ナナちゃん

おばちゃんはアルフレッドを見た時、えぇっこのぶちゃいくがチャンピオンでナナちゃんのMating相手?グランドチャンピオンのアルフレッドはぶちゃいくだった。やぶにらみCrossed Eyeで顔がへちゃっていた。どっちかと言うとヨーダに似ていた。

おばちゃんはナナちゃんにどうしても家族が欲しくて獣医のエリザベスがブリーダーだったから、Matingを申し入れてみた。
エリザベスがナナちゃんをほめてキャットショーに出してはどうかと言ったくらいだったので、アルフレッドとMatingさせるのには異存がなかった。ま、いろいろ交渉の課程はあったが、。

アルフレッドはめっちゃ人懐っこかった。部屋に入った瞬間に足にまとわりついてゴロゴロと鳴いた。気がつかない間におばちゃんの床に置いたバッグにスプレーされていた。ナナちゃんがお泊りするので、ナナちゃんが好きなカリカリを持参したのに。

獣医のエリザベスの家は海辺の一軒家で2階のベランダはすべて金網で覆われていた。アルフレッドの住居スペースだった。去勢していない雄猫はスプレーをするので、雄猫専用の小屋が無いと家が一軒ダメになってしまう。水洗いできるベランダをアルフレッドの居住空間に当てたのだろう。主人と二人で金網を張ったのよ。5000ドルかかったわ。暖かいカリフォルニアといえども冬の戸外は結構寒い。アルフレッドちゃんは吹きっさらしで生活していたので毛がバサバサになっていた。

ナナちゃんはMatingのために2泊か、運がよければ1泊することになっていた。翌日エリザベスから連絡が来て、念のためもう一泊すると。3日目に引き取りに行くとエリザベスはたぶん大丈夫だと思う。うちのアルフレッドのSpermは優秀だから。出産まじかになったら無料で診察してあげる、と。ナナちゃんはその時0.8歳だった。

ナナちゃん出産する

出産予定日から10日くらい前、エリザベスは自宅まで診察に来てくれた。
Mating料のおまけの診察だから触診だけだけどお腹にいるのは多分3子、もしかすると4子だそうだ。おばちゃんは手元に2匹残すか、それとも3匹とも残そうかもうワクワクしてしまって出産予定日が待ち遠しくてならなかった。

おばちゃんは子供のころから猫を飼っていたので、何回か出産につき合ったことがある。おじちゃんは始めて。

ナナちゃんは夕方産気づいて用意した産室もハウスもバスケットも無視して洗面所の下で最初の子を産んだ。2子目は2時間かかってやっと生まれたが頭のすごく大きな子だった。
産道に引っ掛かっていたのかしら。3子目は産室で産んでくれたので、産室に毛布を掛けておばちゃんたちはリビングに退却した。

寝る前におじちゃんが産室の毛布をそっと持ち上げて中を覗くと、なんと4匹目の赤ちゃんがいた。
エリザベスはやっぱり正しかった。大きなオマケをもらったみたいで二人とも幸せに寝付いた。
おじちゃんは毎日飛んで帰ってきてナナちゃんの産室をそっと覗く。

最初と2番目に生まれたのがルディ、3番目と4番目の子が赤毛。子猫の脳みそって毛虫なみじゃないかと思う。な~んにも考えていなくてただ転げまわるモフモフの塊。おじちゃんの大好物。

子猫たちは問題もなくあっという間に育ちおじちゃんは子猫も登れるキャットタワーを自作して
ナナちゃん一家の運動会を見て幸せに浸っていた。生まれるのに時間がかかった2番目は

とりわけおっちょこちょいで頭がでかすぎて不細工。オマケで生まれた末子の赤毛は骨格は大きいものの痩せて便秘気味だった。おばちゃんは4匹のしっぽを持ち上げて覗くと1番目と3番目が女の子ではないかと思われた。おじちゃんもおばちゃんも女の子と男の子を残したい。

2人の知り合いから女の子を譲ってとお願いが来ていておばちゃんたちはどの子を残そうかと悩んだ。1番目の1ちゃんと4番目の4ちゃんはどうか?でもどうも男の子か女の子か確証がないので、一匹づつしっぽを持ち上げ写真を4匹分撮って印刷し、ニャ―にゃんの時からお世話になっている獣医のトムのところに写真を持ち込んだ。

トムが受付まで出てくるのを辛抱強く待ち、トムに写真を見せてどの子が女の子ですか?と聞いた。するとトムは4つの写真を指さしてboy, boy, boy, boyと言った。

おばちゃんは耳が信じられずその場で呆然として立ったまま、いやひと腹で全部男の子なんて何かの間違いに違いない。写真の見せ方が悪かったのよ。再度トムを捕まえた。
ドクター、よっく見て!
どの子が女の子?
トムはまたしても
boy, boy, boy, boyと指をさした。
アビーは男の子を生みやすいんだよ
と言った。おばちゃんの楽しき家族計画はガラガラと崩れていった。

ナナちゃんの4匹の息子たちのうち、長男の一ちゃんはグレンデールに、3ちゃんはLAにお婿に行った。おじちゃんが頭のおっきい久太郎がお気に入りで、オマケで生まれた八助はちょっとひ弱でいつも便秘気味だったので人様にもらっていただくより、手元に置こう。2匹も3匹も一緒じゃんと。家に残した。

久太郎

頭でっかちの久太郎は食べるのが大好き。もともと大きい頭でコロコロ太るととてもアビィに見えない。アビィの恥さらしみたいな体系になってきて毛色も姿もタヌキに近かった。キッチンでガサゴソ音がすると飛んできて、食べるものが出てくるかもとキッチンから離れなかった。よだれが多い子で、食べ物を期待しているときはいつも口元がうるうるしていた。

おばちゃんがサラダに入れるキュウリを輪切りにしていて、輪切りが一切れ床に落ちると、デブにしては俊敏に飛びつくので口が卑しくておばちゃんは恥ずかしかった。

この子は人懐っこくてバスルームも一緒に入ってきて洗面用ベイスンの上に乗るのがお気に入りだったが、ある時おばちゃんは、ピチャンと水音がするので変だな、水漏れかしらとあたりを見渡すと
なんと!驚いたことにベイスンの上の久太郎のよだれが床に落ちる音だった。

何故か久太郎は油症だった。小梅ちゃんが油っぽくて窓ガラスに手をつくと跡がついた。玄関先が見える窓ガラスには久太郎が鼻を押し付けて手をついた跡がハンコみたいに模様になっていた。
久太郎が走るとぷっくりお腹がよさよさと左右に揺れて、小熊が転げてくるようだった。
八ちゃんはお兄ちゃんの陰にいつも隠れて、自己主張せずおとなしく遊んでもらえるのを待っていた。

ナナちゃんと大きくなった息子たちは仲のいい親子とはいえなかった。ナナちゃんの遊び盛りの1歳前に子供を産ませてしまったし、おばちゃんたちは独立して仕事を始めてしまって朝出勤すると夜までかまってやることができなかったから。ナナと久太郎はあまり目を合わせない。
久太郎は自分の半分くらいの大きさのナナちゃんを怖がっていて、シャーと威嚇されるとおじちゃんの後ろに隠れるのだった。

突然死

九太郎は3歳になる前に突然死した。
9月の早朝5時に母のナナちゃんがものすごい悲鳴をあげおばちゃんたちは飛び起きてリビングに行くと、そこにはぱっちりと目を開いた九太郎が床に倒れており八助が倒れたお兄ちゃんに顔をかしげて静かに見ていた。ナナちゃんは二人に向かって聞いたことがないような威嚇をしていた。ナナちゃんが八助にとびかかろうとする。

おばちゃんたちは何が起こったのか分からない。九太郎の体はまだ暖かかったが息がなかった。もがいた様子もなければ吐いた形跡もなくただ、ぱったりと倒れて死んでいた。久太郎は太りすぎだったけど、健康診断でも何も引っ掛かる数値は無くもうすぐ3歳になるはずだった。

八助は攻撃して来るナナちゃんに怯えて逃げた。
ナナちゃんは久太郎を殺したのは八助と思い込んでいるように八助の姿が見えるたびにヒスるので別室に隔離した。

ナナちゃん以上におばちゃんたちもショックだった。トムのクリニックの緊急番号に電話を入れ起こったこと状況を話すと、久太郎の死は心臓が原因だろうと言った。
ナナちゃんが狂ったように残った息子に飛びかかろうとするんです。ナナもきっと怖ろしい思いをしたんでしょう。

