出して残高は3桁だったのだ。結婚わずか1か月後だった。

おばちゃんは末っ子だったが、ダンナも末っ子だった。ダンナも失敗すると、おっきいお兄ちゃんお姉ちゃんが何とかしてくれたのであった。

困ったわ~。
おばちゃんは、両親から結婚に反対されてて、式には出てくれたものの蔵書とバイクだけが嫁入り道具で新生活を始めたのだった。ダンナがあてにならないなら、自分でも稼がなければならない。おばちゃんは英文科卒という、世の誰もが認める職業生活に必要な技能とも資格とも無縁の人だった。

どうせならと趣味だったバイク屋に就職した。
雇った方は営業もやらせようとしたようだったが、まるっきり無能だったので僻地の支店に飛ばされて事務になった。昭和の時代であった。

そのバイク屋の2年足らずの事務職がわずかに会社組織で働いた経験で、今に至るまで組織の中ではまともに働いたことがない。つくづく組織がなじまない人なんだ。

背が高くて運動神経がよくてスポーツクラブに勧誘されたけれど、チームスポーツは絶望的にあっていない。もくもくと泳ぐ水泳ならできた。でも秒を争う競技として、そんなの意味あるの?他人と速さを競って何が面白い?スポーツって自分でやって面白さを楽しむものでないの?なんだか必死すぎてバカみたい。

というわけで組織と無縁の人生を送り、先輩もなければ後輩もなく常にSole Playerである。

ランチ お弁当

アイ子さんはアメリカ人と結婚して落ち着いた後、義理妹がバージニアから近くに引っ越してきた。
お互い息子がいるのでおしゃべりでもしませんかと義理妹にランチに誘われ、アパートにお邪魔した。

リビングでおしゃべりしていてそろそろお昼だしお腹も減ったのだが、部屋に入った時から料理の匂い
は全くしなかった。冷蔵庫にでも 料理がしまってあるのかしら。

義理妹がお腹が減った?ランチにする?と言うのでキッチンに行くと義理妹は冷蔵庫を開け
パン、ハム、チーズを取り出すと、はい、好きなものを挟んで、と言う。

これがランチ?!
義理といえども人を招いたんだからちょっとましなものが出てきてもよかったんだけど、、。
アメリカだし、アメリカ人だし。アイ子さんはモソモソとサンドイッチを食べた。

私が最初のころ通ったカレッジでは教室からキャフェテリアへはかなり距離があって、ランチを買って帰ると次の授業に間に合わない。それで、お弁当を持っていくことにした。

ごく普通の日本的お弁当である。
タッパに白いごはんと、卵焼き、ウインナー、ゆでたブロッコリー夕べの残りのチキンとか、。

作文のクラスが終わって、私がお弁当を取り出し持ってきた本を読みながら箸で食べ始めると、
机の端に誰かが立った。そしてその隣に影が増えた。気が付くと私の机をぐるりと人垣が取り囲んでいた。

クラスにはアジア系が多かったのだが、中国系やコリアンのおばちゃんたちが私のお弁当をしげしげと観察していた。私が顔を上げると好奇心ではちきれそうになったクラスメートたちが
これはナニ?
玉子焼き、ちょっと甘い、
えっ卵が甘いの?デザート?
違う。甘辛いBakedEgg.
なんで卵が甘いの?
そういうもんなんだよ。
口ぐちに質問されるので食べるどころではない。

ほうれん草のお浸しを持って行ったときは、この緑の野菜は何か?から始まり、料理法を逐一説明させられて、えっ!ほうれん草を茹でるの?炒めるんじゃなくて!茹でるんだって!と言葉がさざ波のように人波に広がり、ほうれん草を茹でて何がおかしい!と
一人県民ショウを演じたいわけじゃない、
私はランチを食べたいだけなんだよ。

お弁当に懲りて次は季節だった柿をむいてタッパに詰めていった。タッパを開けた瞬間また人垣ができ、これはナニ?私:Persimmonです。
Persimmonって?人垣同士が質問しあいKakiじゃね?
そうだ、そうだKakiだわ。
チャイニーズ・スーパーにも売ってたわよ。
どうやら台湾ではPersimmonよりKakiの方が理解が早いようだった。

若きおばちゃんは好奇心の人垣に疲れたのでカレッジのランチに何を食べたらよいか悩んだ。
スーパーでこれだ!と思ったのがバナナ。とにかくバナナなら誰も寄ってこないだろう。
あら?今日のランチはバナナなの?でも簡単でいいわよね。と教師に言われた。
お前も見てたんかい!

午後一のクラスが終われば、2時前には家に帰れる。それから何かを食べることにしようかな。
ただ朝から2時までは食べないままではつらいので、おばちゃんはおにぎりを作った、大き目の。

朝おじちゃんを仕事に送っていきそのまま学校に行く。運転しながらおにぎりを食べる。これなら誰にも文句を言わせない。

そうしたら、ある日おじちゃんが同僚の板橋から言われたんだって、”俺は出勤するときにお前のカミさんと道ですれ違うんだが、お前のカミさんが大口を開けてなんか食ってる。
あれは何だ!”

