September 11 2001  What if

September 11 2001
貿易センタービルが崩壊した日
あの日、いつものように主人を仕事に送ってゆき、家に帰ってきてテレビをつけると、映画の特撮シーンが何度も映った。頭が理解を拒否していたのだと思う。

送っていったばかりの主人はどうしているか、この映像のこの飛行機の衝突の瞬間に何人の命が失われているのか、この崩れ行くビルの間に何人の人がいるのか、恐怖にしびれているのだが、映像から目を背けることができなかった。
親友ジョイスに電話を掛けると、彼女も動揺していて娘を心配していた。彼女の長女は、当時ダナ・キャランNYのデザイナーでもしかして現場近くにいるかもしれず、気が気ではないのが分かった。ダンナのデイビッドは何か情報があるかどうか、電話をかけまくっているのだという。

電話を切って何も手がつかず、かといってテレビを消すと、沈黙で返っていたたまれなくなるのだった。次の日も次の日も、人は非常な緊張のもと日常生活を送ってはいたのだったが、足が地についているのか心もとない日々だった。生者は静かに死者を悼み、アメリカは喪に沈んだ。

May, 19 2003
大統領ジョージ・ブッシュは
My fellow citizens, at this hour,
American and coalition forces are in the early stages of military operations
to disarm Iraq, to free its people and to defend the world from grave danger.

ブッシュの宣言でアメリカ領土を飛行するすべての航空機の飛行をキャンセルされ、アメリカはイラクに反撃を開始した。

2日後に甥の結婚式に出席するはずだった私はフライトのキャンセルを強いられた。長く会っていなかった母が姪と一緒に去年カリフォルニアに来るはずだったのが転んで腰骨を折ったので来れず、結婚式で再会を楽しみにしていた。5か月後に母はクモ膜下出血で亡くなり、ついに今生で会えることはなかった。

テロの記憶はアメリカ人一人ひとりに深く刻み込まれ、ソーシャル・セキュリティのアカウントにログインするときにの3つの秘密の質問には911あの時あなたはどこにいましたか という質問が含まれていた。誰も忘れようがないのだあの日のことは。

2021年7月

ある時私はおじちゃんとテレビ・ニュースを見ていたら、アメリカで親しかった人が突然画面に現れてびっくりしてしまった。

随分、お痩せになったようだ。
コロナの中大変な苦労をなさったのだと思う。とっくにリタイアのお年だけれど、ビジネスをやっていれば従業員への責任もあるし、簡単にやめるわけにいかない。それは私たちもすごくよくわかる。

今日は熱海のニュースを聞いた知り合いから、安否の電話をいただいきLAの知り合いがコロナで2人亡くなったことを知った。

あの時、ビジネスを畳まなかったら、もし、今もOCにいたら、もし、帰国しなかったら、テレビの知人とは別にお世話になった先人がいて、彼はそれこそ昭和の半ばに渡米され手広くビジネスを展開して隆盛を誇った方だった。

我々が帰国を決めて報告した時、
彼は”帰国するといってビジネスを畳む人は沢山見てきたが、本当にきっちり日本へ帰国できる人はほとんどいない”のだそうだ。

苦労して取った永住権が捨てられない住み慣れた家を売りたくない、売れない、子供が学校の途中だ。日本の知り合いに聞いたら職探しが難しいとか、なんとなくまだアメリカにチャンスがありそうでぐずぐずしてしまい居残って、、。
  

帰国の決心はまったく後悔していないが、伊豆には今夜も雨が降るのである。熱海には土石流が流れ、この山はどうなるのかなぁ?おばちゃんの人生はいつも先が真っ暗なのであった。

アイ子ちゃん

アイ子ちゃんは当時無職だった。ダンナは学生だった。一人息子のジョージ君を日本語学校へ行かせるため停留所でスクールバスを待っていた。
同じくお子さんを持つ日本人駐在員の奥様と出くわすので当然皆さん同じ日本人としてご挨拶をなさる。日本を代表する会社の駐在員の奥様方であった。

「○○○商社の〇子でございます。」
「xxx商事のx子でございます。」
「△△△産業の△子でございます。」
アイ子ちゃんは困って
「無職のマッセルでございます。」

ご主人は確かに無職で学生であったが、バージニアから生まれ故郷のカリフォルニアへ、ロースクールの最終学年を終えるために戻ってきたところだった。

アメリカの教育制度のありがたいところで、年齢制限がない。勉強したいときにいつでも学校に戻れるのは素晴らしい制度だと思う。30過ぎても40過ぎても努力すれば人生の仕切り直しができる。

そもそもアイ子ちゃんとご主人は日本で知り合って日本で結婚しご主人は短大の教師、アイ子ちゃんはビジネスを経営していた。自然災害で地元の経済が落ち込んだのがきっかけで、ご主人の生まれ故郷カリフォルニアに移住することにした。

アイ子ちゃんはビジネスを売ったので、経済的には困っていなかった。
ご主人にこれからどうしたい?と聞いたら学校に戻って弁護士を目指したい、というのでダンナを応援することにした。その時で二人とも40を過ぎていた。

弁護士の旦那と結婚したのではなく、旦那を弁護士としてプロデュースした人。

私が当時バージニア州にいたアイ子ちゃんとどのように知り合ったかと言うと、掲示板であった。法学のクラス関係でどうしても2年ほどバージニアの大学で単位を取りたいというご主人とバージニアに2年ほど暮らしていた時に、周りに日本人はいない。

日本語を書けるWindows98があったのだが調子が悪く診てもらえるコンピューターショップもなく、それでも趣味のWebページを日本語で作りたい。アイ子ちゃんがが海外在住者用掲示板に質問を書き込み、カリフォルニアの私が読んで返信したのがきっかけ。

膨大なメールのやり取りでアイ子ちゃんのWebは完成した。同じころご主人のバージニアでの法律クラスの単位も無事に取れて、カリフォルニアに帰ってくる?!と報告があった。