久太郎が死んでも仕事にはいかねばならない。おばちゃんたちは九太郎をベッドに寝かせ仕事に行った。隣のパン屋でコーヒーを買う時ジャネットに息子の一人が亡くなったのよ、と泣き崩れてしまった。昼休みに家に帰って久太郎をトムのクリニックに連れて行って、久太郎も真っ白な骨になって帰ってきた。ニャーにゃんのUrn骨壺は小さすぎるので、九太郎も入るようにネットで泣きながら大きなUrn骨壺を探した。

ニャーにゃん

日本から連れていった猫は完全室内猫で日本の地面を歩いたことがなかった。おばちゃんたちの都合で、よその国に連れていってニャーにゃんに何かあったらどうしようかと心配したが、最初の1年を過ぎると年中温暖な気候で冬毛も生えなくなって、リビングの窓から緑の芝生を日がな眺めて穏やかに毎日過ごしていておばちゃんも幸せだった。

試しに首輪にリースをつけて芝生に出してみると、へっぴり腰でヘタって歩けないのだった。
抱き上げてほ~ら鳥さんだね。ブタさんが散歩してるね(ちょうどミニブタのブームだった)
芝生の前庭には街路樹があって、その一本は根元から緩やかに横に張り出していて、人間でも猫でも登ってくれと言っているようだった。

ニャーにゃんも抱かれて外に出るのが慣れたころ街路樹の枝にニャーにゃんを乗せてみた。
爪を立てて身をすくめていたが、危険がないと分かると静かに通りを眺めていた。

たまに通行人がニャーにゃんに気が付いてそれはなんていう動物?と聞くのがおもしろかった。
猫だよ。
ニャーにゃん7Kgもある白キジの男の子だった。90年代の初めに、ペットの猫を外国に連れていくなんておかしな人はあまりいなくて、猫の移住の資料はほとんどなかった。

飛行機会社は料金を払えばチケットはとれた。アメリカの検疫が心配だったので、LAXの検疫に電話
をかけてもらったが、日本で得られる情報以上の詳細は分からなかった。

かかりつけの獣医さんと相談して、うてる予防注射は全部うった。生まれてからのカルテを全部英訳してもらった。100%室内猫を移動中に怯えさせないように、2日ほど預けてニャーにゃんにあう安定剤を選んでもらった。後はニャーにゃんに耐えてもらうしかない。

おばちゃん、飛行中は息子のニャ―にゃんが無事かどうか心配で喉がカラカラだった。LAXのラッゲジクレームで水色のキャリアーを確認したときは、キャリアーに抱きついてオイオイ泣きそうになった。Jalのスカーフをしたスチワーデスのお姉さんたちが、心配して寄ってきたほどだった。

アパートに辿り着くと、ニャーにゃんはベッドの下に滑り込み1週間出てこなかった。
水とご飯はベッドの下に差し入れた。当時 使い捨ての砂はまだなくて、トイレはなかなか面倒だったから、おばちゃんが人間トイレでできるように訓練した。おっきい方は愛用のバスケットで出来る。代々の猫で一番賢い子だった。3歳だった。

ニャーにゃんは日本生まれの日本育ちだったから、和食しか食べなかった。魚味のカリカリ、おかか、煮干し、かまぼこ。おやつは焼きのりとオカキ(醤油味で海苔付きだとなお可)

アメリカの常識だと、猫は家禽類をたべるもの。猫缶はチキンかターキーが主流。
魚味の猫缶は少数で、ニャーにゃんはマグロとかサケは見向きもしなかった。
缶を開けると、見るからに鮮度が悪そう。人間も肉食の国だから、魚の猫缶のクオリティは
日本とダンチでおいしくなかった。日本育ちのグルメが飛びつくわけがないよね。

引っ越し荷物に入れた日本のカリカリが尽きる前に、ニャ―にゃんが食べられるカリカリをとっかえひっかえ買ってみた。お試しサイズがあったので、それは助かった。不満でもミックス味は食べると分かったから、主食が決まって一安心。

ニャーにゃんはお食事マナーもキレイであった。おばちゃんが、テーブルには絶対乗らないように、自分のお席(厚めのクッションを引いて)に座って食べるようにしつけた。
テーブルマットに主食と副食2を乗せて今日はどれを召し上がる?これ?これ?これか~?
と3つの皿を順々に指すと、ニャーにゃんはこれ~!と一つの皿を指さすので、おばちゃんか、おじちゃんが手のひらに載せてニャ―にゃんに召し上がっていただくのである。

ただ、焼きのりが食卓にある場合は別。ニャ―にゃんの目を盗んでこっそり食べるか、
ニャ―にゃんに一枚あげて彼が召し上がっている間におじちゃんとおばちゃんが大急ぎで食べるのであった。そうでないと、テーブルに乗り出してくるから。

おじちゃんが仕事で同僚に”ウチは海苔も食べられないんだよ、。”と愚痴をこぼすと、おじちゃん家は海苔も買えない貧乏と思われた。

海岸線が長いくせにアメリカの魚はだめだが、海老・カニは意外と安い。特にチャイニーズ・スーパーに行くと水槽があって、活けのロブスターもいた。一匹7~8ドルだったと思う。誕生日だったかな、
おばちゃんはきばって一匹ロブスターを買ってきた。シンクに置いた紙袋の中でガサガサ音がする。
ニャーにゃんは警戒心まるだしで、恐る恐るキッチンに入ってきた。

おばちゃんはいたずらっ気をだして、動いているロブスターの胴体を持つとほらっ!とニャーにゃんに見せた。

その瞬間、ニャ―にゃんのしっぽは最大に膨らみ恐怖のあまりキャッと40センチほどジャンプしたのであった。そして盛大にちびった。

生まれて初めての粗相であったから、ごめんよぉ、とおばちゃんは掃除した。

もう、お母ちゃんが悪かった。ニャーにゃんに謝り倒したのだが、このトラウマは終生残ってしまったのだった。どういう風にと言うと、気に入らないことがあるとか、気に入らないことがあったとか、おしっこを掛けるようになってしまった。

おばちゃん、西海岸で一番という獣医さんにかかっていたからニャ―にゃんを連れてカウンセリングに行ったのであった。
獣医のTomは西海岸で最初に猫だけのクリニックを開いた伝説の人でクリニックの中には、クリニックの飼い猫なんだか長期入院の猫だかわからない猫が自由にのったり徘徊していた。

ニャーにゃんは診察テーブルに乗って、トムが手を伸ばした途端聞いたこともないほど、ぐるんごろん喉を鳴らして
自分から体をすりつけていった。お母ちゃん以外にこんなになついたことがないのに!

トムは猫たらしだった。
多分、猫にまみれているせいで猫の匂いが染みついているのだわ。カールした灰色の髪に深く落ち着いた声でゆっくりしゃべる。
「去勢手術をしても、10匹に1匹くらい雄の本能が蘇るケースがあります。」
トムは静かな声で、いつも致命的な宣言をするのだった。生きたロブスターを見せて以来、おしっこスプレーをするように
なってしまったニャ―にゃん。蘇るって、えっ、どうなんの?

トムはうっすらと微笑みながら安定剤を処方してくれた。クリニックのそばの人間用の処方箋薬局ではニャ―にゃん用のちっちゃなハート型をした安定剤をくれた。
こ~んなちっちゃな錠剤見たことがない。
ところでなんの薬だろう?
ボトルにはヴァリューム(Valium)と書いてあった。
ひぇ~、あの人間用のヴァリューム?!
かの有名なヴァリューム!誰もがご厄介になると言うヴァリューム、うつ病の!

ちっちゃなハート型の錠剤をニャ―にゃんに飲ませると、ニャ―にゃんはぬいぐるみになってしまった。
日がなソファーの背に箱ずわりして目を半眼にしたまま動かなくなった。
英語の家庭教師のスージーに話すと、スージーはひっくり返って笑った。猫にヴァリューム!

