海外在住何十年の後、伊豆の山に惹かれて古い家を買ってしまい、 埋もれていた庭を掘り起こして、還暦の素人が庭を造りながら語る 60年の発酵した経験と人生。

パンツの話

米国で暮らして衣類で困ったことは、下着だった。パンツがでかすぎる。

おばちゃんの身長はアメリカでも中の上で不自由しなかったが、お尻はアメリカ人の広大なヒップには及びもつかない。黒人のおばちゃんなど、腰のくびれはしっかりあって横にもさらに”後ろ”にも張り出していて、まっすぐ立っていても腰の後ろにテラスができて缶コークの一本でも置けそうである。

90年代の初頭は小さなアジア系が少なかったので、下着もSサイズは見つけるのに苦労した。
困って子供用を試してみたことがあるが、おしりの頬っぺたはよいのだが、ウエスト部分が狭すぎた。

子供サイズと広大な大人サイズの中間がない。日本人の先人に聞くと、アメリカ人の女の子は子供だと思っていても、ある日突然大人の体サイズになるのだという。本当かぁ?

本当でもウソでも、中間のティーンサイズはなかった。おばちゃんはポンと手を打ち、そうだアジア系が多いリトルサイゴンでも覗けばちょうどいいサイズがあるのではないか?

おばちゃんはリトルサイゴンまで遠征し、香港製のパンツを発見したのであったが、10年ほど倉庫で寝ていたのではあるまいかと疑うほど古臭いデザインで、「下ばき」とでも言いたい代物であった。

燃えよドラゴンに出てくる中国人娘が身に着けていてそうなパンツ。その後、時勢にそってビクトリアン・シークレットがアジアサイズを売るようになったので、不自由はなくなった。

日本に帰国してからは、下着ではないボトムのパンツに不自由している。おばちゃん、足が長いのですべてのボトムがちんちくりんである。

トールサイズのお店に行けば?といわれたが周囲50キロにはたぶんトールサイズ店舗はない。面倒くさいのでおばちゃんは、オンラインでアメリカ人サイズのボトムをオーダーしている。

駐在員の奥様会

ああ、怖ろしい。
おばちゃんは禁断の領域に踏み込んでしまうのかしら。伏字だらけになりそう。

おじちゃんの会社は商社でもなく独身社員とローカル社員だったので、もちろん奥様会などという怖ろしいものはなかった。

駐在員は長くても7年ほどで帰国するから、おばちゃんが永住権を取って一回りすると交友関係は同じ永住権者とローカルが中心になった。

友達のアイ子さんは駐在奥様に人気のお習い事を教えていた関係で、駐在の奥様たちと交友があった。日本を代表する一流企業の駐在員の奥様は何年かに一回奥様会を催すのだった。

アイ子さんはその中の一人、知り合いの奥様からどうしたらいいかしらと泣きつかれて困っていた。親睦を深めるため奥様会が今度あるのだが、その席で当然ながら自己紹介をせねばならない。It sounds normal. それで?と思うのだが

この自己紹介が大変なのだという。
自分のざっとした履歴:上の人の奥様より華々しいと大変!どのように”抑え”て紹介するか、会社の社員であるご主人とのなれそめエピソード!つまんないエピソードでは受けが悪い。

かといってロマンチック過ぎると”上の方”の妬みを買うかもしれない。つまらなすぎず華々し過ぎず、適度にユーモアを散らして自分の地位=ダンナの役職にふさわしい自己紹介を考えないといけないらしい。

服装バッグも上の人を超えてはいけない。アイ子さん、どうしたらいいでしょう?どんなエピソードを話したらいいのかしら。まるっきりのウソではバレるわよね?

かつての□コ□奥様会は、上座から下座まで地位順に席が作ってあったのだが、さすがに対外に聞こえが悪いと反省したのか、近年は席を決めるのにくじを引くそうだ。途中に軽いゲームを行って、さらに席替えをするのだそうだ。

ある情報によると、XXXの奥様会は集合時に席に座っていらっしゃった奥様は会社の上様のお局で、他の出席者が誰一人手を付けられないお茶と茶菓子をおひとりだけ悠々と召し上がっておられたそうである。

お局様は”卒業式から結婚式”とご自分の経歴を披露なさり、社会生活に穢れることなく、ひたすらご主人と会社のために尽くしてこられたことがご自慢であられたそうな。21世紀の時代に?!いくら席をシャッフルしようとも、”お局様”がどなたかは一目瞭然だったという。