カリフォルニアが故郷だとは全く聞いて無かったので、驚いたが、もっと信じられなかったのはアイ子ちゃんも私も同年代でさらにアイ子ちゃんの家がウチから5分だったこと。

アイ子ちゃんの家転がし


アイ子ちゃんの得意は家転がし。
大阪商人で不動産屋だったお父様の代わりに学生の時代から家作を管理していたから、不動産の目利きは確かだった。本業は色々変わったが家転がしは余技。

そもそも彼女には家は一生に一度の買い物とか、終の栖とかの観念が無かった。家族の構成が変わるとか仕事の通勤に便利かどうか価値として上がりそうな家を買い、価値が上がったら売る。気軽に転居して資産として住替えていくもの。

これから発展する土地で人口が増える街ならねらい目。人気の場所でも高くなりすぎた物件は手を出さない。築。古かったり売りにくいから。

アメリカで最初に買った家はタウンハウスだった。バージニアに行っている間にタウンハウスは人に貸し、OCに帰ってご主人のジョンがバーイグザムをパスしたので、今度は内陸に家を探し始めた。

内陸の法律事務所からジョンにオッファーがあったから。OCのタウンハウスは買ったときの2倍の値段で売れて、それを頭金に内陸に一軒家を買った。

モデルハウスってわかるだろうか?デベロッパーが購入者に内覧させるためモデルとして建て公開している家。分譲が終わるとモデルハウスが最後に売り出され、新築なのに相場より安い。まあ、嫌がる人もいるから。ジョンはいずれOCにまた戻るつもりなのでアイ子ちゃんはお買い得のモデルハウスを買った。

経済は上り調子でローンの利率は下がり反対に家の価格は上がっていった。
2007年から2008年には経済は完全バブル化し家の売買は過熱化して、アイ子ちゃんの頭の中で警報が鳴り始めた。バブルはいずれはじける。
2009年には自分で家を売って売買書類の処理はダンナのジョンにやらせた。家は買ったときの2倍近くになっていて、同じ通りの物件の中では最高価格で売り抜けた。

そのあと、リーマンショックで家の価格は3分の2に落ち、住人はローンが払えず、銀行は裁判所にフォークロージャ―の手続きをするのだが、件数が多すぎて裁定まで1年かかるありさま。

アイ子ちゃんはまたOCに引っ越してきてバブルのはじけた後の築浅一軒家を買った。子供が巣立ったらもう一段ランクの高い住宅地に買い移って”あがり”だそうだ。

おばちゃんの住所録のアイ子ちゃんの欄は何行もある。家と家の間にアパートにも住んで住所が何度も変わるので、住所録をキープするのが大変!

ビッグ・ベン と スモール・ベン

おじちゃんの会社と関係が深い企業の社長の名前が「勉」さんといい副社長も偶然「勉」さんだった。
社長は腹回りが巨大だったので「ビッグ・ベン」といい、副社長は「スモール・ベン」というあだ名だった。
陰では大便と小便と呼ぶときもあった。

小便もとい、スモール勉さんは人当たりの柔らかい人で「小便」などと口に出すのが申し訳ないくらいいい人だったけど、偶然ベンさんが重なってしまったので悪気はない。

この小・勉さんは秀才だった。
考えがシュッと走るのが見えるくらい頭のいい人で京大出だった。その奥さんは物静かな人だったけど、実は勉さんなんか問題じゃないくらい天才だった。

お茶の水の出身で、たぶん両親が東大なんか行かせると、縁遠くなるから女子大へ、と思ったのだと思う。なんという資源の浪費。ちゃんと東大に行かせていたら日本のマリー・キュリーが誕生していたのに。

うちの家庭教師の手引きで一度奥さんにお目にかかったが、多分この人は人間関係に苦労したんだろうなというのが感想だった。
一度聞いたこと読んだことは忘れない特殊なメモリーを持っていたのではないかと思う。小・勉さんは秀才の思考が走るのが見えるが、奥さんは、頭が良すぎるのでこちらの理解度がどのレベルかいちいち感がいている。


どういう風にかみ砕くとこちらにぴったりの答えができるか、光速で計算した後におずおずと答えを言ってみて、こちらの理解度を観察したうえでさらに会話をすすめてくるわけで、奥さんと手加減なしに同等に会話を楽しめる人はほとんどいなかったのではないか?

二人の子供を除いて。息子と娘も天才だった。

誰もが、ああ、あの奥さんのお子さんならね。と言うくらいで誰も京大出の小・勉さんの子供だからとは言わなかった。

息子はハイスクールを卒業したら、何の準備もなくいきなり東大に合格した。息子にも特殊なメモリーが引き継がれていたのかもしれない。息子だけ先に日本に帰して今頃はとっくに東大を卒業して世界のどこかの最先端の研究室にいるかもしれない。

娘も天才だった。
勉強というものがおおよそ必要でなかったのではないか。ハイスクールでは常にトップ。だが、天才といって脳の出来は抜群でも対人間スキルに関すると全く別物のようだった。

ギフテッドの子供というのは得てして、友達がいなかったり、人間関係がうまく築けないものらしいが
娘の場合は、へらへら笑うアメリカ人のボーイフレンドがいて、どう見ても彼女の脳みそだけを利用するために引っ付いて
いるとしか思えないのだが、彼女にとっては数少ない友達の一人だったのだろう。

ついでにうちのモールのイラン人のヘアサロンのオーナーの娘もギフテッドだった。
まったく可愛げがない娘で、8歳だったか学校には行ってなくて一日中モールの通路で遊んでいたが、計算がめちゃめちゃ早かった。CPUがインテル10GHzで内部キャッシュが1Gくらいの感じ。

アメリカの物品の値段はセントの位があるから、$12.58とか、$11.89とか。なるべくセントの位を89とかに
して桁を小さめに見えるようにしておくのがコツだが、この娘は、4桁の計算を見ただけでできる。