トムはそもそもスージーから紹介されたんである。人間に効くからもちろん猫に効くのよ。それでおばちゃんは、ニャ―にゃんのお薬を一錠試してみることにした。

効き目はものすごかった。!眠くてしょうがない、とろとろズルズル。な~んかだるくて何もする気になれない。
気が付くとうたた寝していて2日ぐらい役に立たなかったのであった。ニャ―にゃんは7キロあったが、1錠で人間も寝てしまう安定剤は合わないのではないか?

おばちゃんは、ニャ―にゃんにスプレーを止めてほしかったので、ぬいぐるみが欲しいわけではなかったおばちゃんはトムに再びアポイントメントを取ったのだった。獣医のトムの声は静かで深~くて、ニャ―にゃんだけでなくおばちゃんもごろにゃ~んとなつきたくなるほど安心する響きだった。

おば:人間用のヴァリュームで大丈夫なんですか?
トム:猫には違った効き方をするんだよ。
ヴァリュームの他の薬を試してみようか。

次の薬もやっぱり人間用の安定剤だったが、ニャ―にゃんはぬいぐるみから解凍された。動く猫のゾンビくらいになった。

三白眼でゆるく歩きカリカリを食べ、宙をにらんで放心していたと思うと、むっくり起き上がってトイレに行った。帰ってくるとごろんとリビングに寝転んだ。おばちゃんはリビングのコヒーテーブルで宿題をやりながらニャ―にゃんを見守っていた。

おばちゃんはトイレに行こうと、よっこらしょと立ち上がり膝をコーヒーテーブルにぶつけた。その瞬間カタンと小さな音がした。

トイレから帰ってくると、ニャ―にゃんはコーヒーテーブルの影にかがんで「カリカリカリ」と何かを食べていた。
おばちゃんの人生のなかで3番目くらいに怖ろしい音だった。コーヒーテーブルから安定剤の瓶が落ちており、
ふたが開いてこぼれた錠剤をニャ―にゃんは無関心にただポリポリと噛んでいた。

おばちゃんはひぃと悲鳴をあげトムのクリニックにエマージェンシーだからこれからすぐ猫を連れていきますと叫んだ。
トムは最初信じなかった。
でもおばちゃんが、ニャ―にゃんがぼりぼり食べていたんです。ホントです。というと処置室に連れていった。後で電話をするから待てと。

夕方トムから電話があり、
胃洗浄をしたら、思ったよりたくさんの錠剤が出てきてどれだけ吸収されたか分からないので、
今夜はクリニックで様子を見ると言われた。どうしよう。おばちゃんは胸が潰れそうだった。

たった一人の息子なのに。眠れぬ夜をすごして、翌日の昼過ぎクリニックから
迎えに来ていいよと電話があった。

ニャ―にゃんはよだれをたらしていてトロンとしていた。トムが胃洗浄をしたときに、歯が一本折れてしまった。でも、いまは安定しているから連れて帰っていいよ。トムの大きな白い手の甲には生々し血のにじんだ切り傷があった。

ニャ―にゃんはアディクトになってたんでしょうか?自発的にポリポリ食べてたんですよ?
トムは、動物はアディクトになりませんね。
自発的に薬物を取らないので、。
そうかなぁ?

おばちゃんはこの日以来、ニャ―にゃんのスプレーを直すことは諦めた。ニャ―にゃんは顔が三角で耳と目が大きな美猫で今までで一番賢い息子だから。猫生に一つくらい傷があるものよ。と腹をくくった。もとはと言えば、おばちゃんがロブスターを見せたせいだし。

ニャ―にゃんのスプレー場所はソファだった。おばちゃんが一番長くいる場所なので、何か不満があると
やってきて読んでいる本から顔をあげないと、ソファの横に行って、しっぽを上げる。おばちゃんが気が付いてニャ―にゃん、何がしたいの?ご飯?遊ぶの?

おばちゃんが気付いてくれないと、立てたしっぽをプルプルと振ると同時におしっこを掛ける。雄猫のおしっこというのはたまらんほど臭い。

布張りのソファの生地を石鹸と漂白剤で洗い、猫用の洗剤とスプレーで洗い、いくら洗っても、また同じ場所に掛けるので
ソファはとうとう穴が開いてしまった。布はやわだからダメだわ。引っ越しの時にソファは捨てて、革のカウチを買った。

日本にいるときは、あまり鳴きもしない静かな子だったのに、スプレーをし始めてから、本来の利かん気が花咲いたのか、
ニャーにゃんは不満があると、大きな声で鳴くようになった。おばちゃんが何かに気を取られていると、その近くで不満をぶつける。
ソファーにスプレーし、キッチンの柱にスプレーし、プリンターにスプレーした。

健康診断でニャ―にゃんをクリニックに連れていってトムに愚痴を言うのだったが、そばの看護婦がスプレー掛けは一生治らないから、普通に飼うのは無理よ、、ね。

聞こえるか聞こえないかぐらいで言った。彼女の口ぶりの百分の1くらいに、眠らせるしかないかも。という響きが含まれているのを、まぎれもなく聞き取った。
ふん、アメリカ人は問題があるペットを眠らせることがあるから。
おばちゃんはニャ―にゃんがおしっこ掛けをするからと言って、見放したりしない!ふん!

しかし、ニャ―にゃんはシッポをフルフルするだけで、おばちゃんが慌てて駆けつけてなんでもしてくれるのを学習してずんずん増長していった。革のソファもやっぱり被害にあり、ただ掃除はまだ楽だった。
キッチンの柱は洗剤であまりにも洗うので、ペイントが落ちてしまった。

このアパートから引っ越すときに、臭いはどうしても取れず、清掃代としてなんぼか支払わねばならなかったのだ。
アパートのマネージャーは事務的に処理したが、
引っ越し屋さんはそうではなかった。

前のアパートから今のアパートへ引っ越すときに、一番近い運送屋さんを頼んだのだが、偶然にまた同じ引っ越しクルーに当たった。クルーのチーフはまだ若い金髪の男だったが、革のソファを肩に担いでトラックに積んだ後部屋に戻ってきた。

カンカンに怒っていた。
アンタ、あのソファに猫のおしっこがついてたぞ。俺は猫のシッコを顔に付けるために、引っ越し屋をやってるんじゃねぇ!
とおばちゃんにすごんだ。

ソファは掃除してあったはずだけど、革に染みこんだ臭いはやはり落ちなかった。
おばちゃんはしまったぁ!と思ったのだが、ここで金髪男にヘソを曲げられると引っ越しができない。

本当にごめんなさい。
ウチの猫がきっと引っ越しでナーバスになっていて、知らない間に、おしっこを掛けたのかもしれない。
貴方の顔につくとは私も全く知らなかった。これで、クリーニングをしてください。と20ドル札をお兄ちゃんの胸ポケットに押し込んだのであった。

手下の小柄なメキシカンがボスは、月曜日が嫌いなんだ。月曜日はいつも機嫌が悪いんだよ。ネバーマインドと慰めてくれた。

ニャ―にゃんは日本にいた時から完全室内猫だったから他の猫を見た経験がなかった。カリフォルニアの最初のアパートは1階だったので、リビングからでもベッドルームからでも外が見えた。窓から街路樹を走るリスや芝生を食べるウサギや
鳥が飛んでいくのは映画のように楽しかったのだろう。

日がな眺めているのはいいのだが、困るのは偶に近所の飼い猫が窓の外を横切っていくことだった。途端にシャーっと尾を膨らませ、ついでにスプレーもするのだった。おばちゃん、段ボールをばらして30センチくらいの幅に切り、外が見えるすべての窓にガムテープで止めた。

そのころ二階に引っ越してきた中国人は時間を全く無視して、夜の11時に掃除機を掛けたりカンカン中華鍋を振って料理をし始めるので、おばちゃんはイライラしていた。管理オフィスにどうにかしてくれと文句を言うと、掃除・洗濯・料理などの生活に必要な活動は住人に権利があって制限をすることができないと教えられた。

夜の10時過ぎにパーティー・音楽などがうるさければ、隣人は警察にリポートする権利はあるそう。まぁ、子どもいるような人は、迷惑を掛けないように一階に、頭上がうるさいのが嫌な人は、上の階がいいわよ。ウチの他のアパートで上の階が開いているところがあれば引っ越せるから。