幹線道路でお互い時速55マイルですれ違ってんのよ、。どうして私だってバレるのよ、
何を食べたっていいじゃない!


アメリカでおいしいランチを食べるには

アメリカのランチは”アメリカ料理以外”が美味しい。

南カリフォルニアのレストランで数が多い料理店はたぶん
1イタリアン(含むピザ屋)
2番目は日本料理
3番目はメキシカン 
(おばちゃんの独断調べ)
どこにでもあるイタリアンでもおいしいかどうかは別。
Laguna Beachの人気のイタリアンに入ったところ、ベキべきに折られたカッペリーニが出てきたことがあった。忙しすぎてシェフがカッペリーニを真っ二つに折って、茹でたのである。その方が早く茹るから。

日本料理は、入る前に味を知っているし。どうせ、肉はメキシカンが焼いている。
メキシコ料理はどうか?おばちゃん、タコは胃が持たれる。

したがって、土曜日・日曜日のランチはイタリアンでも日本でもメキシカンでも、もちろんアメリカンでもないレストランに行く。

インド料理、中国、タイ、ベトナム、イラン。
それらの料理店を選ぶ際に、どこを見ればおいしい店が選べるか、コツがある。
入口のガラス窓から店内を覗くのだ。
もし、客の頭髪と肌色が明るい色だったら味はまずい

アメリカナイズされた甘い甘い酢豚。ぐたぐた煮たような野菜炒め。ぬるくて生臭いフォー。
窓がなくてドアを開けて入ったら、客がアメリカ人ばかりだった時は、間違えたと言って出てくる。

修業したベトナムのベトナム人が作るフォー。インド人がインド人のために作るカレー。
香辛料や辛さがなじまない場合もあるが、同国人が認める味。

同国人さえ寄り付かぬアメリカ人御用達しのエスニックは壊滅的な料理が出てきたりするのである。
観光旅行でアメリカ料理にへきへきし、日本料理にがっかりし、おいしいものを食べたくなったら
レストランの窓から店内を覗いてみよう。アメリカ人がいなかったら当たりだ。
 
客のほとんどがアメリカ人であるにも関わらず、美味しい店が1軒だけある。
それはダンナがベトナム人、カミさんがタイ人で(もしかして反対かも)ベトナム料理の店だった。

ニューポート・ビーチのパシフィックコーストハイウエイ沿いを1ブロック入る。店内にアジア系客はほとんどいないがメニューはベトナム系である。フォーはリトルサイゴンのフォー屋では絶対お目にかかれない、或いはベトナム人ならこれはフォーではないと怒るかもしれない。

フォーは、シンプルな白のスープ皿に入って供される。スープはあくまでも澄んで雑味がなく、ヌードルは申し訳程度。フォーというより、英語でNodle Soupである。むろんスープ・スプーンが付いている。

絶品。フォーが昇華されて究極のコンソメヌードルとして全人類が喜ぶ味、ただし、ベトナム人は除く。何故ならフォーはお母ちゃんが作ってくれて、わしわし食べてきた家庭・故郷の味ーーから遥~かにアウフヘーベンしてしまっているからだと思う。

悲しいかな、この店には致命的な欠陥があるのである。ビルの1階なのだが、もともとアパレルのブティックだったようで店内にトイレがない。

まず、トイレに行きたいとサーバーに申し出て、鍵をもらう。ドアを開けて、ビルの外に出てから端っこに付いている階段を降り、地下の駐車場のトイレに行って帰ってこなければいけない。女同士でおしゃべりできない。デートに使えない。

多分今頃は常連のリッチなアメリカ人がスポンサーになって、もっとまともな場所に店を出しているかもしれない。

おばちゃん、就職をめざす

あれは2002年か3年か、おばちゃんは就職を目指したことがあった。ローカルのコミュニティ雑誌にウエブデザイナーの求人広告があったので、ふとその気になった。そこそこの給料が提示されていたし。

履歴書を書きそれまで作ったウエブをプリントアウトして面接の予約を取った。会社は商業地区でも割と新しい高層ビルの上部にあった。エレベーターを降りると、その階の総合受付があり、おばちゃんは名前を言って、面接する会社の担当者を待った。

30そこそこの細身のお兄ちゃんが現れて、会社の一室に招き入れられた。お兄ちゃんは、おばちゃんが差し出した履歴書をざっと見ウエブのプリントアウトを見、ウェブ制作はどこで勉強しましたか?
と聞くので、
独学です。というと、
ああ、独学ね。Htmlは書けますか?と
Dreamweaverを使ってますが、
ウチは手書きなんですよ。
えっ?タグを手書き?
そう、みなメモ帳に手書きで書くんです。できます?
でも、手書きなら色の指定はどうするんですか?
Photoshopのカラーパレットで色コードをコピーして書きます。

はぇ?いちいちPhotoshopのカラーパレットでコード調べて
書いて、テーブルはtr td tr tdとチマチマ書くのか?
バカじゃね?と密かに思った。

ウチの会社が何を作ってるか知ってますよね?と言うので
はぁ、ポルノサイトですよね。
そうです。とお兄ちゃんは何故か憂鬱そうに言った。
もしかして、人に自慢できないウエブを作ってるからせめてのプライドとしてメモ帳でタグ手書きなんだろうか?