ウチの値段表を見ながら、これはいらないので引くといくら?とか聞くのだ。


電卓を取り出してパタパタやっているおばちゃんを、不思議そうに眺め、おばちゃんが計算を間違えると、
答えが何セント違っている原因はもしかして何かの関数が入っているのか?
と考え込むような様子があって、おばちゃんはむっとしたものだった。

インテル入ってなくて遅くて悪かったな。

日系人から見た日本人の英語

渡米した年代によって米国に住む日本人の外来語の日本語解像度が違う。

どういうことかというと、米国に住む日本人たちもと日本人たちは、故郷を離れた後に誕生した日本語あるいは翻訳語はもう分からない。戦後渡米したおばあちゃん世代になると、「掃除機」という日本語は覚えきれない。Vacuum Cleanerである。

70年代前半から80年以前の世代はMicrowaveであって「電子レンジ」は何回聞いても忘れてしまう。そもそも掃除機とか電子レンジとか日常生活で日本語で発音する必要がないし。

90年代はコンピューターかな。「パソコン」と発音する在米日本人はいなかった。コンピューターはコンピューターでWindowsかMacかまれにPublicかPersonalの違いを言う時はあるが。

2000年代、
チョコレートのGodivaが日本に紹介されてゴディバとして覚えた日本人世代。渡米してゴダイバと発音されいて驚く。

日本にIkeaオープンしたのは2006年らしい。
IkeaUSAは1985年開業なのでIkeaはアイケアだった。日本に帰国したら、イケアと呼ばれていて「池谷」に聞こえてなんだか変だ。原語には近いのかも。

ごめんなさい。DeNAはディーナとしか読めない。

おばちゃんがOCで日系組織の会報に携わっていたころ。外地に住む日本人コミュニティとして業界別とか出身地別とかさまざまな形の日系組織があり、奨学金をだしたりイベントを組織したり会報を発行していた。

その会報の編集を手伝ったのだが、ドラフトが出来上がるとそれを幹事さんに見せる。幹事さんは日本人以外に2世もいた。

OCの時事記事なので当然地名・固有名詞は英語なのだが、紙面上アルファベットの縦書きでいくか、カタカナで書くか物凄く悩んだ。

アルファベットの縦書きはスペースも取って、すごく読みにくい。もし、名詞が日本語化しているものだったら日本語で書いた。
その時に困るのがL とR、 BとVの書き分け。BとVはカタカナでも書き分けられてもLとRの区別は日本語に存在しないので、目をつぶる。

そうだ、時はちょうどハロウィーンで行事の記事だった。Jack O Lantern ジャック・オ・ランターンとGarage Sale ガレージ・セール2世幹事さんがこの2つのカタカナに引っ掛かった。

2世のテリーさんは日本語も読めるし、しゃべれるのだがカタカナの日本語表記ルールについては詳しくない。そんなものあるとも思っていない。英語の発音を正確に日本語にすべしと思っている。

テリーさんはジャック・オ・ランターン?ジャッコ・ランターンだろう!
ガレージ・セール?だから日本人はダメなんだ。
グラージ・セールと書きなさい。
いつまでたっても英語がうまくならないんだ!

Yes,テリーさん、とおばちゃんはカタカナを直した。なるべく英語の発音に近いカタカナをはめて

様々な英語のなまり

ジョイスに鍛えられたから、おばちゃんは中国訛りの英語の聞き取りには強い。Rの発音がきついメキシコ訛りは聞き取りが難しかった。
Number1をナンベルワンと言われて、Rがル・ラになっちゃうとお手上げ。スペイン語をしゃべるおじちゃんに代わってもらうしかない。

2000年過ぎるとカスタマーサービスにインド系が嫌っというほど増えて、聞き取りに苦労するようになった。
インド系は業務の知識もちゃんとあり、話し方も丁寧だったがやはりRの発音がきついので聞き取りに努力が要った。
ギブアップして、別の人に代わってくれと言ったこともあった。高級エステでもないのに「Madam」と呼びかけられたのは丁寧だっていうのはわかるが、何を言ってるかわからなければしょうがないじゃないか。

ベトナム語に「Z」の音がないとか、ジョイスは「ピッツア」の「っあ」の発音ができないみたいで、いつも「ぴっつうあ」
と意識して発音していた。パキスタン人に言わせると彼の母国語には母音子音が大体そろっているので、
ほかの言語を取得する時に苦労する音が無いのだという。そう言われればイラン人の英語の発音もそれほど聞き取りに苦労はなかったわ。

CNNのスポーツ担当のイギリス女性の英語はひっくり返った。あの人はCNNのジョークなのだろうか?
何をしゃべっているのかさっぱり分からない。フエンとかファンとか、コクニー?

NetFlixでノルウェー製作の「RAGNOROK」を英語の吹き替えで見ると面白い。吹き替えの人も英語のうまいヘタがあって、主人公のお母ちゃんの英語は極端にノルウエー。北欧系の重ったさがあって、どういうわけか
語尾が上がってしまう。

日本の方言でも肯定なのに語尾が上がる地方があって、県民ショウを見た!あれをもっとすごくした感じ。
RAGNOROKのお母ちゃんが何をしゃべっても語尾がたたみこむように常に尻上がりになる。
おばちゃんの頭の中では彼女の英語が東北弁で翻訳される。

腹がたった英語のスピーチがあって、それは何を隠そう帰国してから聞いたToeicテスト用のスピーチだった。イギリス訛りが強すぎませんか?
おばちゃんが聞いたテストのスピーチはどっか文房具会社?の頭の悪そうな営業マンがこんなことを言う:

ねえ、XXの会社の仕入れ担当って誰だっけ?
スジ―?マギー?それとも誰だっけ知ってる?
XX会社の電話番号はどこ。あ~、もしもしXX会社のXXですが、
文房具の仕入れはXXXさんが担当ですか、
私は今回担当で、、、

おばちゃんは聞いてかっと頭に血が上ったね。ちょっと待て!、お前は担当の名前も忘れたのか、
会社の電話番号も分かっていないのか。それで電話をかけてホントに仕事ができるのか?
待てと言ったら待て!
一区切りの会話で人が聞いて覚えられる新規の固有名詞は3つまで。お前は固有名詞をボロボロName Dropしている。