おばちゃんは3ブロック先に3階建ての3階の部屋を見つけ引っ越した。ニャ―にゃんは他の猫に神経質になることはなくなった。

3階でエレベーターはなかったけど、築浅で広いし小奇麗だし、玄関にゴミ袋を出しておけばアパートの管理が持って行ってくれるし、クリーニングが必要な服をビニール袋に入れドアノブにぶら下げておくと、クリーニング屋さんに出してくれる。高かったが、。

ちっちゃなデッキがリビング側に付いていて、おじちゃんがプランターに花唐辛子を植えた。なかなかにぎやかな色でかわいらしかったが、どういうわけか、鳩が巣を作った。

日本よりず~っと小柄な鳩のつがいが、ぷーぽぷーぽと鳴き、ニャ―にゃんが見守って麗しい愛の家族が実現したのだった。つがいはタマゴを3つ産んで温めある晩気付くとヒナに孵っていた。

んま~、おじちゃんもおばちゃんもメルヘン気分になって、ヒナが順調に育っていくのが楽しみだった。
一緒のお家で育つからみんな家族!と思っていたのは人間だけで、ある晩帰ってくるとドア閉め忘れたデッキに鳩の巣が散らばっていた。ヒナは一羽デッキの上で死んでいた。もう二匹はどうした?おじちゃんとおばちゃんは一階の垣根に落ちたかも、。パニックになりながら探したけれど、ヒナも見つからず、親鳩は二度と戻ってこなかった。

ニャ―にゃんは大慌てしている私たちを横目でちらっと見ながら毛づくろいをしていた。おじちゃんが、ニャ―にゃんがやったんでしょ。可愛かったのに、。ニャ―にゃん、ここは3階だからプランターに飛びついて落ちたらどうするの?
ヒナさん死んじゃったから、ニャ―にゃんも死んじゃうよ。

アパートは2年ごとの契約更新で随分高くなってきたのでおばちゃんは家を買う決心をした。外が見えるリビングが1階じゃなくて、ニャ―にゃんが落ちるような危険がない家。そんな家あるのかしら。
あったのである。

おばちゃん カリフォルニアで家を買う暑くも寒くもない10月の休みの日、風がないのでおじちゃんと
家のそばの公園でバドミントンをして遊んでいた。帰ってくるとニャ―にゃんはオイラも遊んでくれよ、
とふくらはぎに体をぶつけてきた。ニャ―にゃんのお気に入りの黄色い猫じゃらしで

いつものように”遮蔽物からこんにちは、パタパタはどっちだ”を遊んでいると、ニャ―にゃんの息がだんだん上がってきて、突然向こう向きに倒れた。

お腹は呼吸で上下しているので、ニャ―にゃんどうしたの?と正面に回ると、ニャ―にゃんは半眼で泡を吹いてた。
クリニックのトムに電話を掛けると、その状態なら提携しているクリティカル治療のエマージェンシーに
直接行ってくれと言われて始めてニャ―にゃんをアニマル・エマージェンシーに連れていった。

診察が終わるのを待っていると、ナースが現れてニャ―にゃんは心臓に原因があって一晩心電図を取らないと
正確な診断ができないこと、料金は$900ドルだがやるかどうか聞かれた。無論やる。

おばちゃんたちは暗澹と家に帰った。次の日ニャーにゃんをピックアップすると、検査結果と診断はトムに送ってあるから、詳しい話はトムから聞いてくれと言うことだった。

ニャーにゃんは拡張型心筋症だった。心臓移植ができれば助かるかもしれないが、とトムが言った。原因は何ですか?
タウリンが不足すると発症する場合があります、。ではタウリンを処方してください。
発症してしまった後に、どれほどの効果があるかでもおばちゃんは一縷の望みをかけて薬局でタウリンを買った。

ニャーにゃんの食欲はほとんど無くなって、好きなかまぼこもパックを切ったその日だけほんの少量口をつけた。
おばちゃんは少しでもましなかまぼこや練り物、魚を求めてOC中を走り回った。

かまぼこや竹輪は冷凍の状態で日本から輸入される。どこの食料品店でも、解凍して売っているのだった。これでは食欲の落ちたニャーにゃんには食べてもらえない。自分でかまぼこは作れないの?

ネットからかまぼこの作り方を印刷した。おじちゃんは魚屋に鯛を一本注文し、届いた鯛を下ろしてフードプロセッサーにかけ、驚くべきことにレシピはペーストを水で洗えとあるのだった。

取っておいたかまぼこ板にペーストを塗りつけて蒸し3本のかまぼこはできた。ニャーにゃんは申し訳程度に食べてくれた。その頃になると、ニャ―にゃんはトイレに歩くのがやっとでベッドにはもう飛び上がれなかった。
ベッドに抱き上げようとニャーにゃんを抱くとギャーとすごい悲鳴をあげる。心臓が痛むのだと思う。

ニャーにゃんをベッドで寝かせるのはあきらめて、私たちが床に降りることにした。寝るときはリビングに毛布を敷き、ニャ―にゃんのトイレバスケットと水を周りにセットして休んだ。

おばちゃんは一度寝付くと目を覚まさないのだが、明け方キッチンの電話がなり最初のリングで目が覚め床から起き上がり、2度目のリングで受話器を取った。日本からの、母の訃報だった。

おじちゃんはニャーにゃんがいるから日本には行かない。Jalに電話をかけて当日のチケットを取った。

2~3日前からOCには灰が降っていた。北のランチョー・クーカモンガで大規模な山火事が発生しており、
その灰がOCまで流れて降っていたのだった。LAXに着いた時も空は不気味な鉛色で、チェックインするどころか出発便はどれもキャンセルされていた。Jalに聞いても空の状態が悪すぎるので、いつ飛べるか分からないと。

ひょっとしたら別のキャリアなら飛べるのではないかと望を抱いて、反対側のANAのカウンターでどれか飛ぶ飛行機はありませんかと聞いた。そうしたら、
「空の気象状況はウチのせいじゃないんで、そんなことを聞かれても困る」
おばちゃんは飛ばないことを責めていたんじゃない。飛ぶかどうか聞いただけ。ANAは生きている限り使わない。その時決めた。

7時間LAXでひたすらアナウンスを聞いて、夕方ついに飛行機は飛んだ。着陸したとき成田はすでに真夜中近くで、おばちゃんはJalの配慮で東京にホテルを取った。ほとんど眠ることなく朝一番の新幹線で実家に着くと、
姉がアンタ喪服はどうするの?私は母から私用の喪服を作って保管してあると聞かされていたので、お母さんが作ってくれているから、お母さんに聞いて。と言ってしまって、そうだ、その母が亡くなってもう居ないのだと呆然とした。

ニャーにゃんは葬儀から帰ってきてもまだ生きていた。ある日、よろよろと立ち上がると玄関に向かい、
ドアを開けろとしぐさをした。玄関デッキにでて青い空を見ていた。痩せて力が亡くなった体はふらふら揺れていた。

おばちゃんが夜中にふと目を覚ますと、毛布の上のニャ―にゃんがいなかった。おじちゃんにニャーにゃんがいないとゆすって起こしどこに行ったか二人で探すと、バスルームの床で冷たくなっていた。

おばちゃんたちは冷たくなったニャーにゃんをバスタオルで包みトムのクリニックに連れていった。渡米以来ずっと知ってるちょっと冷たくてつっけんどんの受付のおばちゃんが、哀れみを浮かべてAshes to Ashes, Dust to Dust と言った時おばちゃんは我慢が切れて号泣してしまった。ニャーにゃんは真っ白なサラサラの灰になって帰ってきた。

ロングビーチ ルート47

おばちゃんは在米中怖ろしい経験は色々したがロングビーチのルート47だけは二度と走りたくない。

その頃おばちゃんとおじちゃんは休みのたびに、大穴が出た宝くじ売り場を訪れてロトを買うのが楽しみにしていた。カリフォルニア・ロトの当たり売り場はオンラインで公開されていて3回のジャックポットが同じ売り場で出ていたりするのだ。

その日に向かっていた売り場はローリングヒルズだったと思う。405を北上して710番に入ってからナビは車を工業地帯に誘導していった。

おばちゃんはおかしいなと思いながらも、脇道にそれようにも両側は工場の入口のように見えるし、対向車はトラックだらけだからそのままズルズル走って工場地帯の端まで来てしまったら突き当りは海で橋だった。

Uターンもできないし引き返す方法がない。その日はどんよりとした曇りで朝方降った雨で路面がぬれていた。恐る恐る橋に乗り入れるとそこは、!