○○○の場合はもう少し小規模の会社で割と皆さん庶民派で和気あいあいだったらしい。

X菱の場合は、超一流にも関わらず奥様会が無かった。
元社員の本人から聞いたが、かつてX菱奥様会でバトルがあったのだそうだ。奥様同士がご主人を巻き込んで会社を2分するような紛争が起きたそうで、以来ではX菱奥様会はご法度らしい。

深田祐介は奥様会や駐妻生活はあまり書かなかったけど、一流商社の△△△△の奥様によれば、ダンナは仕事・仕事・夜討ち・朝駆け・出張・出張で子供を抱えていて学校関係の手続きも自分でやり病気でも引っ越しでもダンナはあてにできず母子家庭と同じ環境なの!とこぼした。

商社マンの勤務は激務で、重圧のあまり同僚で気が狂う人も珍しくないのだ、とおっしゃっていた。△△△△の毎月の給与明細には、支給額の他に今月退職するとしたらあなたの退職金=金額が記載されているのだという。

日本に帰国したときに日本の教育に遅れないように日本語学校の宿題も付きっ切りになって奥様が教えていた。

ダンナは一流商社で働いていて頭がいいのは証明済みなので、子供の出来が悪ければ奥様の出来が悪いことになってしまう。奥様だって想像もできないほどの重圧にさらされていて無論壊れてしまう方もいる。アパートのドアから一歩も出られないようになって、こうなると日本に送り返すしかない。

奥様会ほどの大げさなものではなくても駐妻持ち回りのお茶会があって、今週はこの方、次はこの方とめぐっていく会社もあった。会社は奥方を現地の文化や学校で自分磨きをさせるために派遣したのではないので、現地交流禁止などとオフレを配布する会社もあった。

会社を一歩外に出ればただの知り合い、会社と配偶者は無関係といかないのが日本社会のややこしい文化であった。(アメリカでもあるが日本ほど支配が濃密でもない)

ベジタリアン色々

ジャイナ教のクラスメイトがいた。英作文のクラスで隣になったのがジャイナ教のおばさん。小太り。

おじちゃんはインド料理とナンが大好き。その当時はスーパーでナンは売っていなかったからジャイナ教のおばさんに聞いてみた。やっぱりナンはタンドーリじゃないと焼くのは無理なの?

いや、フライパンでもできるよ。っうことでレシピを教えてもらった。粉を練って適当に伸ばして、フライパンで焼くだけ。
仕上げにバターを塗って砂糖を掛ける。いや、それは何か別な料理ではあるまいか?

会話の過程でおばさんはジャイナ教でベジタリアンだと分かった。バターとタマゴとミルクはOK。肉や魚が無くて平気?と聞くと人間は命を奪わなくても植物性の物だけで十分生きていけるのよ、と言われた。それで、ナンにバターと砂糖なのかな。
大量のデンプン質とバターと砂糖で小太りのおばさんができてる?

その後いろんな段階のベジタリアンを知った。白人で「鮭」は食べるベジタリアン。魚は肉じゃないらしい。仏教のベジタリアン。ほぼヴィーガンだった。ヴィーガンになっちゃったアイ子ちゃんの息子。焼き鳥が好きな子だったのに、キノコなんかぐにゅぐにゅしてて気持ち悪いって言ってたのに。ヴィーガンになってモリモリ野菜を食べてる。

さらに強烈になるとカーボン抜きを主張する人。レストランに勤めてるマコちゃんが言うには、白人のベジタリアンのおばさんが「ご飯抜きのスシ」を作れとごねて困ったという。サラダを食べてればいいやん、とマコちゃんは思うのだが、

白人ベジタリアンがサラダはサラダ。スシが食べたい、ただしご飯はいらない。ロールの中身だけ海苔で巻けばいいの?
ベシャベシャになるやん。そしたら、ソイペーパーは無いか?ソイペーパーで巻けと。

日本の皆様はきっと頭をかしげるだろうけど、黒い色と生臭い匂い海苔が嫌いという人がいる。
日本の食品会社さんも大弱りだったろうが、海苔の代わりにソイ(大豆)ペーパーという海苔の代用品を発明してしまった。

段ボールをつぶして春巻き並みに薄くしたみたいな色と匂い。おばちゃんはキライ。そのソイペーパーでスシの中身を巻けと。日本食レストランは顧客のわがままに振り回されて大変!
キュウリとアボカドをかじってればいいやん!とおばちゃんは思ったりする。