相手に理解してもらおうと思うなら、こんなしゃべり方は最低だ。これは英語のスピーチというより、もっと大事なものを忘れている。

この兄ちゃんはぺらぺらとメリハリもなくどうでもいいことを垂れ流している。

新規固有名詞が沢山あって、短期記憶(短気記憶)が悪くなったおばちゃんは、ついて行けなくて怒ったのであった。
こんな奴はセールスとして失格である。おばちゃんは雇わない。

二世の交渉術 二世いろいろ

2世のトオル君は舌を巻くほど交渉がうまかった。商才もあった。小さ体にリュックを背負っている小学生のころから、同級生に爪楊枝とかコークを売って稼いでいた。「爪楊枝?」

おばちゃんが驚くと、学校だとガムが禁止されているので、んか口に入れる味が付いたものだったら売れるんですよ。ミントの味が付いた爪楊枝があるんです。

コークはね歯を腐らすとか言って大人からは嫌われてるんで、リュックに入るだけ入れて持ってくと、ぬるくても売れるんですねぇ。

こうして稼いだ金をコンピューターや日本のアニメにつぎ込んでいた。トオル君は完ぺきに近いバイリンだったから、長じて大学に入っても、日系の店ではバイトとして喜ばれた。

サンクスギビングの翌日はブラック・フライデーである。今年はどんな目玉商品が出るのか、電気屋や小売り業界の広告が話題になる季節だった。トオル君とつるんでいる日系の子弟は、サンクスギビングのディナーをパスしてどこの店に並ぶか決める。
なにせ目当てのコンピューターやグラフィック・カードが定価の半額とか3分の1になる年に1回のチャンスなのだ。

2世グループは首尾よくBestBuyの先頭近くに並び、イワタニのガスコンロで鍋を食べながら時間をつぶしていた。

すると、ねぇおばちゃん別のグループが近づいてきたんですよ。そいつらは俺たちの順番を買いたといって。
金を出すから順番を譲ってくれと。そいつらも欲しいものがあって、順番が先じゃないと売り切れる心配があるから。

それで俺らは相談して、今全員の順番を売って列の最後尾に並び直しても、先頭からXX番目になって、
俺たちの欲しいものは何とか手に入るかもしれない。だから一人あたり順番はXXドルで売ればもうかる。

売買は無事成立して、アメリカグループも満足2世グループも余剰の小遣いが稼げて満足。
おばちゃんはこの話を聞いて、トオル君にアンタは弁護士が向いているから、今からでも遅くない。
大学のコースを弁護士に変えなさいと言った。

嫌ですよ。俺、日本に行くんですもん。だから大学は最短で最小限の努力で済むように一番簡単なクラスをとってるんですから。トオル君はバイリンのくせに大学で、日本語のクラスを取りまくっていたのである。

おばちゃん、「電車でGo」のクラスがあるんですよ。信じられます?トオル君にとっては遊んでいるようなクラスである。

日本語上級クラスを総なめにしたけど、悲しいかな卒業単位が1クラス分足りないんである。電車にGoの日本人先生に相談したら、お前が取るクラスはもうない。自分で課題を見つけて提出するようにと言われてしまって
頭を抱えていた。

おばちゃんの言うことも聞かず、トオル君は大学を卒業して日本へ行ってしまった。おばちゃんも親の言うことを聞かない人なのでトオル君を責められないが、トオル君!君は弁護士に向いている、日本での人生に疲れたら学校に戻りなさい。

ある日このRobert って誰ですか?よく見るけど。トオル君は伝票を見ながら、おばちゃんに聞いた。

「はぁ?ロバートってボブじゃない。よく来るボブのおじいちゃんだよ」
「なんでロバートがボブなんですか?」
「知らんがな。ボブはロバートの愛称だよ。あんたこの国に生まれて何年育ってんのよ。」
「ボブってロバートの愛称だったんですかぁ!」
「じゃあ、ビルは何の愛称だか言ってみ?」
「ビル?」
「Williamじゃ、ビル・クリントンの正式名称はウイリアム・クリントン」

2世のトオル君は日系社会でも珍しい、完璧バイリンに近かったが、時々ポカっと言語や文化の穴がある。
両親は日本人で親戚はこの国にいないから、生活を通してアメリカの歴史や文化を伝えてくれる親戚身内や
従妹もおじさんもいないから。

トオル君は日本語の発音には全く訛りがない。僕、英語をしゃべるとテキサス出身かって聞かれるんですけど。
テキサス訛りみたいなのがあるらしいです。なんででしょうね?

トオル君のお母さんはトオル君が5つの時に夫婦喧嘩をして、トオル君を連れて日本に逃げた。日本に1年いてカリフォルニアに帰ってきて、元鞘にもどったがトオル君はきれいさっぱり英語を忘れていた。

お母さんから、なんであんた英語を忘れるのよと怒られて幼稚園に戻って英語を思い出した。トオル君の日本語がキレイなのはこの体験のせいかもしれない。

アメリカで生まれて育つと自動的にバイリンガルになると考えたりするかもしれないけれど、大~きな間違いである。

日本語に訛りがないのがまず珍しい。さ・し・す・せ・そ が シャ・シ・シュ・シェ・ショになりやすい。
資生堂がシシェイ堂に聞こえる。可愛いけどね。

のちに面接した2世の男の子はかすかにシャ・シュ・ショだったが、「僕、あんまり日本語は話したくないんです。英語の発音が悪くなるから」ふぅん?