工事中だったのよ!
路面はコンクリートでもアスファルトでもなく、穴あきの鉄板だったのよ!
穴から50m下の海が見えるのよ!穴あき鉄板は雨でぬれていて、登りなのよ。マップで見ると水平に見えるけど、橋は太鼓橋。おばちゃんのお尻は恐怖で縮みあがってアクセルがうまく踏めなかったわ。
滑るのが怖いのでギアをローに落とした。

おばちゃんは高いところが嫌い。橋も嫌い。高い橋はダブルで怖いのよ。まして海の上!
怖い怖い怖い。おばちゃんは泣きながら走った。おじちゃんは何も助けてくれなかった。

あんだけ怖い思いをしたのに、たどり着いたコンビニはすごくさびれていた。がっかりして10ドルだけ買って、日本スーパーによって帰ろうとすると、ナビがまたじりじりと47番に誘導しようとするのよ。
誰がその手に乗るか、バカナビ。できるだけ近道を通ろう47番から帰ろうとするナビと戦い東へ東へ走らせて、無事家に着いたのだった。

人生にもう少し刺激が欲しいとき、工事中のルート47を走ってみるといいと思います。

無尽蔵のソーダ水を飲む

静岡県のどこかの学校には、ひねるとお茶が出てくる蛇口があるそうね。四国のどこかにはオレンジ・ジュースが出てくる蛇口もあるらしい。

おばちゃんは一時ソーダ水のアディクトだった時があって、ダイエットコークがないと喉の渇きが収まらなかった。そんな時、家のすべての蛇口からソーダ水が出るようになってしまった。
ウソやおまへん、ホンマどす!
葉っぱもやってまへん! アル中は治ってます。

おばちゃん、夕方の6時だかにそろそろご飯の支度でもと思って、キッチンに行って水道の蛇口を開けると、、、、。いきなり道路工事の杭打ち機かと思うほどのカンカンカンカンカン、、と音と同時にしゃっくりしてるような水流が出てきた。おばちゃん、思わずキャーと叫んで後ずっさった。

水はばんばん音としぶきを散らしてシンクに飛び散る。
何だこれは!
おばちゃんは怖くなって蛇口を閉めた。とにかく水を使わないと料理ができないので、恐る恐る蛇口を開けると、カンカンカン、ブシュ、ブシュ、ブシュと痙攣するように水がほとばしる。また、蛇口を閉めた。

これは困った。
これが何なのか、どうしていいかわからず、リビングのそばの洗面所に行って蛇口をひねってみるとカンカンカンとブシュ、ブシュ、、。蛇口を閉める。メインベッドルームの洗面所に行って蛇口をひねるとカンカンカンとブシュ、ブシュ、、。家の中のすべての蛇口から同じ現象が起こる。

一体どうしたらいいのよ。
もしかして水を流しっぱなしにしたら止まるかも?もう一度キッチンに戻って、水道をだす、出す。
5分出してもブシュブシュ水は一向に静かになる兆候はなかった。いつもより水が白いように見えて、おばちゃんはグラスに水を汲んでみた。観察してみた。一口飲んでみた。
一瞬でぶ~と吐き出した。
何故なら炭酸水だったから。まぎれもない炭酸水。プチプチの。

これはもう専門家を呼ぶしかないと思い、プラマーに電話を掛けた。水道屋は、
水道:奥さんちのユニットの他で、誰か今日水道工事をしてない?
おば:したかもしれない。
水道:そのせいだよ。工事の時に水道管に空気が入ったんだね。
その空気が水道管をトラベルして、お宅のボイラーでぎゅっと圧縮されて水が炭酸水になっちゃったんだよ。たまにあるんだよ。家中の蛇口をみんな閉めて、ボイラーを停めて一晩置きゃぁ空気が抜けて治るよ。

おばちゃんは水道屋に言われた通りにして、翌朝起きたら治っていた。でも、せっかく炭酸水が浴びるほど出たんだから、少しぐらい貯めておけばよかったかな?バスタブに。

アイ子ちゃん

アイ子ちゃんは当時無職だった。ダンナは学生だった。一人息子のジョージ君を日本語学校へ行かせるため停留所でスクールバスを待っていた。
同じくお子さんを持つ日本人駐在員の奥様と出くわすので当然皆さん同じ日本人としてご挨拶をなさる。日本を代表する会社の駐在員の奥様方であった。

「○○○商社の〇子でございます。」
「xxx商事のx子でございます。」
「△△△産業の△子でございます。」
アイ子ちゃんは困って
「無職のマッセルでございます。」

ご主人は確かに無職で学生であったが、バージニアから生まれ故郷のカリフォルニアへ、ロースクールの最終学年を終えるために戻ってきたところだった。

アメリカの教育制度のありがたいところで、年齢制限がない。勉強したいときにいつでも学校に戻れるのは素晴らしい制度だと思う。30過ぎても40過ぎても努力すれば人生の仕切り直しができる。

そもそもアイ子ちゃんとご主人は日本で知り合って日本で結婚しご主人は短大の教師、アイ子ちゃんはビジネスを経営していた。自然災害で地元の経済が落ち込んだのがきっかけで、ご主人の生まれ故郷カリフォルニアに移住することにした。

アイ子ちゃんはビジネスを売ったので、経済的には困っていなかった。
ご主人にこれからどうしたい?と聞いたら学校に戻って弁護士を目指したい、というのでダンナを応援することにした。その時で二人とも40を過ぎていた。

弁護士の旦那と結婚したのではなく、旦那を弁護士としてプロデュースした人。

私が当時バージニア州にいたアイ子ちゃんとどのように知り合ったかと言うと、掲示板であった。法学のクラス関係でどうしても2年ほどバージニアの大学で単位を取りたいというご主人とバージニアに2年ほど暮らしていた時に、周りに日本人はいない。

日本語を書けるWindows98があったのだが調子が悪く診てもらえるコンピューターショップもなく、それでも趣味のWebページを日本語で作りたい。アイ子ちゃんがが海外在住者用掲示板に質問を書き込み、カリフォルニアの私が読んで返信したのがきっかけ。

膨大なメールのやり取りでアイ子ちゃんのWebは完成した。同じころご主人のバージニアでの法律クラスの単位も無事に取れて、カリフォルニアに帰ってくる?!と報告があった。

カリフォルニアが故郷だとは全く聞いて無かったので、驚いたが、もっと信じられなかったのはアイ子ちゃんも私も同年代でさらにアイ子ちゃんの家がウチから5分だったこと。

アイ子ちゃんの家転がし


アイ子ちゃんの得意は家転がし。
大阪商人で不動産屋だったお父様の代わりに学生の時代から家作を管理していたから、不動産の目利きは確かだった。本業は色々変わったが家転がしは余技。

そもそも彼女には家は一生に一度の買い物とか、終の栖とかの観念が無かった。家族の構成が変わるとか仕事の通勤に便利かどうか価値として上がりそうな家を買い、価値が上がったら売る。気軽に転居して資産として住替えていくもの。

これから発展する土地で人口が増える街ならねらい目。人気の場所でも高くなりすぎた物件は手を出さない。築。古かったり売りにくいから。

アメリカで最初に買った家はタウンハウスだった。バージニアに行っている間にタウンハウスは人に貸し、OCに帰ってご主人のジョンがバーイグザムをパスしたので、今度は内陸に家を探し始めた。

内陸の法律事務所からジョンにオッファーがあったから。OCのタウンハウスは買ったときの2倍の値段で売れて、それを頭金に内陸に一軒家を買った。

モデルハウスってわかるだろうか?デベロッパーが購入者に内覧させるためモデルとして建て公開している家。分譲が終わるとモデルハウスが最後に売り出され、新築なのに相場より安い。まあ、嫌がる人もいるから。ジョンはいずれOCにまた戻るつもりなのでアイ子ちゃんはお買い得のモデルハウスを買った。

経済は上り調子でローンの利率は下がり反対に家の価格は上がっていった。
2007年から2008年には経済は完全バブル化し家の売買は過熱化して、アイ子ちゃんの頭の中で警報が鳴り始めた。バブルはいずれはじける。
2009年には自分で家を売って売買書類の処理はダンナのジョンにやらせた。家は買ったときの2倍近くになっていて、同じ通りの物件の中では最高価格で売り抜けた。

そのあと、リーマンショックで家の価格は3分の2に落ち、住人はローンが払えず、銀行は裁判所にフォークロージャ―の手続きをするのだが、件数が多すぎて裁定まで1年かかるありさま。

アイ子ちゃんはまたOCに引っ越してきてバブルのはじけた後の築浅一軒家を買った。子供が巣立ったらもう一段ランクの高い住宅地に買い移って”あがり”だそうだ。

おばちゃんの住所録のアイ子ちゃんの欄は何行もある。家と家の間にアパートにも住んで住所が何度も変わるので、住所録をキープするのが大変!