脳外科医が救急車に乗る

アメリカ人はすべて確定申告をしているという事実はあまり知られていないかもしれない。
年が明け2月が始まるとそろそろ所得税の申告時期だ。
おじちゃんは勤めていた会社が使っている同じ会計事務所に申告書類を作ってもらっていた。
だって、会社の従業員の給与業務を請け負っていた会計事務所なので、所得の資料は全部持っているわけだったし。

3年目にうっかりして一部の書類を会計事務所に送るのを忘れた。申告書類が届かないのでどうしたわけかおばちゃんが会計事務所に問い合わせ、ついでに早くしてねと催促してしまって、そうしたら会計事務所は完成した申告書類を送ってきてそこに手紙が同封しあった。

その手紙には:
給与所得だけのあなたの申告書を作成するのはわが事務所にとってはBrain Surgeon脳外科医が ambulance救急車に乗っているようなものだ。能力の無駄遣いなので、来年は別の会計事務所に行ってね?と書いてあった。おばちゃんは大いに不快になり、どうせウチはまともに控除も無い給与所得者よと拗ねた。

国民全員が申告するわけだから、安い申告サービスも沢山あった。どの町にも支店があるチェーンの申告サービスなどは30ドルくらいで出来る場合もあって、知らなかったとはいえ脳外科医に風邪ひき程度の治療をそれなりの料金でお願いしてたわけだから、まぁ、件の会計事務所の言い分も一理も二理もあるわけ。チェーン申告サービスはシーズン中は混んでいて予約が取りにくい。すぐそばにあってガスステーション並みに気軽なので何年かご厄介になった。

後に起業して、事業の申告をするときに紹介されたのは元IRS(税務署員)だった。
この会計士を使うようになって知ったことは、例のチェーン・申告サービスは一番間違いが多く、税務署からAudit(監査)を掛けられる数もダントツに多いのだと知ってまたびっくり。

彼女によると、税務署が一番目をつけるのは、ホーム・オフィス小企業。自宅をオフィスにして会社の経費として自宅のローンの半分とか3分の1などを会社の経費として申告している場合は、一番レッドフラグが立つのだという。

アメリカに会計士・税理士に関するジョークがある。

小学生:1足す1は? 2です。
大学生:1足す1は?  2です。
会計士:1足す1は?
    手をモミながら、いくつにしたいですか?

ウチの会計士は税務署員上がりなので、決算数字が税務署の注意を引かないように申告できますと言った。「監査保険」をつけてさらに50ドル料金を支払うなら実際監査が入った場合におばちゃんを煩わせることなく会計士がすべて税務署に対応することになっていた。おばちゃんは一度も監査に入られることなく幸せだったが、料金は脳外科医会計士の5倍以上だった。

ニコチンパッチで死にかける

おばちゃんはアメリカで2回死にかかった。
一回目はメタボリック・アシドーシスになった時。2回目はタバコで。

1回目の時、事件の遠い原因だったアルコールはすっぱりやめた。外国でシラフで生きていくのも大変なのに、酔っぱらいながら生き延びられない。だからやめた。

2回目のタバコはちょっと違う。おばちゃんはニコチン中毒という状態に倦んでいた。体も部屋も臭くなり、歯はシミがついて汚い。タバコを切らすのが不安。切れないように在庫を確保しておく。

そういう状態自体がなんかストレス。タバコを止められるなら、やめてみたい。そんな時ニコチンパッチが保険適用になった。

おばちゃんはその時のかかりつけのドクターに行って、ニコチンパッチの処方を頼んだ。
ドクターは処方量を決めるために、おばちゃんにどのくらいタバコを吸うのか聞いた。正直に2箱吸います、と申告した。

夫婦二人で吸うので、おばちゃんたちはスオッチ時計を男女用それぞれ。マルボロの電源付きキャンプ用クーラーボックス大。マルボロの寝袋3袋、おじちゃん用のマルボロキャップ。マルボロのリバーシブルジャケット男用。セブンスターの目覚まし時計など、2人のタバコの空き箱で様々なグッズが
集まってしまうのだった。

ほう?一日2箱も?それは量が多いですね。
XXXミリのパッチかな。

おばちゃんは薬局でニコチンパッチを受け取るとずっしり重かった。サロンパスを円形にして1.3倍くらいの大きさにしたものと思ってくりゃい。うゎー婆さんの膏薬かい。見えないように貼ろう。