トオル君の友達もシャ・シュ・ショ2世だ。自分達でも発音の自覚があるので、1世の親世代の私たちには
あまり日本語を話したがらない。

アメリカで子供が生まれて外の世界に出るようになるころ、両親も子供も最初の言語のコンフリクトに遭遇する。お母さんが幼稚園に送っていくと子供が親に言う。
「マミー、英語をしゃべって!」自分の親が他と違う言語をしゃべるのが恥ずかしくなるから。
子供が小学生の高学年になると
「マミー、日本語をしゃべって」
自分の親の英語の発音が恥ずかしくなるから。

これらの子供に日本人としての自覚を持たせて日本語と文化を伝えていくのがどれほど難しいことか。日本語学校は土曜日・日曜日にある。親しい友達が週末にキャンプに行ったりフェスティバルに行こうと誘われたりするのに、2世は断って日本語学校に行かねばならない。

日本語で日本の社会だの歴史だのやるのだ。日本語と日本の教育を受けてアメリカでどんなアドバンテージがあるだろう?電車でGoができるとか?


漢字が読めるようになってもそれがどうした?英語でデベートに勝てるわけではない。日本の伝統文化を受け継いだところで、それがどうした。興味を持つアメリカ人はたいていアメリカ社会の主流ではない。


実際アメリカ社会で、日本人であることが有利に働くことは少ない。体格もアジア系で華奢にできていて、スポーツでもレギュラー・メンバーに入ることが難しい。

日本語学校は大抵遠い。子どもを送っていき迎えに行き、親が必死になって土曜日・日曜日を全部つぶしたのに!当の子どもは日本語学校に行くモチベーションも薄れ、日本語をしゃべるのも面倒くさくなる。
お母さんがしゃべりかけても英語で返事をするようになる。

Mammy never mindお母ちゃん、キ~となる。夫婦ふたり働いていて、とても子供のために週末をつぶせない場合、バイリンは絶望的である。

日系社会は日本語と文化の喪失を恐れて、いろんなプログラムを組織してきた。交換で中学生を日本に遊びに行かせる旅行滞在型研修?ブルーなんとか言ったと思う。

知り合いのお嬢さんが選ばれて、1週間日本に行ったのだが、お嬢さんはかすかにシャ・シュ・ショ2世だったから、お母様が日本滞在中は日本語を話すなと彼女に命じた。お嬢さんは言いつけ通り、日本語が分からないふりをして現地の皆様が彼女のことをどう話すかたっぷり聞いた。

最後に空港に送られて、お嬢さんは日本語できちんと挨拶をして機上の人となった。見送り方はポカンと、、。

まぁ、お母様も日本に生まれた日本人であって、故国では英語だけを話す人間を日本人がどのように遇し
日本語が頼りない日本人をどのように軽んじるかよく知っていたから。

変な人 おかしくなっちゃった人

日本で外語のアラビア語を出てアメリカに来たらプログラマーになっちゃったとか、駐在の両親に連れられてきたらハイスクールでいじめられ奮起したらIT会社の副社長になった人とか、

化粧品XXXの販売員で売り上げ日本一だったとか日本でアパレル企業立ち上げて会社を売った後渡米して色んなものを売る超セールス力の持ち主とか、チェーン店でエンパイアを築いた人とか、

順当にUCLAを卒業してIT企業を始めた人とかたたき上げでタクシードライバーをしながらCPAの資格取った人とか、家転がしで資産を築いた人とか

とにかく生きていかねばならないので努力したら自分の知らない才能が花咲いた。いろいろすごい才能を持つ人がいた外地だった。

が、たま~にどうしてこの人がここに?と思う人もいるわけ。
ある時日系スーパーで顔見知りで世間話をしていると、そこにさらに顔見知りAが加わって噂話に花が咲くわけ。そこでAがXXXのYって奴を知ってるか?と話を振りああ、前はLAのXXXに居たよね。あいつはダメだよ、流れ者だから。

A以外は全員????何を言ってんだこいつと思った。LAなら車でたかが50分、何が違う?よそ者と言うほどでなし。それを言うならわしら全員アメリカでよそ者やん。日本からここまで1万キロ流れて来てんの、みんな。
うちらみんな流れ者やんか!アホかいな。

ちなみに
多少頭が悪くてもめげない人、努力する人、勘がいい人、体力がある人
人脈が作れる人、戦うことができる人 は生き残って
酒や薬の問題がある人、体が弱い人、自我が弱い人、戦いから逃げる人
人を当てにする人、家族に問題がある人は日本に帰った。

おかしくなっちゃった人

おかしい人じゃなくて、おかしくなっちゃった人。海外生活のプレッシャーに負けておかしくなっちゃう人は一定の割合で発生するね。一番悲劇的だったのは駐在員の奥様が子供を橋の下に投げて自分も身を投げるつもりができずに逮捕されちゃった例。ご主人の勤める会社が火消しにまわったのか会社の名前が出ることなく奥様の噂だけが駆け回っていた。

駐在の奥様が外国になじめず家から出られなくなっちゃう場合はたまにあるので、その時に日本に帰国させてそれ以上壊れてしまう事は無いのだろうが、ご主人の方がいっぱいいっぱいで奥様まで手が回らずに手遅れになってしまうこともたまにある。

ご主人が慣れない環境と激務でおかしくなるのもよくある。毎月の給与明細に退職金は$XXXXと書かれている例の一流商社では気が狂っちゃう人もよくいるらしい。

その会社のメキシコ駐在カップルが休暇でOCに来てたらしい。メキシコではインフラに問題があることも多くて、バケーションで米国に骨休めに来させることがあった。

日本レストランに勤めていた知り合いのマコちゃんの話によると、ご主人が要注意だったそうだ。米国支社の先輩に慰労されていたらしかった。テーブルではにこやかに談笑していてどこから見てもエリート商社マンだが、
レストランの手洗いで狂うのだという。

手洗いの備え付け紙タオルを山ほど引っ張り出し床と洗面台にまき散らす。トイレットペーパーも引き出して床に丸めて捨て、明らかに後から踏みにじった跡があるのだという。マコちゃんはお手洗いの滞在時間が長いので気になって男性が出た後にチェックしに行って発見した。

これが初めてではなくて二回目なので、お客で来店してきた時から目を離さないようにしていたそうだ。人前では正常に見えるのだが一歩人目がつかない場所で誤作動を起こしているような場合、いずれどこかで異常が発覚したかもしれない。