ウチの始業時間は朝の7時半なので大丈夫ですか?おばちゃんは朝の爽やかな空気の中で、裸の局所にせっせとモザイク処理をしている自分を想像した。
う~ん、10時くらいからなら平気なんだけど。おばちゃんは早起きが嫌いなのだった。

ひとまず面接は終了し結果は追って通知ということで、おばちゃんは部屋を退出した。数多いオフィスは人の出入りも活発で、一番印象的なのはワーカーの年齢が若いことだった。
20代かせいぜい30代。
こんな商業地域にそこそこレントの高そうなオフィス、世間はまだまだ不況の波が残っているというのに、ポルノ業界は不況知らずで活発に動いている。おっさんの性欲は不況に関係ないし、世の中裸で食ってく業界は強いなぁと感心した。

帰り道に行きつけのコンピューター・ショップに寄り社長のトムさんに、
ねぇ、ポルノ業界って儲かるね。二人でやらない?と聞くと
う~ん、あそこは不況知らずみたいなんだけど、
あの写真とか動画の仕入れはどうすんでしょうね?
あ~、そうよね。おんなじ写真じゃ飽きちゃいますものね。ポルノの卸業ってあるのかしらん?
でも、たとえ儲かったとしてもウチの娘に聞かれたら答えられないですよ。ダディの仕事はなあに?って。
そっか。
さっきの会社の従業員が若いのは、子供がいないせいか?なんとなくわかったような気がしておばちゃんは帰宅した。

アメリカのパンはなぜバサバサか

アメリカの食パンはガサガサである。
大手の食パンなどを買うと、生地が荒くて指が入りそうな穴がぼこぼこ開いてる。こういう食パンをトーストすると、舌と唇にささる。がっさがっさのバッサバサ。アメリカ人はこういうトーストを喜ぶ、クリスピーと言って。

外はカリッ、中はフワッじゃないのか。厚切り食パンは存在しない。ふわふわ超熟もご飯のようなモチモチなパンも存在しない。クリスピーが命。

しっとりキメの細かいライムギパンとかもない訳でもないが、、。そしてそれがケーキになると、もっと顕著になる。スポンジケーキが本当にスポンジでできてるんではないか?と食べながらケーキを観察せねばならない。シフォン・ケーキはまかり間違っても、フワフワではない。ぷよんぷよん。

なんでこうなるのか?
おばちゃんは世界で最初にクロワッサンの生地を自動で作る機械を作った日本の会社の駐在員に聞いた。この駐在員はベロ・メーターを持っている。

一口食べると、粉の配合が分かるというベロの持ち主。世界中のパン屋とみれば、買って食べてみるというパン道を究めんとする駐在員である。

彼によると、ピルグリム移民のむかしから、アメリカには収穫した小麦粉を細かく挽く機械がないのだという。荒い粉でパンを作るからこうなるのだという。

元々クリスピーが命だから、あるいはがさがさの荒い小麦粉の製品ばっかり食べていた結果、フワフワ・しっとりを受け付けなくなったのか、それは定かではないが、アメリカには小麦をできるだけ細かく挽こうという意思も細かく挽く機械を作ろうという意思もなかったんである。

そこへ、世界初のクロワッサン生地を作る日本の会社が製パン機械をいろいろ持ち込んできた。主に機械を買ってくれるのは、アジア系である。米食でフワフワモチモチ系が好きな民族。細かく挽いた粉で作る台湾系のシフォンはしっとりして日本と変わらないおいしさがあった。

機械でなくて、フワフワモチモチを別の方法で解決したパン屋があった。
ハワイに。King’s Bakeryという。

King’s Bakeryの袋の後ろに、ベーカーリーの起源が書いてあっておばちゃんは、とても暇なときに何気なく裏を返して読んでしまった。

ハワイの人はパンが次の日に固くなってしまうのが悲しかった。次の日も固くならないパンが食べたい。それでKing’sの先代は試行錯誤をして、次の日にも固くならないパンを開発したのであった。

King’sのパンは確かに固くならない。うっすらと甘い。ふわふわである。だから、おやつのようにパンを毟ってたべる。うちのおじちゃんの好物であった。

King’sの創始者はハワイの日系人である。カリフォルニア州に大きな工場ができて、フリーウエイから降りると目の前にある。

将来アメリカ人の指向が変わって、しっとり柔らかなパンが好まれるようになるとしたら、それは日本人日系人の努力のたまものかもしれない。

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