寝る前に最後の一服を吸い、灰皿とライターを処分して休んだ。朝起きると枕もとのタバコの代わりに置いたニコチンパッチの最初の一枚を取り、肩に貼った。頑張ってくれよ~と肩をモミモミした。

おじちゃんを仕事場に送り届けてアパートに帰る途中。突然、尾底骨から何かが脊椎を駆け上がり脳で爆発した!同時に心拍が160くらいになり、視野が外側から欠け始めて
中心の30センチくらいしか見えなくなった。後は真っ暗である。

道路は幹線道路で3車線あるうちの真ん中レーンを60マイルで走っていて、前後左右側には同じく車が走っている。息が苦しくて前がよく見えない。ハンドル操作を間違えればどこかにぶつかる。
不運なことに一番右端のレーンはフリーウエイの登り口で右脇道に入れない。
フリーウエイの入口が過ぎたら車線を右に変更して交通量の少ない脇道へ入ろう。

ニコチンパッチのせいだと直感で分かった。貼ったままにしておけば心不全で死ぬか道路で爆死するだろう。ハンドルにへばりついた右手を離して、シャツの首から手を突っ込み
左肩からパッチをむしり取った。もし腰に貼っていたらおばちゃんは間違いなく死んでいた。
運転席に座った状態でぴったりしたジーンズの下に手を入れるのは難しい。

パッチを捨てても視野は戻らなかった。心拍も早すぎて呼吸が難しい。その状態で右レーンに移り
次の信号で右に曲がった。アパートまではとても持たない。手前のショッピングモールに入りパーキングで止めた。目が見えずハンドルに突っ伏した。

時間はわからない。ようやく視野が戻ってきて目の前には公衆電話があった。25セントを探してよろよろ車を降り、エマージェンシーだとドクターに電話をした。

ドクターにどうしたらよいでしょうと聞くと、ドクターも動転している。クリニックに来てください、というが、そんなことは無理だ。救急車を呼んだ方がいいですか?

ドクターは嬉しくないようだ。タクシーは呼べませんか?
いまこの状態でタクシー会社を調べ電話してこの場所を説明するのはムリだ。もうしばらく休んでアパートに辿り着き、ドクターに電話をかけてもらってアパートにタクシーを派遣してもらった。

どう考えてもニコチンのオーバードースだった。
おばちゃんは診療ベッドに横たわって点滴を射たれながら、赤んぼがタバコを1本食べれば死ぬし、
成人のニコチンの致死量ってどんだけなんだろうか?膏薬みたいなパッチは一体何グラムのニコチンが含まれているのか、とかこの治療費は払えないか、とか つれづれに考えた。

おば:ドクターにどうしたんでしょうね?
ニコチンが多すぎたように思いますが。
医者:でも、あなたは1日2箱吸うヘビースモーカーですよね?
   最強のパッチを処方しました。
おば:はぁ、確かに2箱吸いますが、
   マルボロはマルボロでも「ライト」を吸ってます。
医者:「ライト」って何ですか?知りません。
    僕タバコを吸わないですから。」語尾が裏返っていた。

おばちゃんは、もう消耗しすぎて「どっひぁ~ん!」とも言えなかった。

おじちゃん 免許を取る

おばちゃんは車が必須の地方都市で生まれて免許は18の時からある。一方おじちゃんは東京でずっと働いていたから免許を持っていなかった。
日本で結婚をした当時からおばちゃんは運転手。カリフォルニアに移住しても運転手。

公共機関が発達しているニューヨークとか都市部を除いてカリフォルニアで運転免許を持っていないということは、移動の自由と移動の能力がない。扶養家族の子供と同じような存在になってしまう。

家と職場、学校、習い事、スーパーですら歩いて行ける距離でないことが多い。就学中の子供が2人いるアメリカの平均的なママは一年間に2万5千マイル運転距離があるという。

子供が自分で運転してくれるようになるのは楽になる反面事故を起こしゃしないかと気が休まらない時期でもある。

おばちゃんだって体調が悪いときはある。この国で生きていく限り免許は不可欠なことは分かっていたが解決を先延ばしにしていたのだね。そろそろ言い訳ができなくなった2003年、おじちゃんに免許を取ってもらうことにした。

ペーパーテストは日本語もあるのものの二世が訳したのか「てにおは」がおかしくてテストの設問自体、これは禁止と言っているのか行為を肯定しているのか、どっちかわからんという魔の設問なのだった。