頭のおかしいトルコ人。
この人は一時期日本のバラエティ番組に出演していたらしい。日本人にちやほやされたことが忘れられず、日系のスーパーや日系の店舗に出没しては不信をかっていた。

銀色のアタッシュケースを持ち歩き、人がいる場所でケースを開け、中の大小の葉巻にしゃべりかけていたとか、携帯が珍しい時代に携帯電話を持ち歩き、人込みで立ち止まって日本語で会話するフリをしていた、とか。

どう考えても携帯電話が繋がっていないのが分かるのだという。日本人だと分かるとすり寄って行って話しかけ、自分は日本料理が好きだ、鰻の刺身を食べられるレストランを知らないか?とか日本好きをアピールするのだという。トルコ系のコミュニティで保護していればいいのだが、。

テリーさんと外地の日本男児

テリーさんは日本生まれ日本育ちだったが20歳になるかならない年で渡米して、結婚したカミさんがアメリカ人だったから40年も経つ間に、日本語を忘れてしまった。

日本語のヒアリングはある程度できるのだが、書くのと読むのはもう不可能になっている。英語しかしゃべらない。
おばちゃんが雇われたのは、日本企業へのマーケティングと日本からくるEmailの問い合わせをテリーさんに翻訳すること。仕事の中身は退屈でつまんなかったから割愛するけど。

テリーさんの結婚は子供が全員成人したところで終結してでっかいアメリカ人の奥さんと離婚した。子供は全員男でフットボール選手かと思うほどのサイズ。テリーさんは165センチそこそこなのに。

このテリーさん、離婚してから正反対の趣味に走った。つき合う女の子は小さくて、華奢で女らしい娘。
アメリカ人女でなければ誰でもいい。その気持ちは分からないでもないが。

独身生活を謳歌していたテリーさんに、女の子は必ず質問を突き付けてくるのだという。

いいか、必ず一年経ったら皆聞いてくるんだ。”ねぇ、私たちはどこを目指してるの?
この先どうするの?”

何故それを聞く?テリーさんは人生を楽しんでいるので質問の意味が分からない。それで、一年後には女の子にみんな逃げられてバケーション先で引っかけた女の子が残った。

”妊娠させちゃって” ついでに ”てへっ”って付けたいほど。61歳のテリーさん20歳のメキシカン娘を妊娠させて、誇らしいのが半分、崖っぷちに追い詰められてるのが半分。

カトリックのメキシカンだから無論堕胎なんて選択はない。
ショットガンを持った親と兄弟が出てきたわけではなかったが産む!と言い張る20歳の娘に降参して、正式に結婚することになった。

ただ娘はアメリカに住むのを拒否した。嫌!アメリカ人はメキシカンを馬鹿にしているからアメリカには住まないわ!
テリーさんはしょうがなくボーダーの南に家を一軒買った。彼はサンディエゴに住んで、週末は国境を越えてメキシコに61歳通い婿。

40歳近い息子たちは大困惑である。
ステップ・マザーが自分のカミさんより若い。自分の子供より小さい腹違いの弟か妹が、これから生まれて来るんである。

テリーさんは遺言書も書き換えメキシコ娘と結婚して、子供を産ませて家もくれてやるつもりのようだ。1年たったらどうなるか分からないけれど。

外地の日本男児

テリーさんのほかにもおばちゃんはいろんな日本人男児を見た。ちらっと見たその男たちの結婚と食の人生を書いてみる。

行きつけの日本食レストランで夕ご飯を食べていると、カウンターに座った日本のおっさんがやけに目を引いた。お盆にのった定食を食べているようだ。一口食べるごとに天井を仰ぎ、肩を震わせお椀の味噌汁を飲んでう~とかあ~とかウルサイ。
食べ終わるとカウンターの中の板前さんに1週間ぶりにまともなご飯を食べたんですぅ、とかおっさんの嘆きが聞こえた。

多分単独の出張か、家族に先行して赴任してきたのだろう。スーパーでサンドイッチとかパックされた空揚げとか冷凍のピザ、ファーストフードのテイクアウトで凌いできたのかも。
35歳過ぎに単身で渡米すると、米と醤油と魚が無くては1週間でパニックになってしまう日本男児。

おじちゃんの会社の同僚にはコリアン嫁と結婚した日本男児がいて一緒にランチに行くと、ああ、白いご飯だ!とお茶碗のごはんをむさぼり食べるという。

聞いてください、ウチの嫁はコリアンで健康にいいのよと米に五穀を入れるんです。
黒い豆とか麦とかひえとかモソモソしてうまくないんですぅ。白いごはんが食べられるのは、お昼だけ。オイオイ。おかずについては何とかイケるらしい。

トムさんが結婚したのはクロアチア人で大学の時のクラスメートだった。
自宅に日本食は存在しない。
でもこの人の賢いところは、日本スーパーのそばにオフィスを借りたところだ。ランチは日本のお弁当を選び放題。アンパンでも和菓子でも徒歩2分で好きなだけ買える。

歯科医のBさんはアメリカ人の奥さんに首ったけ。ブロンドですごく可愛い奥さん。一言目にはウチのマリリンがマリリンがとデレデレ。
マリリンが作るなら冷凍のピザでも缶詰のスープでも美味に違いない。

不思議と日本男児と結婚するアメリカ女性は、夫に一歩下がって従うような古風なタイプが多い。
どこでそんなアメリカ人女性を見つけてこられるのか、なんか古風な娘を探す特殊なセンサーでもあるのか?それとも彼女らをひきつける磁石でも持っているのか?