ガバメントが使うフォント

おばちゃんがコンピューターを教えついでにフライヤーや看板のデザインで小遣いを稼いでいた時、Photoshop とIllustratorがあっても、デザイン素材とフォントは必要不可欠だと痛感した。

アメリカの商業デザインはスポーツ業界に使われるフォントとか、エンターテインメント業界用のフォントとか
フォント自体に用途別のイメージがあって、おしゃれなブティックの看板に間違ってもPlaybillなんて使わないのね。
逆に言えばPlaybillをタイトルに使えば、学校のスポーツのお知らせとか学校の催しものだとかすぐわかるわけだ。フリーフォントも色々あるから、ダウンロードしてデザイン時用にストックしておく。

さて、Helveticaというフォントがある。
印刷業界に革命を起こしたフォントと言われ、その端正なフォルムは公文書にも多用される。例えばアメリカ政府とか。州政府とか。

移民局、労働局、税務署、州政府などがHelveticaを使うわけだ。
もちろん、太字、斜体、ライトなど様々な変形があるので、例えばカリフォルニア州税のTaxReturnフォームがすべてHelveticaが使用されていることは、普通の人はあまり気が付かないかもしれない。これらのフォントセットはむろん購入できる。

おばちゃんは、毎月消費税を州政府に申告し納めなければならなかった。
今はオンラインだけど、ビジネスをスタートしたときは申告フォームが「紙」だった。
紙のフォームは当然おばちゃんが数字を書き、それも売り上げ、税抜き売り上げ、税、州のローカル税%税金額など、電卓を片手にポチポチと(5)から(1)を引いて
(6)に記入し(8)にトータルを書く。(8)と(3)の数字が違ったら計算が間違っているのだ。

計算が合っていたら控えにコピーを印刷する。日本の年末調整みたいな書類が毎月あるのだと思って。たかがフォーム一枚記入するのにおばちゃんの昼寝の時間が潰れるのである。

電卓で計算するのが面倒くさくて仕方なかった。そこで州のフォームをじっくり見たのである。あら~?全部Helveticaだわ。太字にライトがあるけれど。

そこでおばちゃんは知恵を絞った。計算が面倒くさい、Excelを使えばいいんじゃね?フォントはHelveticaで、用紙はLetterサイズで。ガバメントのフォームの余白は0,5インチと大体決まっているのだ。

おばちゃんは州税フォームを作った。本物の紙の上に自作を重ねて、下からライトで照らすとテキストボックスの枠の太さだとか、長さに微妙なずれが分かるので、修正していけばいい。

お昼寝を何日かつぶして完成した。印刷したExcelシートを本物の上に重ね下から光を当てるとフォントもフォームのコラム線もピタリと重なった。お~ほっほ!

Excelシートには最初の税込み売り上げ数字をタイプするだけであとは自動計算する。2枚印刷して1枚はウチのコピー。
毎月の消費税申告は1分で終了した。本物の申告用紙はフォントに歴代コピーずれがあって汚い。
おばちゃんの方がよっぽどキレイ。

おばちゃん 時効の分だけ懺悔する

おばちゃんがリタイアをしてからだいぶ経つけど、お客も従業員もまだ現役かなぁ。遠い目。時効になった分だけ懺悔する。

一番の図々しい客は”初めて来てやったからまけろ、オマケをつけろ”といったメキシカンの2人組。
次は、”俺は年寄りだからシニアだからまけろ”と言った台湾人。あんたが”年を食っているからと言って、どうして私がディスカウントをしないといけないのか?”と、おばちゃんが目をじっと見て言ったらくじけて撤収した。

オープンしてまだ間がないときお客が電話オーダーの商品をピックアップに来て”これはオーダーの品と違う、俺はこれじゃないのが欲しいんだ!”でも電話を受けたのはおばちゃんで、絶対商品に間違いはない。客と言い合いになり、客が捨て台詞を吐いたのでおばちゃんもカッとなってそのレシートを丸めて

客にぶつけてやろうとしたら、おじちゃんが後ろから私の挙げた腕をつかんで、次いでおばちゃんの両肩をがしっと羽交い絞めにした。その間に客が悪態をついて外に出て行ったので、レシートをぶつけられずに誠に残念だった。とても客商売のオーナーにあるまじき振る舞いでした。
反省はしていませんが、やっと白状できてすっきりしました。

ローカルのフリーペーパーにディスカウント広告を出しました。店のチラシの金額を書き間違えて$1.50高く書いてしまいました。お客さんが手に取ったチラシを見て、あれ?おかしいな、という顔をした時に値段が間違っているのに気が付きました。アサちゃんにお客さんを任せて、チラシの金額を書き換えてプリントしなおし、お客さんの気がつかない間にこっそりチラシをすり替えました。

ウエブとキャッシャーの金額も書き換えて証拠を隠滅しました。
あれ、確か金額が違っていたはずのような?という顔のお客さんにどうしました?としらばっくれました。反省はしてますが、後悔はしてない。

昼寝の時に英語で電話がかかってきたら「No English」と一言
言って電話を切りました。眠かったんです。ごめんなさい。

C国人が電話予約をすっぽかし次はその旦那が別の電話番号でしれっと予約してきてあまりに腹が立ったので、出禁にしました。
店のWebのヘッダーにお客の名前と電話番号を2つ、しばらく晒しました。ウチ、AdSenceを張ってたのでトラフィックがあったと思います。
10年以上たっているので、時効ですよね?

〇山さんの目と鼻が整形だと噂を広めたのはおばちゃんです。マーちゃんが日本に行ってきてお土産と女性セブンを持ってきてくれて、雑誌は店に置いていたら、〇山さんが女性セブンの美容整形の広告をびりびり破って
持っていき、次に来た時に目と鼻が新品だったので整形だって広めてしまいました。もうみんな知っているから、無罪ですよね?

ドイツ育ちだと言うC国人がドクターのコンフェランスに来たといい、お会計でカードを出してきたけどDeclineされておばちゃんは、別のカードかキャッシュを出してんか?とゆうたら、お財布をホテルに忘れてカードはこれだけでキャッシュは”無い”と言いよるんですわ。

ドイツなまりの英語を話すC国人などという珍人やったけど、大陸産のC国人と同じように、ぐいぐい対応してしもうたんですが、ドイツ育ちのせいか真面目やったんです。

でもアメリカでカード一枚だけ、エマージェンシーのキャッシュも
持ってない。カードのカスタマーセンターに電話を掛けたら、ドイツ時間の夜中でカスタマーサービスがお休みなんや、言いよるんですわ。

カードのカスタマーサービスって24/7dayと違いますのん?電話が繋がれへんってドイツのカードカスタマーサービスあれへんのと違います。
ホテルに帰ってキャッシュを持って来てくれへん?金持ってきたら携帯電話を返すからと、携帯をカタに取りましてん。ちょっと、イケズすぎました?

もっと酷いのはどこで自白したらいいですか?