特訓したのでペーパーはパスした。
ペーパーをパスすると日本の仮免と同じく路上で練習運転ができる。ただし免許を取って確か10年の運転歴があるドライバーが同乗しなければいけない。StudentDriverと書いてルーフにガムテープで張っ付けておっきな駐車場でヨタヨタ練習できるわけだ。

幹線道路は50マイルでビュンビュン走ってるし、いきなりそんなところに出たら夫婦で玉砕してしまう。警備員がいそうもない駐車場で一通り曲がれるようになったら、個人のドライビング・スクールでしごいてもらった。

プロなので本番の実地コースを全コース知っている。坂道駐車や車線変更をここはポイントというところを練習してもらって受かった。おじちゃん40歳すぎにして初めて免許を手にした。

ああ、おばちゃんの本当の受難はここからである。毎朝おじちゃんが車の運転席に、おばちゃんは助手席に。通勤コースを同乗して、この辺から進路変更しておけとか、ここは減速してとか、なるべくおじちゃんを刺激しないようにクチクチ教える。

おじちゃんはどうしてもハンドル操作が甘いので、カーブの時などつい手を添えてぐいんと回してしまう場合もある。会社に到着して、おばちゃんが乗って帰ってくる。夜は迎えに行っておじちゃんが運転する。2か月やっておじちゃんが一人で出勤するようになった。携帯を契約して持たせた。

朝出勤したあと20分は電話がかかってくるのじゃないかと気が気ではない。30分経つとたぶん無事についたんだと思う。帰宅の時は帰るコールがあってから15分過ぎにはリビングの窓からパーキングに車が入ってくるかどうか覗く。

そのうち、胃がシクシク痛むようになった。喉の奥が酸っぱい。寝るときは足を曲げて横に寝る。ああ、気持ちが悪い。おばちゃんはかかりつけ医に予約を取った。
How can I help you today?と診察室に入ってきたドクターに
「実はね、ドクター変に聞こえるかもしれないけれど、ウチの主人がこの前やっと運転免許を取ってね、毎日運転するようになったのよ。毎日無事に帰ってくるか心配で心配で、胃がキリキリと痛むんですわ。」
すると
「おぅ!わかるよ」
「わかります?」
「わかるさ、ウチの娘が16でこの間免許を取ったんだ。お互い頑張ろうな」
と制酸剤を処方してくれた。

疑惑のガソリン

ジョイスがメインストリートのシェブロンは行ったことある?と聞くので私はいつもモービルよ。と答えた。

ジョイスがあそこのガス・ステーションは何かおかしいという。ジョイスはそのころ早朝のエクササイズのクラスをとっていて朝5時半にメインストリートを通るのだという。すると茶色一色で車体にロゴが入っていないボロッボロのタンクローリーがガソリンのサプライをしている場面に出くわすのだという。

ねぇ、おかしくない?朝の5時半よ?
シェブロンのサプライ用のタンクローリーじゃないのよ?絶対変よ!
そうだね。内緒でめちゃくちゃ安いスポットのガソリンを買ってるのかしら。

おばちゃんは犬みたいな習性があって、通勤通学で走る道路や、給油するガス・ステーションはいつも同じところだ。一番近くて入りやすいモールのモービルを愛用していた。FastPassをポンプに充てるだけで清算ができるし。

ジョイスの疑惑を聞いてしばらくした後、おばちゃんのガソリン・ビルが急に高くなった。
毎日同じくらいの距離を走り、5日に一回給油をすればよかったものが、4日に一回になった。
おかしいな。この間入れたばかりなのに。

おばちゃんは車が心配になり、ガソリンタンクに穴でもあいたのではないかと疑って日系ガレージに持ち込んだ。このガレージも渡米以来同じところで、車は新車で購入以来ずっと面倒を見てもらっている。

こんなに急に燃費が悪くなるのは何か原因があってメカニックなら発見してくれると思った。
ところが何も悪いところはないという。車でなければ、ガソリンがおかしいのか。

おばちゃんはガス・ステーションをShellに替えてみた。途端に燃費がもとに戻った。
モービルはいつも客がいたしなぜ突然粗悪ガソリンを売るようになったのか理由が分からなかった。
しばらくしてその店舗は売られサークルKに変わった。

いつも同じところで給油するおばちゃんは知らなかったが、人はUnocal74は安いが良くないとか
Arcoは値段は一番安いが品質も最低とか、ガソリンについての議論が色々あるのだった。