コミュニティ新聞のRさんの奥さんもアメリカ人で外食はいつも日本料理だったので、奥さんの方が日本化していたのかも。常に夫をたてている感じ。二人並んで座っていると、亭主関白という言葉が浮かんでくるのが常だった。

Kさんは2世のコリアンと結婚して食生活はアメリカン。ただ、Kさん本人は元は板前さんだったそうで、日本食が食べたくなれば自分で作って奥さんと子供に食べさせる方だという。
う~ん、女としてあらまほしき夫はKさんかな。

日本人社会の狭さ

売り手のミカコとエージェントのタカコに買い手のおばちゃんで女ばっかり3人そろって売買のエスクローはそろそろクローズしようとしていた。

9月にタカコに呼び出されてファイナル・ドキュメントにサインする時になって、おばちゃんの姓名を改めて書面で読んでタカコが突然「xxxx姓」ってご主人はxxxにお勤めでした?と聞いた。

おばちゃんは、そうですが、言うと、タカコが、ウチの主人もxxxに勤めていましたと。
おば:えっ!? まさか。主人がよく話していた同僚のXXXさん?
タカコ:私の主人がXXXです。
なんと、まぁ。二人の旦那は半年前まで同僚だったと。
エスクローがクローズする今まで知らなかったと。これが外地の日本人社会の怖いとこである。

知り合った知人のルームメイトが、ウチで働いている子だったり。よく寄るお店の売り子が古い知り合いの娘さんだったり、。もぅ、どこが繋がっているのか怖ろしいのである。

従業員の面接をするときは、働いた会社を聞いて知り合いの名前を20人もあげてもらえば、どこらへんのつながりがあるか、わかってしまうのである。

外地だから同じ日本人同士助け合って、仲良く、、、いかない場合もある。会社の同僚なのに、嫌い合っているとか。パーティーでは参加者を聞き出して、あいつが来るなら絶対いかないとか、。

一番絶望的だったのは、Plaintif(訴人)とDefendant(原告)が同じ場所で訴人側の弁護士と一緒にバッティングしてしまったのである。裁判所でもないのに。

ちょっと違うケースだが、知人は夏休みに家族でニューヨークに遊びに行き、エンパイアステートビルの一階で肩をたたかれ、振り向いたらお家の隣の家族に会ったという。

私がもう一人の親友アイ子ちゃんと知り合ったのは、オンラインの掲示板。
その時彼女はウエストバージニアから書き込みをしていた。彼女の夫が学校を卒業してカリフォルニアに帰ると言うので、カリフォルニアのどの辺と聞いたところウチから車で5分だった。

ローカル・フリーペーパーの笑い話の投稿に、掲示板で知り合った人とOffで会いましょうと待ち合わせをして顔を合わせたら、いつも行く寿司屋の板前さんだったという笑えない笑い話があった。

売り手のタカコはどうなったかと言うと、サンディエゴからさらに別の州に引っ越した。後々おばちゃんが日本帰国を報告すると、なんと伊豆に家を買っていた。
それも、おばちゃんが今いる山を一つ越したところで車でわずか30分だ。お互い伊豆には地縁も他縁も何もない。

留学生あるある 恋愛と永住権

おばちゃんはこれから世界に羽ばたこうとしている若者の夢を壊すつもりもなければ、勇気をくじく意図があるわけでもない。どちらかと言えば、おばちゃんのこのブログを読んで異国の地で墜落や沈没せぬよう励ましのつもりである。

日本の最新ファッションはOCでもわかる。日系スーパーに行くと、その時々の日本の最新ファッションに身を包んだ留学生がいるからだ。ある時はみんなチロル帽みたいな帽子をかぶり、リュックを背負って底が厚い靴を履いた女の子が見られた。
ある時はショーツに黒いタイツでつま先をㇵの字して唇を突き出した女の子がいた。
元々曲がった足をㇵの字にすると、さらに姿勢は悪くなってただでさえ見苦しいスタイルがますます醜い。

この国では、小っちゃくて可愛い女の子を喜ぶひ弱でオタクな男はいない。いやん、と身をよじって上目づかいでシナを作っても、寄ってくるのは同じくスタイルの悪い日焼けでくすんだ駐在員だ。

なんだか勝手が違うから、ひらひらのスカートをやめ染めた髪も褪めるままに、化粧も変わり意思表示をはっきりし、気が強くなって現地化してゆく。

留学生は、語学学校からカレッジさらにユニバーシティとトランスファーしていかねばならない。現地の語学学校は最初こそ目新しいが、やっていることと言えば日本でもやった文法やイデオムであったりするから、ダレてきて休む。

休んでも学校は何も言わないからバイトに精を出したりする。学校としては、全生徒が出席するととても教室が足りないので、
適当に休んでくれた方がありがたい。留学生ビザをキープするためには語学学校に所属し、学校が発行するI-20に金を払わねばならない。留学生は大切なお客さんなのである。

志高く目的をもって来た留学生ばかりではない。おばちゃんが聞いた一番情けない例はバイトも見つからず部屋を追い出され、語学学校に泣きついて(経営者も日本人だったから無下にできなかったのかも。)

学校が経営する他分野のビジネスに留学生を雇った。食べさせて住まわせて働かせて給料はなし。何のことはない、無料の従業員を飼っているようなものだ。異国で生活していく最低限の才覚がない留学生なら、おばちゃん、「日本へケエレ」と思う。

日系人の家に間借りして、禁止されているのにボーイフレンドを連れ込んで追い出されたり、夏休みにルームシェアの仲間が一人帰り家賃増加分がなくて貸してクレクレ

DUIで捕まって違反記録を消すのに弁護士費用がなくてクレクレ交通違反でポリスに止められ、文句を言ったらペッパースプレーを掛けられた、、、あるある。

めでたく語学学校を出て多少英語に自信が付きとりあえずカレッジに入る。留学生の授業料は、アメリカ人の7~8倍に設定されている。クラスによっても授業料に違いがある。年間の必要ユニットを取得するには何クラス取ればよいか?自分のゴールを達成するための最短最低費用のクラスはどれだ。自分の懐具合と、カリキュラムをにらめっこである。