リタイヤ後はプログラミング

おばちゃんはつくづくプログラミングが出来ればなぁ。とSharpのキャッシャーを嘗め回しながら切望したのだよ。Sharpのキャッシャー内部のメモリには商品のPriceLookUpTableや税の設定、トランザクション・ジャーナルなどのデータが保存されている。

このSharp、腹が立つことに2種類のトランザクションのカウント・ナンバーが組み込まれて、例えて言うと性質は車のマイレージ・カウントと同じなんだ。つまり1つは製造後からの通しナンバーね。キャッシャーがチ~ンと鳴ると数字が一つ大きくなる。こいつは電池を抜いて、全部初期化をすると0になるがそれ以外変えられない。チ~ン で一つ。Shit。
もう一つのマイレージはその日のトータル。集計をして印刷をすればカウンターはゼロに戻る。

もし、トランザクションを同じマシンで打ち直せば?マイレージ1のカウンターがチーンと鳴った分だけ回る。昨日の終わりのナンバーと今日の初めのナンバーは続きでなければIRS(税務署)が気が付く。

IRSというのはポス(キャッシャー)の印刷レコードを信じていて信頼が厚い。書き直せないことになってるからさ。隣のパン屋のクリスもレジからは凧の足みたいなレシートがとぐろを巻いていて、ギフトショップのブランドンのとこも長いレシートのしっぽが出てる。

業務が終わった時にキャッシャーを集計モードにして「ENTER」をパンチすると、印刷レシートがシュルシュル出てきて、おばちゃんは疲れた手で紙を巻いて充実した一日の営業が終わるわけだ。

Sharpはシリアル接続でWindowsXPに繋がっている。付属ソフトをいじり倒すとデータのトランスファーができることが分かった。キャッシャーからコンピューターのSharpのディレクトリ¥DATAに内容がコピーされる。ほう?
マイレージカウンター1は手が出せない。どこに格納されているかもわからない。

おばちゃんは全く同じSharpのキャッシャーをもう一台買った。(なんでや?キャッシャー1が壊れたら業務ができへんやんけ?)ウチのリビングに転がっている自作コンピューターに接続し、1台目の”DATA”を2台目のSharp¥Dataに上書きするとあ~ら、不思議! キャッシャー2がキャッシャー1そっくりになった。

面白いね。あたしって天才!
もちろんこのキャッシャー2も書き換え不能のカウントナンバーがある。チ~ン!

仕事のSharp1をジェーン、予備Sharp2をマイケルとする。おばちゃんは、商品値段や新製品をしょっちゅう変えるので、LUテーブルも編集する必要があるのだ。ジェーンを変更したらマイケルも更新しておく。

なんでや? 仕事のジェーン1のケーブルをネズミがかじって使いものにならへん日があるかもしれんやろ!そしたらマイケルをすぐ差し替えられるやんけ!

お客というのは値段表に紙を貼って書き換えたり、修正液で塗り替えたりして値段を上げると、ムカッとする。値段を上げやがって!と。レシートも値段表もSleekで修正などと影もなくきれいなレシートだと値上げしても案外気が付かないもんだ。ここまでいいぃ?

おばちゃんは、同じ仕事をするのが嫌いなの。だから、昔っから字が下手なの。お習字が嫌いなの。わかりきっている作業を、なんで?何度も繰り返さないといけないのか?
そんなわけで、毎年2月になる前にジェーンを眺めながらう~ん、エディターが欲しいなぁと真剣に思う。

知り合いの台湾人のエミーさんがプログラマーで、聞いてみたことがある。

おば:ねぇ、エミーさんこのSharpをクラックしてエディターを作れない?
エミー:言語のソースはわかる?
おば:言語がわかんないとダメ?
エミー:ソースを見せてくれれば何とかなるけど、なければ私には無理。ウイルスソフトを作っているような人ならできるよ。
おば:そっか、残念。プログラミングを勉強していつか自分でエディターを作れるようになるかなぁ?

一日の業務が終わったらエディターを立ち上げてトランザクションを編集する、Refundや打ち直しの跡もない綺麗なトランザクションを印刷をする。美しい仕事よ!

人間のモチベーションとは意外なところから湧いて出るものだ。おばちゃんは割と根に持つタイプなので、商売をやめた今でもエディターの夢はあきらめていない。何年学校に行ったらいいの?

言語の混線

アメリカで仕事をするということは基本複数言語で生活するということになる。客には英語、従業員にはスペイン語と日本語と英語。仕事中の言語は聞く、話す、書くというFunctionで3言語が入り混じることになり、この最中に混線が起きる。

客の注文は英語で聞き英語で答えてメモが必要なら英語か日本語でとる。
この時、英語でメモを取った方が後の作業に楽なものと日本語でメモを取った方がいいものと異なる場合ががある。英語で聞いて英語でメモを取るのが一番楽で間違いが少ない。

英語で聞いて日本語でメモを取る時にバグが出やすい。頭ん中の言語線がなんだか英語をひょいと間違った日本語で「書く」。自分は間違った自覚がない。
もう一つは日本語でも英語でも聞いてそれを復唱する時に間違った単語を「しゃべる」手は別の単語を「書いている」

いつだか従業員のマー君が、「おばちゃん、おばちゃん、違いますって!」と私を制するので何かと思ったら、おばちゃんは英語単語をしゃべりながら全く別の日本語を「書いて」いたという。おばちゃんは全然自覚がなかった。

本人は釈然としないのよ。自分では正しい単語をしゃべっている/書いていると思っているので。

この言語の混線は従業員の誰でもたまにあるので、もし、本人が間違った自覚が無くても2人以上の証人がいる場合は「言語の混線間違い」と認定することにした。認定したところで混線が減るわけではないが、誰の混線が原因かを明らかにするだけで、職場全体のストレスが多少減る。

もう一つは、ちょっと違う種類の混線だが、おばちゃんが英語の「Government」 を日本語に翻訳しようとするとGoverment=幕府で変換してしまうのでおばちゃんはいつもバ・バ・幕府でどもってしまうのだった。
何故Government=幕府なのか理由は分からない。海外生活で「政府」という日本語は一番不要な単語だったからかもしれない。

追記:どういうことか考えてみたのだけど、
30年近くアメリカに住んでいると、日本政府の政策やニュースや政府自体がどう成り代わっても、海外生活者にはほとんど何の影響も与えない。日本語で「政府」と発音する必要さえないので、不要になってしまったと思われる。

元号が覚えられない カタカナが怖い

LAの総領事館のオフィスがまだ下方の階で、広くって超高学歴・完璧バイリン”風”の窓口の大使館員おばさんがいたころ、もっと偉そうでつっけんどんだったころ。
窓口には、戦争後に来たんじゃないかという、日本人のお婆様が申請フォームを手に、もう日本語なんか書けないし、言葉も色々忘れちゃってるから、バイリン風窓口のおばさん大使館員が、くどいくらいあれこれ日米両言語で問いただしてた。

窓口の上方の壁には横1メートル・縦50センチくらいのでっかいサインボードがあって、老眼鏡も絶対必要ないだろうという大きさで
「今年は平成 X 年です」と書いてあった。
まぁ私も見たときは ああ、もう X年なんだと思うのだが、次に領事館に来るときは当然ながら年が変わっているわけで、ああ、X年なんだ。とまた思うわけ。

日常生活で日本の年号を目にすることもないし、ネットはまだ黎明期で、Yahoo!か朝日新聞がようやく稼働を始めたかという時期だったから。日本は今、年号で何年になるのかさっぱり覚えられなかった。

渡米した日本人に共通していることだけど、渡米すると自分の中の日本の時が止まる。記憶の中の日本は昭和 X年、あるいは平成 X年なんだね。その代わり、渡米してからの経過年数は絶対忘れない。
自分の年を忘れても、アメリカに来てからの年は忘れない。死んだ子の年を数えるみたいに。

私も当時の窓口の婆様になりかかったころに日本に帰国してきたから、当然平成年号が記憶できていない。おばちゃん、平成が何年で終わったかも覚えてないから西暦でしか生活できない。
でも、年齢を引き算するには西暦の方が絶対便利よ?