おばちゃんはShellに変えて値段も品質も不満はなかったが、ある時うっかりしてフリーウエイを走っている最中にガスが無いのに気が付いた。ナビで一番近いGSを検索したらCostcoと出たので急遽フリーウエイを降りてCostcoで給油した。

Costcoは買い物ついでに給油する人が多く、いつも安いガソリンに車が行列を作っていたがその日の列は短かった。レギュラー満タンで5日走る、ハズ。
が、ガスの減り方が異常に早い。おかしいじゃないかCostco。おばちゃんは二度とCostcoに寄らなかった。

知り合いには何人もあそこでは給油しないという人がいた。やっぱり?というとあそこでガスを入れるやつは馬鹿だね。値段につられて粗悪をつかまされてそれで気がつかないバカ。

別の知人はあそこで給油するようになって燃費が極端に悪くなったので車を売って買い替えたという。
車の前にガソリンを変えればよかったのよ。何かがおかしいと思ったら調べてみよう。
目先のプライスに騙される奴は馬鹿だと、ウォーレンバフェットも言っている。たぶん。

英語の達人

アメリカで暮らしている間に英語の達人は何人も見た。
某、麺会社の支社長は機関銃みたいに英語を繰り出し、取引相手?か、白人のおっさんもタジタジ、社長は口も挟ませず相手にすきを与えない。

某宗教の現地大学の教師も、切れ目がないほど喋りまくる。社会学の教師で話すのが商売なのだから話さないと話にならない。
もう一人の彼女も教師だった。目をじっと見て、あらゆるレトリックとロジックを使って、相手を導き、自分のもつ結論に導いていく。

そういう達人の人たちの英語は、仕事や生活を通じて獲得した能力の一つで、自分の目的を達成するためにある力だった。英語が身を立てるためのゴールではなくて、ゴールを達成するために英語は必要条件なだけ。
判断力、交渉能力、場を読む力は語学に関係ないのであった。

ある時、日本人コミュニティに新顔が増えた。
駐在員家族ではない。いかなる会社も関係していない。アラサー夫婦に小学生が2人。全員留学生ビザと帯同者ビザだという?コミュニティの日本人が頭をひねる、何故?

家族全員で英語を取得するためだという。アラサーの大人が語学学校に3年いたとしてABCニュースを50%理解できてそれでどうなんだ。どの国で生きるつもりなのか。

小学生を数年現地の学校にやって、ぺらぺらと日常会話ができるようになるのは確かだが、それで日本に帰国して、実際どの程度実生活に役に立つかは疑問だ。

さらに、おとうちゃんは学生で収入がないのに一家全員アメリカに移住できるとか、どんな家なのだろう?

アメリカで食って生活している周りの日本人は皆同じ事を思っていたはず。
アメリカで英語ができるのは当たり前、その他の能力がないとここでは生きていけないのに。だから看護学校に進学する。金融・ビジネスを学ぶ。アメリカでは薬剤師が信頼される職業の上位だから、教育費をバイトで必死に貯める。だからみんな、なんだかなぁ、とぬるくその一家族を見守っていた

日本で会社内の公用語を英語にした会社があるそうだ。
例のブログの大家さんの駐在員はToeicの点数だけで選ばれたのだろうか?
実をいうと、おばちゃんはこの耳で、ブログの大家さんの駐在員が現地雇いのローカルの英語がうまいとか、ヘタとか、一緒に赴任した同僚だかの”英語の棚卸”をしているを聞いた。
あほ、じゃないかと思った。

英語ができるだけで仕事ができると思ったのか?


さらに、日本の有名大企業のあのCMを聞くたびにおばちゃんんは苦痛でならない。Inspire the next, , , , ,  と言うやつ。

Next what? 
何をInspireしたいのさ?とイライラしてしまう。Nextの次に来る単語が一番重要です。
だから何を言いたいのかよくわからない。英語スピーカーはみんな同じことを思っていると思う。
日本人のいいたことよくわからない。

1)Future/Lifeーーー inspire the next futureこれが一番しっくりくるけど
  平凡で訴える力が弱いよね。へぇ~それで?ていう。
2)Generation/Technologyー これも同じよね。具体的なビジョンが見えてこない
3)Peopleーーー inspire the next people
これだとCMを作る人の意図が違ってくるよね。
  ものを作ってる会社だし。
Inspire the next Chronosome おう、人類に貢献しそう
Inspire the next Ibaraki 地元貢献は大事
Inspire the next US president アハハ
何か言いたいことを考えてみよう!