おばちゃん、麻雀はやったことがないが、上がりにはいろんな「手」があるそうね。上がるだけを目的にして、安い牌だけ集めても大した報酬になるわけではないそうな。

当たり前だけど、自分の後半生がこのクラスに左右されるわけだから何の手で上がるか考えようよ。誰もが取れるCommnicationの手は安いよ。

恋愛と永住権

おばちゃんは、金髪に惚れるなと若い子に教えていたが、アメリカ人と結婚して永住権(グリーンカード)を取ったとしても
グリーンカードはアメリカで安住して暮らしていけるパスポートではない、と繰り返し言った。

ビザしか持っていない間は、安心して滞在できて仕事を選べる永住権が欲しくてたまらないが、永住権を手に入れたとしても、永住権が食と職を保証してくれるわけではないのである。

手に職をつけること、スキルを身につけること。看護婦は職が安定しているし、会計士も固い。文章能力が高いならパラリーガルもねらい目だ。

結婚することと、自分の能力を磨いてスキルをつけキャリアを積むことは別物だ。
結婚したからといって、スキルもいらない日銭を稼げるだけの仕事になぜ流れるのだろう?誰でもができる仕事はすぐ見つかるが、すぐに無くなる仕事でもある。

リーマンショックで一番先に夜逃げしたのは、ネイルサロンだった。たった1か月のネイル・スクールで身に付けられる技術で一生食っていけると思うのがおかしい。

あなたが仕事を首になっても家や車のローンを助けてくれる親や親族はこの国に誰もいないのだ。学校に戻れるうちに戻れ、と。

元号が覚えられない カタカナが怖い

LAの総領事館のオフィスがまだ下方の階で、広くって超高学歴・完璧バイリン”風”の窓口の大使館員おばさんがいたころ、もっと偉そうでつっけんどんだったころ。
窓口には、戦争後に来たんじゃないかという、日本人のお婆様が申請フォームを手に、もう日本語なんか書けないし、言葉も色々忘れちゃってるから、バイリン風窓口のおばさん大使館員が、くどいくらいあれこれ日米両言語で問いただしてた。

窓口の上方の壁には横1メートル・縦50センチくらいのでっかいサインボードがあって、老眼鏡も絶対必要ないだろうという大きさで
「今年は平成 X 年です」と書いてあった。
まぁ私も見たときは ああ、もう X年なんだと思うのだが、次に領事館に来るときは当然ながら年が変わっているわけで、ああ、X年なんだ。とまた思うわけ。

日常生活で日本の年号を目にすることもないし、ネットはまだ黎明期で、Yahoo!か朝日新聞がようやく稼働を始めたかという時期だったから。日本は今、年号で何年になるのかさっぱり覚えられなかった。

渡米した日本人に共通していることだけど、渡米すると自分の中の日本の時が止まる。記憶の中の日本は昭和 X年、あるいは平成 X年なんだね。その代わり、渡米してからの経過年数は絶対忘れない。
自分の年を忘れても、アメリカに来てからの年は忘れない。死んだ子の年を数えるみたいに。

私も当時の窓口の婆様になりかかったころに日本に帰国してきたから、当然平成年号が記憶できていない。おばちゃん、平成が何年で終わったかも覚えてないから西暦でしか生活できない。
でも、年齢を引き算するには西暦の方が絶対便利よ?


実をいうと、日本語が書けない。
コンピューターのキーボードがないと書けない。手書きで書けるのは自分の名前と住所。これは帰国してから練習した。だって、アメリカでは日本語を書く必要がなかったから。

領事館で証明書類を申請するときくらいで、電話債権を売るのに在留証明を取らないといけなかった。その在留証明にはなぜ在留証明をとりますか、理由を書け、とかあった。

なぜ理由を聞く?。
と思いながら債権?そんな漢字が書けるわけもなく、こんなところで日本語を書かせるのがまず間違ってると、ぷんぷん怒りながらひらがなで理由を書いた。

仕事中に書くメモも日本語だったわけではない。頭が半部英語モードで動いていると日本語に切り替えるのがすごくつらい。
あの、ひらがなというやつが曲者だった。一番困るのは「な」「ね」「の」「ぬ」
止めのところがどちらかにくるっと曲がるのがどっちだったか?右か?左か?自信がない。「な」ってこっちに曲がるんだっけ?と従業員に聞いても、ん~ん、そのように見えますが、彼女だって自信がないのだ。

アルファベットだと文字数はたった26文字で全部書けるのにね。それにというものは何十年もやっていないと、書き方も忘れてしまうのだ。

ひらがなも困るが、カタカナは嫌いだ。
渡米する際には日本から文豪ワープロとインクリボンを持って行った。当時のアメリカでは日本語を書けるコンピューターがなかった。Windows 3.1では日本語が書けず、印刷するプリンターもなかった。Windows95が発売されてやっと日本語が書けるようになった。

キーボードがあれば日本語メールを書くのに不自由はなかったので、買い物メモもToDo Listも日本語である必要がなかった。
ジャガイモはPotatoって書けばカタカナより早いし。周りの日本人はみんなそうだったからね。中国人のサマンサだってジョイスだって、漢字は書けないって言っていた。日本語のニュースはネットや書物で読んでいたから、読む能力は衰えていなかったが。

何年かに一度、親戚友人などがやってくるとディズニーランドへ案内した。親戚・知人は日本語の園内地図を選びおばちゃんは英語を選んだ。カタカナが読めないから。

おばちゃんは、カタカナしか書いてないMapを見るとパニックになってしまう。「ウエスタンランド」というカタカナの音がWestern Landだということを変換するのに時間がかかるから。すごくつらい。

日本語のつづり(カタカナ)は英語の音をあらわしていない。
ラリルレロの綴りは 「L」か「R」かバビブベボは 「B」か「V」か「th」はどうするか?だから頭がフリーズして日本語への変換を拒否していたのだ。

日本で一番の恐怖の場所はDVDや音楽CD売り場。
頭痛と吐き気が止まらない。パッケージのラベルがカタカナ表記で、さらに日本語語順 ア イ ウ エ オでカテゴライズされてたから。Tayler Swiftが「」行にあるんだよ?

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