実をいうと、日本語が書けない。
コンピューターのキーボードがないと書けない。手書きで書けるのは自分の名前と住所。これは帰国してから練習した。だって、アメリカでは日本語を書く必要がなかったから。

領事館で証明書類を申請するときくらいで、電話債権を売るのに在留証明を取らないといけなかった。その在留証明にはなぜ在留証明をとりますか、理由を書け、とかあった。

なぜ理由を聞く?。
と思いながら債権?そんな漢字が書けるわけもなく、こんなところで日本語を書かせるのがまず間違ってると、ぷんぷん怒りながらひらがなで理由を書いた。

仕事中に書くメモも日本語だったわけではない。頭が半部英語モードで動いていると日本語に切り替えるのがすごくつらい。
あの、ひらがなというやつが曲者だった。一番困るのは「な」「ね」「の」「ぬ」
止めのところがどちらかにくるっと曲がるのがどっちだったか?右か?左か?自信がない。「な」ってこっちに曲がるんだっけ?と従業員に聞いても、ん~ん、そのように見えますが、彼女だって自信がないのだ。

アルファベットだと文字数はたった26文字で全部書けるのにね。それにというものは何十年もやっていないと、書き方も忘れてしまうのだ。

ひらがなも困るが、カタカナは嫌いだ。
渡米する際には日本から文豪ワープロとインクリボンを持って行った。当時のアメリカでは日本語を書けるコンピューターがなかった。Windows 3.1では日本語が書けず、印刷するプリンターもなかった。Windows95が発売されてやっと日本語が書けるようになった。

キーボードがあれば日本語メールを書くのに不自由はなかったので、買い物メモもToDo Listも日本語である必要がなかった。
ジャガイモはPotatoって書けばカタカナより早いし。周りの日本人はみんなそうだったからね。中国人のサマンサだってジョイスだって、漢字は書けないって言っていた。日本語のニュースはネットや書物で読んでいたから、読む能力は衰えていなかったが。

何年かに一度、親戚友人などがやってくるとディズニーランドへ案内した。親戚・知人は日本語の園内地図を選びおばちゃんは英語を選んだ。カタカナが読めないから。

おばちゃんは、カタカナしか書いてないMapを見るとパニックになってしまう。「ウエスタンランド」というカタカナの音がWestern Landだということを変換するのに時間がかかるから。すごくつらい。

日本語のつづり(カタカナ)は英語の音をあらわしていない。
ラリルレロの綴りは 「L」か「R」かバビブベボは 「B」か「V」か「th」はどうするか?だから頭がフリーズして日本語への変換を拒否していたのだ。

日本で一番の恐怖の場所はDVDや音楽CD売り場。
頭痛と吐き気が止まらない。パッケージのラベルがカタカナ表記で、さらに日本語語順 ア イ ウ エ オでカテゴライズされてたから。Tayler Swiftが「」行にあるんだよ?

人種差別

人種差別はあったかというと、いろいろ人間の区別もあったし、移民の我々からすると、そんなことをいちいち気にしていられないというか、。
アメリカのメインストリームはやはり白人なので、訴えるにしても白人以外が白人を訴えるという図式がよくある構造だった。

デニーズで席に案内されるのを待っていて遅いから早くしてくれないといった中国系の男性にデニーズの従業員がそんなに待てないならお向かいのチャイニーズレストランに行けば?という発言をして訴訟になった。
デニーズに勝ち目がなさそうで何ミリオンで決着がつくのかという噂になったから、まともなアメリカ市民は人種差別を連想させるような表現は避けていた。

日系の3世のおばちゃんたちは他人種の客のことを
Who are they?とは聞かず
What’s language do they speak?と聞いた。
もし、口が滑ったらやられるかもしれない。

珍しい例だが日本の寿司屋が人種差別と白人から名指しされることがあった。経営者が日本人で、評判を聞いて白人が入ってくるとすし飯がなくなったから今日は店じまいというのだそうだ。オーナーに親しい人から言わせると、そんなことは一言も言ってないと否定するのだが。

アイ子ちゃんとアメリカ人のご主人が晩御飯を食べに行って、ご主人がカリフォルニアロールを頼んだら、オーナーが怒ってそういうものは置いてないと機嫌が悪くなったのは事実。

一番の人種差別・人間差別があったところ。
それは合衆国政府の役所:移民局だった。今思い出しても腹が立つ!

永住権の最終段階で移民局から指紋の採取に出頭せよとハガキが来て、LAの移民局の場所と日時が指定されていた。ほとんど着ることもないジャケットを二人で直用し、待ち行列が長いよと脅かされて2時間も前に到着したところ、3ブロックぐらい離れた専用駐車場から延々と色のついた人達が
歩いてゆく。誰もジャケットなんか来ていない。

政府のビルが見えてくると、人の行列がビルを何周にも取り巻いていた。おばちゃんたちは時間を指定してあるハガキを持っているので、迷わずビルを入り列の先頭に行こうとするのだが、まず、ビルの入り口で追い払われた。本当に追い払われた。

アポがあるのだとハガキを見せるのに、列に並べ。ハガキがあっても並べ。しっ、と言われビルを出されて今来た道を戻って、さらに道にまではみ出した行列の最後尾についた。

何度ハガキを見てもアポのハガキなのに。列はじりじりとしか動かず、追い出されたビルの入り口に再度たどり着くまで2時間かかった。

やっと内部に入ると、ゴールデン・ウイークのディズニーのようにロープを張り巡らして、その行列の先がどこの窓口に行くかもわからない。アポの時間は迫ってくるし、誰かに聞くための窓口に行くために、誰かに聞かねばならないのに、その誰かも窓口もわからない。

ロープで仕切られていないフロアを行列とは違う政府職員の白人が通っていくので、思わずロープをくぐって二人組に呼びかけたのが、驚くべきことに私は透明人間だった。
ハガキを見せているのにも関わらず、声をかけているにも関わらずまるっきり人間がいないものとして扱われたのは人生初だった。

屈辱に顔が赤くなって又行列に戻りさらになん十分も待って、最初の窓口についた。ハガキを見せるとオマエラはあっちの窓口と指をさされる。この時は腹が立つというより、早くアポに行かねばと焦っていてこの列に並べっといったのはオマエラだと言い返すこともできず。

ガラガラの窓口では黒人のおっさんと隣の窓口のおばさんが噂話か陽気に笑っており、誰も並んでいないのでおっさんにハガキを出すと、いきなり表情が変わって仏頂面になってなんだと顎をしゃくられた。


フン、指紋をとるから右手を出せいい、おばちゃんが手を出すと不潔なものでも触るように手首をつかみこのパッドに指を乗せろ、おばちゃんの指をつまんでインクパッドに押し付け採取用の紙にぐりぐりと押し付けるのだが、プリントの付き方が悪いらしく、チット舌うちをされた。

10本の指紋をとるのに、何度も舌打ちをされた。
アメリカに来て以来最も人間扱いをされてない不快な体験だった。この指紋採取が終わればおばちゃんたちは面接を免除されているので晴れて永住権が取れるのだが、隣のロープの中を延々と進んでいる色のもっと濃い人たちは申請の過程、その過程で問題がある人、返事が来ない人、ステータスを聞くための人で、永住権からまだまだ遠い人達なのだった。

たまにその列の中に、白人と別人種の女性がカップルでいることがあり、その白人の男性が職員に聞いたり食って掛かったり、おばちゃんがやられたような透明人間の扱いではなかったが、やはりケンもホロロ、つっけんどんに扱われていた。

アメリカ人が他国人と結婚して移民局で妻の永住権手続きをしようと、政府職員とよくケンカになる。妻のことを人間扱いしないので口論になるのはよくある話だと知った。

この政府のビルの中では唯一はっきりしたルールは、窓口の中にいるのが人間、窓口の外に並んでいるのは人間以下。アメリカで永住権の申請過程にいる人はまだ人間ではない。

移民局での経験を経て永住権を手にしたが、アメリカ人と同等になったわけではない。法的な身分は持てたが、
今度は別なハードル:


へたくそな英語、なまりのある英語、教育程度、
社会的な信用度、安定した職、資産の額、自宅


などの人種以外の壁が立ちはだかっているのだ。それらのハードルを戦って超えていくことがアメリカで生きていくことだった。

アメリカ社会での生活が長くなってくると、小さなことは気にしていられないが、相手をみて言葉尻をとらえれば訴訟に持っていけなくない場合もあることに気づく。それをチャンスとして考えるかは人それぞれ。

デニーズの件もそうだ。
実際向かいのチャイニーズレストランに行けば?というのは人種差別というより待てないお客に嫌味を言ったというレベルだが、相手が全米チェーンのレストランでDeep Pocketだと思えば一つやってやろうかと思うのも理解できる。
別に中国人だから中国レストランに行っておかしくもなんともないが、嫌味を言われて相手が白人で自分が黄色なら人種偏見だとゴネられると思う。相手がパパママレストランなら大した金が取れないなら誰もやらないだけ。

アジア系の人口が多かったけれど、裕福で安全な街だったので、ひどい差別があるというわけではなかった。貧しい南部の州などはアメリカのもっと深い暗部が潜んでいたであろうとは思う。

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