おばちゃんも書いたフライヤーの文章がおかしいとか、ネイティブから指摘されて直したよ。
英語としておかしいんだから正しい英語に直せば?と思う。開き直って、ウチの会社のスローガンなんだよ。日本風の表現なんだよ。禅なんだよ。ってか。これは調べたら結構有名らしい。
素直に直しゃいいのに。

ローカルテレビなのかな、おばちゃんがよく見せられるCMがある。
Try the next.
だから何をTryしたいのさ?
これは大学のCMなの。大学・・・!笑える。何を教えるんだろう? わっはっは!

移住のすすめ

明治の文豪は書いた。

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。
意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。

昭和の時代も平成の時代も日本は変わらなかった。おばちゃんには、いつも住みにくかった。

人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。

人でなしの国イギリスは漱石には住みにくかったのだね。黄色人種にとって、当時のイギリスが住みやすい国であるわけがなかったけれど。

今は事情が変わった。
日本人でなしところへ引っ越すと、楽に呼吸ができるようになる場合もある。ただし、己の力が100とすると、日本人でなしの国は常に120%の力がいる。日本人でなしの国で打ち勝つには200%の力がいる。
80%の力で生きて生きたいなら、日本で窮屈になるばかりだ。

生きにくいなぁ
と思ってたら、生きやすい場所を探してみればいいじゃないか。おばちゃんの周りの若い子は、1年、ある子は2年きついバイトをしてアメリカにやってきた。

間借りやルーム・シェアしてボロの車を買って宿題とテストに泣き英語の発音を馬鹿にされて、くやしさに憤慨しつつ言い返すことを覚え、戦って自分の居場所を作っていく。
皆知っていたのだ、人でなしの国が住みにくければ、日本へ帰るしかないことを。

おばちゃんは初めから強かったわけではない。
昭和の昔に姉妹の末っ子に生まれ、自営業の両親は忙しかったので、放し飼いで育った。
近くに気が合う年ごろの子供がいなかったので、好きなことを自分で見つけて一人遊びし、失敗すると親が後始末をしてくれた。

長じて大学に行くとダンナと知り合い、卒業後結婚を申し込まれて結婚した。自分で稼ぐのは面倒くさかったので養ってもらおうと思ったのである。結婚してもデート時代と同じように外食し、ある時映画に行く前にキャッシュカードでお金を下ろそうとしたら、残高不足だった。

ダンナは銀行窓口の知り合いに電話を掛けたが、間違いではなく、ダンナが生活費として引き出して残高は3桁だったのだ。結婚わずか1か月後だった。

おばちゃんは末っ子だったが、ダンナも末っ子だった。ダンナも失敗すると、おっきいお兄ちゃんお姉ちゃんが何とかしてくれたのであった。

困ったわ~。
おばちゃんは、両親から結婚に反対されてて、式には出てくれたものの蔵書とバイクだけが嫁入り道具で新生活を始めたのだった。ダンナがあてにならないなら、自分でも稼がなければならない。おばちゃんは英文科卒という、世の誰もが認める職業生活に必要な技能とも資格とも無縁の人だった。

どうせならと趣味だったバイク屋に就職した。
雇った方は営業もやらせようとしたようだったが、まるっきり無能だったので僻地の支店に飛ばされて事務になった。昭和の時代であった。

そのバイク屋の2年足らずの事務職がわずかに会社組織で働いた経験で、今に至るまで組織の中ではまともに働いたことがない。つくづく組織がなじまない人なんだ。

背が高くて運動神経がよくてスポーツクラブに勧誘されたけれど、チームスポーツは絶望的にあっていない。もくもくと泳ぐ水泳ならできた。でも秒を争う競技として、そんなの意味あるの?他人と速さを競って何が面白い?スポーツって自分でやって面白さを楽しむものでないの?なんだか必死すぎてバカみたい。

というわけで組織と無縁の人生を送り、先輩もなければ後輩もなく常にSole Playerである。

トム・ガール Tom Girl

おばちゃんが協調性のない性格に育ったのはヨシハル君のせいじゃないかと思うの。
近所に同じような年ごろの子はヨシハル君くらいしかいなくてヨシハル君は私より小っちゃくてスピードが遅かったのね。おばちゃんはせっかちで待ってられなかったから一人で遊ぶようになっちゃったのよ。

タモをもって田んぼの水路にタナゴを掬いに行ったり。暗渠には小魚が集まるのよ。ドジョウなんて雑魚だから。婚姻色がでたタナゴが宝物だったから。すごくキレイなの。

大きい池の場合は手が届かないので裏の竹藪から竹を切って物置に落こってた浮きをつけて、餌はどうしていいか分かんなかったから、駄菓子屋さんに買いに行ったの。売っていなかったわ。

タナゴは捕まえたあと、水槽に入れて飼うんだけど淡水魚は水が流れている環境じゃないと自然の美しさが褪せてしまうのね。池があるといいなぁって。それでおばちゃんは玄関の坪庭にスコップで穴を掘った。そして父から叱られた。

上のお姉ちゃんたちは相手にしてくれないし、隣の敷地の従弟ももう高校生になってて小汚い
男の子みたいなちっちゃな従弟には興味が無くてオートバイを乗り回していた。
バイクっていいなと思ったのよ。好きなところにどこへでも行けるじゃない。行動の自由があるってすごいわよね。

保育園の時からみんなで一緒に行動しないといけないのがイヤだった。良く脱走して隣の小学校のプールの基礎の下に逃げたわ。絵本もかくしてあったし。目の前の田んぼのオタマジャクシを見てる方が幸せだったし。

ヨシハル君も遊び相手にならないし、お姉ちゃんたちも相手にしてくれないからおばちゃんは本を発見した。文字の読み方は教わった記憶がないの。一人で本を見つけた気がする。一冊の本に一つの世界が詰まっていて衝撃だった。

自分の知らない世界、川の向こうや山の向こうの世界。おばちゃんは小学校の図書館でせっせと本を借りだした。少年少女世界文学全集なんて繰り返し読んだわね。偉人伝は避けた。1冊読んだらつまんなかったんですもの。

不運な境遇にも負けず親孝行しながらコンナ偉大な人になりました。なんて馬鹿じゃねぇ、気持ち悪いし。

16歳になるまで長かったわ。原付の免許が取れるのが16歳高校生。高校生がバイトできる時代でも環境でもなかったからおばちゃんはまだ我慢するしかなかった。その代わりにバイクの雑誌を買って研究した。どのモデルがカッチョいいか?原付の免許はこっそりとった。

大学。念願の一人暮らし。
最初の夏休みに車の免許も取ったからもう車なら公道も走れるの。初めてのバイトをして少~しづつ貯金をして2年目の秋についにバイクを買ったの。

一人でバイク屋さんに行って、下見をしておいたスズキのマメタンを指さしてこのバイクをくださいって。
背もたれのシーシーバーを特注で付けてね。納車の日、ヘルメットを片手にバイク屋さんに行って
残金を払ってキーをもらったのね。

それでおばちゃんは思い切ってバイク屋さんのお兄さんに、どうやって運転するんですか?って聞いたの。だってバイク雑誌にはエンジンのかけ方が載ってないから。

おばちゃんの運動神経はいいのよ。
野っぱら駆け回ってたから短距離と障害物競争は1番よ。学校も自転車で通ってたしね。バイク屋さんでエンジンのかけ方を教われば、アパートまで帰れた。駐車場は近くに借りたし。

バイクの運転テクニックというのは自分で転んで覚えるしかなかったわ。昭和の末に女の子がバイクを乗ること自体がまれだったから、同好の女子は存在しなかったの。大学では幻のスズキと言われていたらしい。

その当時おばちゃんにとってバイクとは移動の手段の中で好ましい乗り物であって、バイク人生とかバイク文化を目指していたわけではなかった。バイクの運転技術とか性能とかそれほど興味が無かったしね。バスとか通勤電車のように他人と接することがない一人で風の中を移動できる快適さが快かったの。

何がやりたいのかまだモヤモヤとして形になってなかったわ。もっと広い世界に行ってみたかった。
学校とクラスメートとサークルとバイトの世界。自分とは少し違うけど変数の内に収まるタイプの人々。一度ナニナニ方面ナニナニ風タイプと定義されると、その定義に合うように一生懸命努力する人と人生。

な~んか違うんじゃないかな。
なんだかよく分からないけど卒業して結婚して子供を産んでという一般コースはどうしても魅力的に思えなかったの。

おばちゃんの父は長男で、3人女の子が続いた4子がまた女の子だったから、子供のころからお前が女の子だったらと言われ続けて育ったのよ。これは地方のご先祖さまのプレッシャーを考えると、父も母も大変だったと思う。渡米してからこういう女の子をトム・ボーイならぬトム・ガールTomGirlと言うんだと知ったわ。

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